第4話 海亀との邂逅
「ああ、よく働いたわ……」
少し長くなった木陰の脇で、ベアトリーチェは大きく伸びをした。久しぶりに思いっきり体を動かしたので清々しい気分だ。
リカルドとの勝負は負けてしまったが、そのおかげで大量のバナヌを収穫できたのでよしとしよう。そもそも、よく考えればナイフを持った騎士に勝てるはずがない。
――楽しい時間はあっという間ね。
ちら、と肩越しに背後を振り返る。そろそろエンリコの着替えも終わった頃だろう。
農場見学に夢中になるあまりに服が泥だらけになってしまったので、一足先に馬車に戻っているのだ。替えの服はエンリコに惚れ込んだ農場長が、息子にあげる予定のものを譲ってくれた。
――ちょっと予想とは違ったけど、満足してもらえたようでよかったわ。
達成感に満たされながら、勢揃いした農民たちにカーテシーをする。メリッサの姿が見えないのが少し気になったが、きっと忙しいのだろうと自分を納得させる。
「では、皆様。ご機嫌よう。近いうちにまた伺いますわね」
「なぁ、お嬢様。その口調、似合わねぇからもうやめたら?」
「しっ! エンリコ様に聞こえちゃうでしょ! ここは合わせてよね!」
最後まで締まらないことに肩を落としつつ、エンリコの待つ馬車に戻る。しかし、そこにいるべき御者の姿はどこにもなかった。
――ニケったら、お客様をほったらかして何をしてるのよ!
内心の苛立ちを隠し、馬車のそばでエリュシオンと戯れているリカルドに恐る恐る問いかける。
「あの、ニケは……?」
「なんだかお腹が痛いとかで、用足しに行っていますよ」
「えっ? お昼のサンドウィッチが傷んでいたのかしら……」
心配になって探しに行こうとしたその時、一面に生い茂るバナヌの木の向こうからニケが戻ってきた。ふらふらとおぼつかない足取りで、顔も青ざめている。
まだお腹が痛むのだろうか。いつも身につけている腰布を腹周りに巻き、少し前屈みに押さえている姿はとても弱々しく見えた。
「お待たせして申し訳ありません。すぐに出発いたしますね」
「ねぇ、大丈夫? 無理しないで、もう少し休んでいてもいいのよ?」
御者台に座ろうとするニケの袖を引き、顔を覗き込む。ニケは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの調子で笑った。
「大丈夫ですよ。お客様をお待たせするわけにはいきません」
「でも……」
「本当に大丈夫ですって。そうだ、お嬢様。せっかくですから、海に寄って帰りませんか? 農場だけというのも味気ないでしょう。今なら人も少ないと思いますし……」
ちら、とニケに視線を向けられたリカルドが鷹揚に頷く。
「私は構いませんよ。エンリコ様がよければですけど」
「ねっ、お嬢様。ケルティーナに来たからには、あの白い砂浜を見てもらわなきゃ」
やけに勧めてくるが、待たせたお詫びのつもりだろうか。確かに入国時は限られた港からしか入船できないので、ベスタ領の海はバルコニーからでしか見せられていない。
「じゃあ、聞いてみるけど……。でも、無理はしちゃダメよ? 辛くなったら、すぐに言ってね? 約束だからね」
念押しして馬車に乗り込むと、エンリコは窓から外を眺めていた。
さっきニケが歩いてきた方向だ。バナヌの木々の奥には休耕地が広がり、伸び始めた雑草が風にそよいでいる。
「お待たせいたしました、エンリコ様」
「いえ、こちらこそ長々とお付き合いさせて申し訳なかった。つい時間を忘れてしまって……。その上、服までいただいて、なんとお礼を言えばいいのか」
エンリコは恐縮した様子で眉を下げると、幾何学模様だらけのシャツに目を落とした。
――エンリコ様ったら、本当に体格がいいのね……。
ケルティーナの服は風通しがいいように大きめに作られているが、それでもエンリコには少々小さかったようで、肩や二の腕周りがパツパツになっている。
「お気になさらず。エンリコ様とたくさん話せて、農場長も喜んでいましたわ」
微笑むベアトリーチェに、エンリコの表情も少し緩む。それに勇気づけられて、海に行きませんか、とニケの提案を口に出す。
思ってもいない提案だったのか、エンリコは小首を傾げて少し逡巡した後、小さく頷いた。
「いいですね。ぜひ」
――やったわ! ニケのおかげで、エンリコ様と過ごす時間が増えたわ。
浮き立つ気持ちを抑えながら、窓に寄る。
「ニケ、いいって!」
窓を開けて声を上げると、御者台に座っていたニケが満面の笑みで頷いた。
ベアトリーチェが座席に腰を掛けたのを合図に、馬車がゆっくりと動き出す。
徐々に遠ざかっていく農民たちに手を振っていると、エンリコがじっとこちらを見つめていることに気づいた。その視線の強さに少したじろぐ。
「あ、あの、私の顔に何かついていますか?」
あたふたと顔を拭うベアトリーチェに、エンリコが小さく笑みを漏らした。
昨夜と今日と色々話したが、こうして笑い声を聞いたのは初めてで、思わず目を丸くする。
「失礼致しました。昨日も思いましたが、あなたのカーテシー、とても美しいですね。見るだけで背筋が伸びるような心地がします」
「えっ? あ、あら、そんな。恐縮ですわ」
――これだけは、家庭教師にも褒められたからね!
小躍りしたくなるのをグッとこらえて、努めて淑女らしく振る舞う。
男はみんな嫋やかな乙女が好きだ。エンリコもきっとそうだろう。たとえすぐにボロが出るとしても、少しでも好印象を持ってもらいたかった。
和やかな雰囲気の中、馬車は粛々と進み、どこまでも続く白い砂浜が見えてきた。
昨日とは違い、まだ日が落ち切っていない海は銀色の飛沫をあげて光っている。
その波打ち際で、手に棒切れを持った子供たちが楽しそうにはしゃいでいた。どうやら近くの村から遊びに来ているらしい。
――あら、微笑ましくていいわね。
目を細めた時、子供たちの中央に逆さになった海亀がいることに気づき、一瞬で頭に血が上った。停止した馬車から勢いよく飛び降り、拳を振り上げる。
「コラーっ! 何、やってんの! 海亀は精霊様の化身なんだから、いじめるなって言ってるでしょ!」
砂をものともせずに駆け寄ると、子供たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「全くもう! 躾がなってないんだから!」
振り上げた拳を下ろし、はあっと息をつく。
「ごめんなさい、精霊様。後でしっかり叱っておくから、バチ当てないでね」
謝りながら、哀れにひっくり返った海亀を元に戻す。大きな甲羅の真ん中にハートみたいな模様が見える。
怯えさせないよう、そっと優しく撫でると、海亀はよろよろと海に帰っていった。
「驚いたな。この海には海亀が棲んでいるのですね」
背後からかかった声にビクッと肩がすくんだ。いつの間に馬車を降りたのだろう。手が届きそうなほど近くに立ったエンリコが、目を細めて海の向こうを眺めていた。
――やだ。さっきの見られちゃったわよね。どうしよう。頑張って猫を被ってたのに。
「あの……。さっきのこと、できれば忘れてください。はしたなかったですよね。あんなに大声上げて、全力で走って……」
みっともなく声が震えている。エンリコは驚いたように目を見開き、しゃがんだままのベアトリーチェを見下ろした。
「まさか。元気なのが一番ですよ。はしたないと、そう言われたことがあるのですか?」
「……昔、ある殿方たちに……」
ベアトリーチェの告白に、エンリコの眉がぴくりと跳ねる。
あれはいつだっただろうか。伴侶の座狙いの男たちが、ベアトリーチェの容姿を誉めそやしたその口で「あのじゃじゃ馬には参るよ」「黙ってりゃ文句ないのにな」と、陰でこそこそ言っているのを聞いたことがあるのだ。
その時は「何よ!」と憤慨したものだが、まるで低温火傷を負ったように後からジクジクと疼き出した痛みは、いつまでもベアトリーチェのささやかな胸を苛んだ。
「そんな言葉に傷つく必要はありません。あなたの魅力をわからない男たちなど、放っておきなさい」
キッパリとした口調に、涙がこぼれそうになる。きっとエンリコに他意はない。知り合ったばかりのベアトリーチェを女とは見ていないだろう。
それでも、あるがままの自分を肯定してもらえたようで嬉しかった。
「……この海、とても綺麗でしょう? 何千年も前から、変わらない景色なんですよ」
「ああ……」
そこでエンリコは言葉を切った。どうしたのかと思って視線を上げると、海の底のような青い瞳とかち合う。
「綺麗だ、とても」
その目は、どこまでもまっすぐベアトリーチェを見つめていた。
「……ベアトリーチェ様、お話があります」
日暮れと共に屋敷に戻ったベアトリーチェを待ち構えていたのは、顔面を怒りに引き攣らせたロレンツォだった。
その後ろで、髪を下ろしてベアトリーチェのローブを着たヴィットリオが、片目を瞑って申し訳なさそうに片手を上げている。
どうやら偽装がバレたらしい。ささっとローブを脱ぎ捨てたヴィットリオにエンリコとリカルドの先導を任せ、ベアトリーチェはロレンツォに大人しく連行された。
「いい加減にしてください! 俺はあなたの護衛騎士ですよ! いなくなって、どれだけ心配したと!」
自室の扉を閉めた途端に叫ばれ、ジンジンする耳に手を当てる。
ロレンツォにバレたということはカテリーナたちにもバレているのだろう。また昨夜の喧嘩を繰り返すかと思うと憂鬱だった。
「お母様たちはなんて?」
「こんなこと言えるわけないでしょう! 体調不良で部屋に籠っていることにしておきましたよ! ちゃんと口裏あわせてくださいね! 怪しんでましたから!」
「ありがとう、ロレンツォ! 大好き!」
感極まって抱きつくと、ロレンツォはわかりやすく狼狽えたが、怒りの方が強かったのか、すぐにベアトリーチェを引き剥がした。
「もう誤魔化されませんよ! 明日からは一歩も外に出しません! 客人と会うことも禁止です! 自重してください!」
「ええっ、そんなぁ。せっかく少し打ち解けられたのに」
「いずれ帰られる方なんですよ! 傷は浅い方がいいに決まってる! 向こうだって、八つも下の子供のことなんてすぐ忘れますよ!」
「そんな言い方……!」
ベアトリーチェが傷ついたことに気づいたのだろう。ロレンツォはバツが悪そうな表情を浮かべ、そっと目を逸らした。
「わかってください、ベアトリーチェ様。ニーナも、俺も、ヴィットリオ様も、みんなあなたの事を心配しているんですよ」
余計なお世話だわ、と口にするほど子供ではない。
「今日はお疲れでしょう? ゆっくりお休みくださいね」
少し和らいだ口調でこちらを気遣うロレンツォに、ただ頷くことしかできなかった。
一歩も外に出さない、との宣言通り、次の日からロレンツォは片時も離れなくなった。それどころか見張り役の護衛騎士を総動員し、ありとあらゆる出入り口に配備する徹底ぶりである。
そこまでロレンツォを駆り立てたのはベアトリーチェのせいなのだが、お手洗いにまで女性騎士を張り込ませるのはさすがにやりすぎだと思う。
頼りのヴィットリオも「今回は姉さんが悪いと思うよ」と、けんもほろろだ。何とかしてエンリコと話す時間を取れないか試みたが、向こうも遠慮しているのか、必要以上にこちらに近づいて来てはくれなかった。
「……エンリコ様が城に行くまで、あと一週間しかない……このまま終わるなんて嫌!」
自室の中で、赤毛を掻きむしりながら窓に近づく。下にはモコモコの植え込みが等間隔に並んでいて、その間を猫や鳥がのんびりと行き交っている。
護衛騎士の姿は見えない。さすがに三階からは抜け出せないと思っているのだろう。
しかし、ベアトリーチェには精霊の力がある。鳥のように飛ぶことはできないが、短時間なら浮くことはできるのだ。浮遊の力は精霊の力の中でも希少なものなので、カテリーナとエルラド以外には口外するなと言われている。
「初めてこの力があってよかったと思うわ」
周囲に人気がないことを確認して、窓枠に足をかける。怪我をしないとわかっていても、飛び降りるのは怖い。でも、怯んでいても何も始まらない。気合いを入れるためにグッと唇を噛み、思い切って窓から飛び出した。
悲鳴を必死に噛み殺し、足が地面に着く直前に力を使う。ふわ、と重力が消えた感覚がして、ゆっくりとつま先が土に触れる。
浮遊の力は体力も多く使う。少し怠くなった体を叱咤し、植え込みの脇に身を屈める。
「よし、上手くいったわ。後はエンリコ様を探して……」
「ベアトリーチェ様?」
背後から飛んできた声に、体が思わず硬直した。誰もいないと思っていた植え込みの向こうから、エンリコの側近ミゲルが不思議そうにこちらを見つめている。
――浮いたの、見られてなかったわよね?
内心冷や汗を掻きながら、こちらに駆け寄るミゲルにカーテシーをする。
「ごきげんよう、ミゲル様。エンリコ様はどちらにいらっしゃるの?」
「エンリコ様はエルラド様と共に織物工房に向かわれています。フランチェスカも羊毛織が盛んですし、こちらのお部屋の刺繍に大変興味を示されたようで」
そういえば、宵っ張りのエルラドにしては珍しく朝から出かけて行った。まさか、エンリコを案内するためだったとは。
――お父様ったら、何で言ってくれないのよ!
おそらく、ベアトリーチェが知れば行きたがると思って黙っていたのだろうが、蚊帳の外に置かれたみたいで面白くない。
「……じゃあ、今日はお会いできないのね」
せっかく抜け出したのに、という言葉は飲み込む。
「ベアトリーチェ様! いつの間にそんなところに! 逃しませんよ!」
「やだ、ロレンツォ! もう気づいたの? こういう時ばっかり勘が働くんだから!」
頭上から降ってきた怒鳴り声につい素が出たが、取り繕う余裕はない。
早く逃げないと部屋に連れ戻されてしまう。たとえエンリコと会えなくても、せっかく手に入れた自由を早々に手放すのはゴメンだった。
「ミ、ミゲル様、申し訳ありません。私、急用が……」
「ベアトリーチェ様!」
一足遅かった。
ミゲルに一礼して踵を返そうとした時、怒りで顔を真っ赤にしたロレンツォが突進する猛牛のごとく駆け寄ってきた。
ひどく鼻息が荒い。三階から全力疾走してきたようだ。
「あ、あら、ロレンツォ。どうしたの? そんなに慌てて」
「とぼけないでください! 用もないのに部屋を出るなとあれほど……」
「用ならございますよ」
横から割って入ってきた飄々とした声に、ロレンツォが眉を顰める。ミゲルは一歩前に出ると、戸惑うベアトリーチェを庇うようにさりげなく背中に隠した。
「私どもは今、後学のためにこちらの書庫を拝見しております。ああ、もちろんカテリーナ様からご許可はいただいておりますよ? しかし、お恥ずかしい話ではございますが、私どもはケルティーナの古語に明るくなく……。ベアトリーチェ様に翻訳をお願いできないかと参りました次第です」
すらすらと捲し立てるミゲルに、ロレンツォは怒りも忘れ、呆気に取られた顔をしている。
だが、すぐにハッと我に返ると、大きな体躯をすっと伸ばし、威嚇するようにミゲルを見下ろした。
「お客人には大変申し訳ありませんが、ベアトリーチェ様は次期当主としてお忙しい身の上です。古語でしたらヴィットリオ様もご堪能でいらっしゃいますので……」
「私どもも、大事なお嬢様のお手を煩わせるのは心苦しいのですが……。カテリーナ様もヴィットリオ様もお出かけになっているご様子でして、他にお頼りできる方がいないのです。それとも、あなたにお願いできますか? ロレンツォ様」
体格差をものともせずにこやかに微笑むミゲルに、ロレンツォはグッと喉を詰まらせた。
ケルティーナの古語は精霊の力と同じく、もともと女性だけに受け継がれていたものだ。時代が流れて男性も触れる機会が与えられたとはいえ、詳しく知るものはそうそういない。
ベスタ家では勉強家のヴィットリオぐらいだろう。ロレンツォも簡単な単語ぐらいは読めるが、とても翻訳できるレベルではなかった。
「あら、それは仕方ありませんわね。お母様もヴィットリオもいないのなら、お客様をおもてなしするのは私の役目ですわ。ねぇ、ロレンツォ。そうよね?」
ミゲルの背中から顔を出して笑みを向けると、ロレンツォはぎゅうっと唇を噛み締めて渋々頷いた。
「俺もついていきますからね!」と付け加えるのは忘れなかったが。
「ありがとうございます、ミゲル様。お陰で助かりましたわ」
「何のことでしょう? 私はただ、思ったことを口にしただけですよ」
後ろに続くロレンツォに聞こえないよう囁くと、ミゲルはとぼけた様子で小首を傾げた。
その仕草は先日エンリコが見せたものとよく似ていて、ベアトリーチェは思わず声を上げて笑った。