第2話 エンリコ・デッラ・フランチェスカ
――なんて綺麗な髪なのかしら。
ヴィットリオと共に客間に通された瞬間、その見事さに目を奪われた。まるで金糸のような艶やかな金髪が、窓から差し込む光に照らされて輝いている。サファイアみたいに煌めく青い瞳も、見ていると吸い込まれそうなほど美しい。
背はロレンツォと同じぐらいだろうか。すらりと伸びた均整の取れた体は、偉丈夫の名に相応しいものだった。見た目の優美さに反して視線は鋭く、表情も無愛想で少し怖かったが、それすらも男らしさを際立たせているように見える。
――きっと、お伽話に出てくる騎士って、こういう人のことを言うんだわ。
さっきまで会うのを渋っていたことも忘れ、大きく胸が高鳴った。まるで心臓が早鐘になったみたいにうるさい。そんな気持ちを知ってか知らずか、客人はベアトリーチェの眼前に歩み寄ると、恭しく胸に手を当てて首を垂れた。
「初めまして。エンリコ・デッラ・フランチェスカと申します。王家の名代で参りました。この度は女王陛下に拝謁する機会を与えていただき、誠にありがとうございます」
――やだ、声も素敵。
ぼうっと見惚れていると、後ろからヴィットリオに小突かれた。エンリコの向こうで母親のカテリーナが怖い顔をしているのに気づき、慌ててカーテシーをする。
「は、初めまして。ベアトリーチェ・ベスタと申します。こちらは弟のヴィットリオです。ケルティーナにようこそお越しくださいました。栄えあるランベルト王国の公爵様にお会いできて光栄ですわ」
「ああ、いや、私はまだ公爵位ではありません。現公爵の父は今、体調を崩しておりまして、私が代わりに伺った次第です。不調法で誠に申し訳ない」
「えっ、いえ、そんな、そんなことはっ」
さらに深々と頭を下げるエンリコに、必死で両手と首を横に振る。こんなことなら、もっと真面目に来客についての説明を聞いていればよかった。
背後からヴィットリオのため息が聞こえ、こちらを凝視するカテリーナの顔が大きく引き攣った。怒りに吊り上がった榛色の瞳が「このバカ娘!」と叫んでいる。
「エンリコ様、長旅でお疲れでしょう。お部屋をご用意しておりますので、少しお休みになりませんか? お食事の準備が整いましたらお呼び致しますので」
父親のエルラドが、穏やかな口調でフォローを入れる。さすがお父様だわ、と思っていると、エルラドから含みのある視線を向けられ、ドキッと胸が跳ねた。
「ベアトリーチェ。エンリコ様を来賓室にご案内しておくれ。くれぐれも粗相のないようにね」
「はいっ! 喜んで!」
失態を取り戻すチャンスと、今にも爆発しそうなカテリーナから逃げ出すチャンスをくれたのだろう。
二つ返事で了承し、恐縮するエンリコを連れ、そそくさと客間を後にした。
「こちらがエンリコ様のお部屋です。ご滞在中はご自由にお使いください」
エンリコの部屋として用意された来賓室は、ベスタ家の中でも一番広く、一番豪奢な部屋だ。
中は大きく三つに分かれていて、右手には浴室と洗面所、左手には寝室がある。そして、中央には渋い色合いのローテーブルとソファが置かれ、窓から差し込む日差しを存分に浴びられるようになっている。
細やかな刺繍がなされた緋色のカーテンは全て職人の手作りだ。夜空を思わせる濃紺色の絨毯も、空間に落ち着いた彩りを与えている。
正直なところ、ベアトリーチェから見れば幾何学模様だらけで飽き飽きなのだが、エンリコには目新しいものに映ったようで、しきりに青い目を瞬かせ、感嘆の息を漏らしている。
「素晴らしいですね。こんなに明るくて開放的なお部屋は初めてです。刺繍も見事だ」
ここまで喜んでもらえると素直に嬉しい。顔がにやけそうになるのを必死にこらえ、バルコニーへ続く出窓を開ける。
「よろしければ、バルコニーに出てみませんか? 海が見えるんですよ」
エンリコを促してバルコニーに出ると、潮の香りを含んだ風が二人の髪を揺らしていった。
ちょうど日が沈む時間帯だ。鮮やかなオレンジ色をした夕日が水平線に溶け、まるで海が燃えているように見える。
「すごいな……」
それは心から出た言葉のようだった。景色に目を奪われた様子のエンリコに、どうしようもなく心が浮き立つ。
「夜には星が一面に見えますよ。もちろん朝焼けも綺麗です。海面を泳ぐ魚に反射して、キラキラって光るんですよ。エンリコ様はお風呂お好きですか? 少し離れていますが、領内に温泉があって、そこには色んな動物たちも……」
ベラベラと一人で捲し立てていることに気づき、ハッと我に返る。
「ごめんなさい。他国からのお客様は初めてで、ついはしゃいでしまって……」
「いえ、とても興味深いです。ベアトリーチェ嬢はこの国が大好きなのですね」
その問いには答えずに、曖昧に微笑む。
「あの……ランベルト王国では様々な民族の方がお住まいだと聞いています。エンリコ様のような金色の髪の方も多くいらっしゃるのですか?」
「いや、これは王家の血を引くものだけに現れる髪色なのです。初代国王は遠い他国から流れてきたものでして、建国から四百年経った今でも、子孫の他に金髪青目を持つものはおりません」
「そうなのですね……。すみません、あまりにも綺麗な髪だったから……」
また無知を晒してしまった。恥ずかしさに顔が赤くなる。そんなベアトリーチェにエンリコは相変わらずの無愛想な顔を向け、少々固い口調で呟くように言った。
「あなたの赤毛も、とても綺麗ですよ。まるでお伽話に出てくる精霊様のようだ。そのアメジストの髪飾りもよく映えている」
「えっ?」
予期せぬ言葉に、しゃっくりみたいな声が漏れた。聞き間違いではないかとまじまじと見つめると、エンリコはふいと顔を逸らし、沈む夕日に視線を戻した。
次期当主の伴侶の座を狙う男たちに、容姿を褒められたことは数えきれないほどある。正直、自分でも「まあまあイケる方よね?」と思っている。
――でも、こんなに嬉しかったことは初めて。
熱くなった頬を隠すように、海に視線を向ける。隣り合った肩が触れるか触れないかという距離が、とても心地いい。
その言葉のない交感は、いつまでも戻らないベアトリーチェを心配したヴィットリオが様子を見にくるまで続いた。
「ご紹介致します。こちらは側近のミゲルとマッテオ、そして護衛騎士のリカルドです。三人とも私が子供の頃からの付き合いで、常に私を支えてくれているのですよ」
燭台の穏やかな明かりが灯る食堂の中、エンリコの紹介に従い、ミゲルたちが頭を下げる。従者が三人とは少ないような気もするが、きっと選ばれた精鋭たちなのだろう。
ミゲルとマッテオは口元に笑みを浮かべながらも、揃いの銀縁の眼鏡の奥から、髪と同じ灰色の瞳を油断なくこちらに向けている。
淡いブラウンの髪と瞳のリカルドは、エンリコよりも小柄で優しげだったが、その立ち居振る舞いには全く隙がなかった。
「さあ、皆様お席にどうぞ。ケルティーナ料理をご堪能いただけたら幸いですわ」
促すカテリーナの後に続いて足を踏み出した瞬間、つまずきそうになって必死に踏ん張る。隅に控えるロレンツォが心配そうな顔をしたが、気づかないフリをした。
いつもはもっと明るいから、感覚が掴みづらいのだ。精霊の力は他国の人間には無闇に明かさないことになっている。
料理長渾身のフルコースはエンリコたちのお気に召したようで、こちらがびっくりするほどの勢いで皿から消えていく。それに負けじとフォークを伸ばすヴィットリオを横目に、ベアトリーチェはエンリコに声を掛けた。
「あ、あの……エンリコ様はご結婚されているのですか?」
不躾な質問に、カテリーナの目が吊り上がる。しかし、エンリコは気分を害した様子もなく「いいえ」と端的に答えた。
「恥ずかしながら、二十四になってもまだ独り身です。私には兄弟がいないので、早く身を固めねばと思ってはいるのですが」
――やった! フリー!
喜びのあまり、言葉も弾む。
「あら、エンリコ様ほどの素敵な方でしたら、引く手数多でしょうに」
「まさか。私は体の丈夫さしか取り柄のない男ですから……。ですが、おかげで誰よりも多く小麦を刈ることができます」
――え? 小麦? 次期領主様も農作業なんてするのかしら?
聞いてみたいが、また無知を晒しそうで口に出せない。ヴィットリオが訳知り顔で頷いたから余計にだ。
「ご存知かと思いますが、フランチェスカは小麦の一大産地ですので……。収穫時には領主も率先して刈り入れを行うのです」
ベアトリーチェの物言いたげな視線に気付いたミゲルがフォローを入れてくれた。
「ええ、我がフランチェスカは辺境の田舎ですが、二つの川に挟まれたとても豊かな土地です。領民たちも皆、明るくて働き者だ。夏には一面の麦穂が実り、日の光を浴びると、まるで黄金色の絨毯のように見えるのですよ」
そう語るエンリコの顔は少しはにかんでいて、言葉の端々から自領であるフランチェスカを心から愛しているということが伝わってきた。後を継いだら間違いなく良い領主になるだろう。
ケルティーナから出たことのないベアトリーチェにとって、エンリコとの会話はこの上なく刺激的だった。
気づけば皿はデザートまで全て空になり、グラスには一滴の酒すら残っていない。話し疲れたのか、それとも酒に弱いのか、エンリコは少し眠そうにしている。
「そろそろ戻られますか? お部屋までご案内いたしますね」
名残惜しいが、これ以上引き留めては失礼にあたる。しかし、エンリコを先導しようと席を立った時、いつになく真剣な顔をした両親に「待ちなさい」と呼び止められた。
「ベアトリーチェ、あなたはここで片付けを手伝ってちょうだい。ヴィットリオ、あなたが代わりにご案内して差し上げて」
「そうだね。ロレンツォもご苦労様。あとは私たちに任せて下がりなさい」
一体、どういうつもりだろう。嫌な予感がひしひしとする。
反論を許さない口調に、ヴィットリオは戸惑いつつも、エンリコたちを連れて食堂から出て行った。後ろ髪を引かれた様子のロレンツォも後に続く。
「あ、あら、ごめんなさいお母様、お父様。私、ちょっと食べ過ぎたみたいでお腹が痛くて……。すぐにお手洗いに行かないと……」
「そんな嘘で私たちを騙せると思ってるの?」
「そうだよベアトリーチェ。嘘はよくないね」
さすが親だ。逃げ出すのを阻むように両脇からガシッと肩を掴まれ、渋々観念する。
「……カテリーナ様、エルラド様、私たちは先に厨房を片付けて参ります」
不穏な空気を察知した使用人たちが食堂から出るのを待って、カテリーナがようやく本題に入った。
「ねぇ、ベアトリーチェ。正直に答えてちょうだい。あなた、エンリコ様をお慕いしているの?」
その言葉が脳に届いたと同時に、文字通り体が飛び上がった。
無意識化に出た浮遊の力だ。肩を掴んでいたのはそれを予期してのことだったらしい。二人がかりで引き戻され、つま先がすとんと床に降りる。
「な、な、何でわかったの!」
「わかるわよ! だってあなた、初めてエルラドと会った時の私と同じ目を……」
その先はエルラドの咳払いで遮られた。いつも穏やかな微笑みを浮かべている頬が、少し赤くなっている。
エルラドは翡翠のような瞳を瞬かせ、戸惑うベアトリーチェを優しく見つめた。
「ベアトリーチェ、エンリコ様はフランチェスカの後継だ。いくらお前がお慕いしたって、この国に来てもらうことはできないんだよ」
「そんな……。なら、私がフランチェスカに」
「何を言ってるの! あなたはベスタ家の次期当主なのよ? 他国に嫁ぐなんて許しません!」
まるで頬を打たれたような気持ちだった。一瞬の間を置いて、腹の底から激しい怒りがこみ上げてくる。
「勝手なこと言わないで! 私は次期当主なんて望んでない! 後を継ぐならヴィットリオでもいいじゃない! どうして私に全て押し付けるの!」
「それがあなたのためなのよ! 私も、お婆様も、そのまたお婆様だってみんなそうしてきたの。あなただって、この国が嫌いなわけじゃないんでしょう?」
「そんな言葉で縛り付けないで! 私は自由でいたいの! 鳥籠に押し込められた小鳥になんてなりたくない!」
「! ベアト!」
顔色を変えたカテリーナが右腕を振り上げる。それを咄嗟に抑えたエルラドが、カテリーナの体を優しく抱きかかえた。
「落ち着きなさい、二人とも。話し合う時は感情にまかせちゃ駄目だよ。ほら、深呼吸してごらん? ひとーつ、ふたーつ……」
子守唄のような響きが六を数えた頃、ベアトリーチェもカテリーナも幾分か落ち着きを取り戻した。お互い年甲斐もなく喚き散らした手前、目を合わせるのは少々気まずい。
カテリーナはエルラドの腕の中で悲しそうに俯き、さっきとは打って変わった、か細い声で言った。
「……あなたの気持ちもわからなくはないの。でもね、ベアトリーチェ。あなたはこの国しか知らないでしょう? 海の向こうって、とても素敵に思えるかもしれないけれど、お伽話みたいに綺麗なものじゃないのよ……」
「……そんなの、行ってみないとわからないじゃない……」
呻くように呟くベアトリーチェに、カテリーナが力なく首を横に振る。
「わかるわよ。あなたは私の娘だもの。あの国に行けばきっと……」
「やめて! もう聞きたくない!」
さらに言い募ろうとしたカテリーナを遮り、食堂を飛び出す。子供じみたことをしているとはわかっている。しかし、どうしても我慢できなかった。
「ベアトリーチェ!」
呼び止める声を振り切るように廊下を駆け、自室に戻る。ベッドに飛び込んだ弾みで、枕元に置いていた本が床に落ちた。
開いたページに、空を飛ぶ鳥を眺める騎士と姫の挿絵が見える。それを指でなぞりながら、自分に言い聞かせるように呟く。
「……どんな人間だって、鳥が飛び立つのを止められやしないわ」
体を起こし、窓から差し込む月明かりを頼りに、拾い上げた本を本棚に戻す。今日は月が綺麗だ。明日もきっと晴れるだろう。
窓に映った榛色の瞳が、夜空を焦がす星のように瞬いていた。