第1話 ベアトリーチェ・ベスタ
――あの海の向こうには何があるのかしら。
燃えるような赤毛を風に靡かせながら、さらさらと鳴る砂浜の上に立ち、ベアトリーチェは眩く輝く海面に視線を落とした。
今日の空を写し取ったみたいに青く透き通った波打ち際を、極彩色の魚がゆっくりと横切っていく。時折、鼻をくすぐる潮の香りは母親の作るスープよりも記憶に刻まれている。
周囲に広がる鬱蒼と茂った森も、目が痛くなるほどに白い砂浜も、繰り返し寄せては返す波の音も、いつもの日常とちっとも変わらない。
ここ、ケルティーナは海洋に浮かぶ群島諸国だ。何千年も前から、精霊が息づく森と共に生きてきた。
ベアトリーチェの住む島はその中でも一番国土が広く、麗しき女王陛下の居城があるおかげで、それなりに文化も発展している。しかし、それでも海向こうの他国には到底及ばない。唯一、自信を持てるのは植物の加工技術ぐらいだろうか。
「あと、これよね……」
手のひらを上に向け、軽く握った後でそっと開く。よく日に焼けた小麦色の肌の上で、小さな火の玉が風に揺られて踊っていた。
火種を仕込んでいたわけでも、奇術の類でもない。先祖代々、女だけに伝わる精霊の力だ。
初めて発現したのは、十四歳になった日の夜だった。山盛りのご馳走で膨れたお腹をさすり、さて眠ろうとベッドに横たわった時、急に何かが全身を駆け巡る感覚に襲われ、気づくと目の前に小さな火の玉がふよふよと浮いていたのだ。
悲鳴を上げたベアトリーチェの元に駆けつけた母親が「おめでとう! これであなたも一人前ね!」と満面の笑みを浮かべたのを今でも覚えている。
本当なら十歳までには発現するらしいが、ベアトリーチェは生まれつき体が小さくて初潮も遅かったので、力の発現も遅れたのだろうとのことだった。
「いいなぁ、姉さんは。いつでもどこでも火をおこせて。一度付いたら簡単には消えないしさ」
と、三つ下の弟は羨ましそうに言っていたが、ベアトリーチェにとってはただの呪いとしか思えなかった。
――こんな力、あったって何になるのよ。
ぐ、と拳を握りしめて火の玉を掻き消し、小さくため息をつく。
確かに、何もないところから火が出せたり、水が出せたりしたら便利かもしれないが、そんなものは技術が発展した今の時代には「あったらいいな」ぐらいのものでしかない。
その上、精霊の力を使うには使用者自身の体力を燃料にする必要がある。つまりは、使うととても疲れるのだ。
それなら火打金で火をおこしたり、井戸から水を汲んだりした方が百倍いい。成人したらもっと力も強くなって、使っても疲れなくなるらしいが、そうなったらなったで家を継がなければならない。
ベアトリーチェの家は建国以来、宰相を排出し続けている家系だ。精霊の力も王家に次いで強い。なので、伝統的にというか、必然的にというか、力が発現した女児は強制的に次期当主となる運命だった。
今まで知らなかったのは、両親、特に母親が意図的に隠していたからだろう。知ればベアトリーチェが逃げ出すと分かっていたのだ。
勉強嫌いのベアトリーチェを囲い込むため、力が発現した翌日には護衛騎士という名の見張りが大幅に増え、次期当主としてのスパルタ授業も始まり、二年経った今では自由に出歩くこともままならなくなっていた。
もっと早く、歴代当主の肖像画が女性ばかりなのはおかしいと気づくべきだった。現当主である母親も、ベアトリーチェをお腹に宿すまでは貴族最強の名を欲しいままにしていたらしいが、それを子供にまで押し付けないで欲しい。
「あーあ……どこか遠くに行きたいなぁ……」
気だるげにしゃがみ、両膝の上に頬杖をつく。海は相変わらず眩しく輝いている。
脈々と受け継がれてきた力と家を次代に繋ぐ重要さは分かっている。家族仲も悪くないし、家にいる限り生活に困ることはない。けれど、自由を求める気持ちに蓋はできなかった。
――いつか私も、お伽話みたいな冒険や恋をしてみたいもんだわ。
また一つ憂鬱なため息をこぼした時、背後から砂を踏みしめる音が聞こえた。肩越しに振り返ると、弟のヴィットリオと護衛騎士のロレンツォが並んでこちらに向かってくるところだった。
二人ともベアトリーチェと同じ、燃えるような赤毛を風に揺らしている。赤毛はケルティーナ人特有のものだ。精霊の寵愛を受けた証らしいが、もう少しぐらいバリエーションがあってもいいと思う。
「ベアトリーチェ様! こんなところにおられたのですか! 一人で出歩かないでくださいとあれほど……」
「あらやだ、ロレンツォ。怖い顔しないで? 男前が台無しじゃない。黙っていなくなったのは悪かったけど、私だって、たまには一人になりたい時があるのよ……」
目を潤ませて見上げると、ロレンツォは真っ赤になった顔を誤魔化すように咳払いして「し、仕方ありませんね……」ともごもご言った。
チョロい、と心の中で舌を出す。
ロレンツォは父方のはとこで、古くから続く騎士の家系の三男坊だ。
ベアトリーチェと同い年だが、生真面目な性分と大人顔負けの体格のおかげで、年上に見られることも多い。男所帯で育ったからか、女系が多いケルティーナの中では珍しく女に免疫がない。
「姉さんも懲りないよね。授業サボったって倍にされるだけなのに。母さんも先生もカンカンだったよ」
「ヴィー、羽って何のためにあると思う? 伸ばすためにあるのよ」
「はいはい、そういうのいいから」
真面目ぶった口調のベアトリーチェに、ヴィットリオが呆れたようにため息をつく。
小さい頃は「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と、いっつも後をついてきて可愛かったのに、今では一端の大人ぶった顔をする。
「ほら、早く戻るよ。お客様をお待たせしちゃ失礼でしょ?」
「お客様?」
「忘れたの? 今日はランベルト王国から使者が来る日だよ。ええと、フランチェスカ領……だっけ。そこの人みたい」
そういえばそんな話を聞いたような気がする。
ランベルト王国はケルティーナの北に位置する大陸にある友好国で、文化的にも、環境的にも豊かな国だ。中でもフランチェスカは初代国王の弟が治めていた土地で、歴代の領主は王家の血を引いているという。
「えっ、じゃあ、身分の高い方なんじゃ……」
「まあ、公爵領だからね。だから、うちに白羽の矢が立ったんじゃない? 公爵とまではいかなくとも、宰相家だしさ。ホスト役を務めるには、それなりの家格がいるでしょ」
政治的な思惑が絡んでいることに、うんざりとした気持ちになる。
ケルティーナとランベルト王国は四百年前からの付き合いだ。そのため、積極的な外交を好まないケルティーナにしては例外的によく使者を受け入れていた。おそらく今回も、女王への表敬訪問のために遥々やって来たのだろう。
「……きっと、あれこれもてなせって言われるわよね? 次期当主の務めとか言って」
「まあ、いいじゃない。前から他国の人と話してみたいって言ってたでしょ?」
「お相手が身分の高い方なら話は別よ! 絶対に失敗できないじゃない……!」
脳裏に目を吊り上げて怒る母親の姿がよぎり、両肩がずしっと重くなるのを感じた。
ヴィットリオとロレンツォに引きずられるように屋敷に戻ると、玄関先で待ち受けていた侍女のニーナに首根っこを掴まれ、強制的によそ行きのドレスに着替えさせられた。
ベスタ家の家紋である薔薇と蔓の幾何学模様をあしらったもので、まるで夏の森のような濃い緑色をしている。
ケルティーナでは幾何学模様一つ一つに意味がある。例えば、花なら「守り」星なら「魔除け」といった具合だ。各々の家には代々伝わる紋様が存在し、身の回りのありとあらゆるものに刺繍され、大事な人に贈り物をする時に刻んだりもする。
「お嬢様、何をぼんやりなさっているんです? 次は髪ですよ。早く鏡台の前に座ってください。お客様が来てしまいますよ!」
追い立てられて椅子に座った途端、髪を思いっきり捻りあげられ、その強さに情けない悲鳴を漏らす。こうでもしないとボリューミーな赤毛がいうことを聞かないのはわかるが、少々やりすぎではないだろうか。
「ねぇ、ニーナ。ちょっと引っ張りすぎじゃない? 頭が痛いんだけど……」
そう訴えても、ニーナはこちらを一瞥するばかりでちっとも緩めてくれなかった。巧みにリボンを操るシワシワの手の甲に青い血管が浮いている。
――ニーナったら、いつの間にこんなに老けちゃったのかしら。
感慨にふけっている間にも、頭皮からはギリギリという音がして、そのうちベリッと剥がれるんじゃないかと心配になる。
「よし! ようやく纏まりました。崩れないよう、絶対に触らないでくださいね。さて、次はアクセサリーを……」
いそいそと取り出した髪飾りやイヤリングは先祖代々受け継いだ家宝のもので、その気合いの入れように目を丸くする。
「ちょ、ちょっと待ってよニーナ。こんなに着飾る必要あるの?」
「当然です! 相手は王家のご親戚ですよ! それに見合った装いをしなくては!」
鼻息荒く言い切ったニーナの榛色の瞳に、熱く燃えたぎる炎が見える。こうなると何を言っても無駄だ。座りっぱなしで痛くなってきたお尻をさすりながら、泣く泣く飾り立てられるしかなかった。
「あと、こちらも忘れずに。ベスタ家の家宝中の家宝ですからね」
慎重な手つきで首に下げられたのは、ベスタ家初代当主から伝わるペンダントだった。
黄金で作られた土台の中央に赤い石がついていて、裏には花の幾何学模様が刻み込まれている。これは精霊の力が込められたケルティーナの守り石で、過去の過ちを一度だけやり直しさせてくれる力があるらしい。
とはいえ、ここにこれがあるということは一度も効果を発揮していないことの証明で、実際にやり直しできる力があるのかは誰も知らなかった。
「姉さん、準備できた? お客様、来られたって。一緒にお出迎えしよう?」
コンコン、とドアを叩く音と共に、ヴィットリオがひょいと顔を出す。弟も同様に飾り立てられたらしく、豊かな赤毛を後ろに撫で付け、貴公子然とした緑色の礼服をきちっと着こなしている。
その後ろに控えているのはロレンツォだ。彼もまた、公式な場でしか着ないような儀礼服を身に纏っている。
――ああ、行きたくない。今からでも逃げ出せないかしら。
早く行けと急かすニーナに促され、ベアトリーチェは重い腰を上げた。