エピローグ 愛しい鳥籠
「……チェ! ベアトリ……チェ!」
体を揺すられ、ゆっくりと目を開ける。ぼんやりとした視界の先に見えるのは、美しい金色の髪と海の底のような青い瞳だ。ベアトリーチェの一番好きな色。
どうやら居眠りをしていたらしい。ソファからずり落ちかけていた体を起こし、目を擦る。
――何だか懐かしい夢を見ていたような気がするわ。
ふわ、とあくびをするベアトリーチェを、エンリコが心配そうな顔で見ている。その右手には毛布を持っている。床に蹴り落としてしまったらしい。
「こんなところで眠ると風邪をひくぞ」
「大丈夫よ。そんなにヤワじゃないもの」
袖を捲り上げ、隣に座るエンリコに力瘤を見せつける。しかし、長らく続いたインドア生活で肌はすっかり白くなってしまった。また農作業に勤しむようになれば小麦色の肌を取り戻せるだろうか。
「ソフィアから手紙が来たよ。遅くなったけど、プレゼントのお礼だって」
さりげなく毛布をベアトリーチェの膝にかけたエンリコが、左脇に抱えていた包みを差し出す。ソフィアはエンリコの弟分であるロドリゴの妻だ。結婚の挨拶に来てくれた時に仲良くなり、今では親友とも呼べる間柄になっていた。
この間王都に出向いた時に色々とよくしてもらったので、そのお礼としてささやかなプレゼントを贈ったのだ。まさか、それがさらに返ってくるとは思わなかったが。
ありがとう、と受け取って包みを開く。その途端に、顔ぐらいの大きさの羊のぬいぐるみが転がり落ちてきた。
「あら、可愛い。ソフィアは本当にこういうの上手よね」
私は全然ダメだけど、とは口に出さずにおく。
添付されていた手紙にはお礼の他に、ソフィアたちの近況や、近々また会いたいということが紙面いっぱいに綴られていた。
「あのアメジストの髪飾り、ソフィアに譲って本当によかったのか?」
エンリコに褒めてもらったアメジストの髪飾りのことだ。実家に戻れないベアトリーチェには手持ちの品が限られている。だからロレンツォが持ってきてくれた家宝の中で、一番気に入っていたものを選んだのだ。
とはいえ、そのまま渡すのも味気なかったので、ケルティーナ人らしく、ソフィアとベアトリーチェの頭文字を組み合わせた古語と花の幾何学模様を刻んでみた。ずっと使っていなくても案外覚えているものだ。結果的にとても喜んでくれたのでよかったけど。
その時の絵が屋敷のどこかに眠っているはずだ。「思い出を残しておきたい」と珍しくロマンチックなことをエンリコが言ったので、最後にもう一度だけ髪飾りをつけたところを、絵が得意なロドリゴが描いてくれたのだ。
絵の中で笑うソフィアとベアトリーチェがあまりにも素敵だったので、こっそりと裏に刻んだ模様も書き足しておいた。いずれそれを見て懐かしむ日が来るだろう。
「ロドリゴには私たちの結婚式の時にたくさん宝石もらっちゃったしね。もし子供が産まれても女の子だったらそのまま使ってもらえるし、男の子でも台座から外して剣の柄頭に埋めてもらえばいいし」
今思うと、身一つで飛び出してきたベアトリーチェを気遣ってくれたのかも知れない。
ロドリゴが持って来てくれた宝石たちは、エンリコの遠縁である北方のファウスティナ家の伝手で美しいアクセサリーとなり、日々ベアトリーチェを彩っている。特にフランチェスカの色である青と黄色——サファイアとトパーズは儀礼用のブローチとして新たな家宝になった。
「それにね、私にはもう素敵な宝物があるから、これ以上のものはいらないの」
毛布の下で大きく膨れたお腹をさする。ランベルト王国に初めて足を踏み入れて十二年。ベアトリーチェの体内には新たな命が宿っていた。
「お義父様に孫の顔をお見せできなかったのは残念だけどね……」
「きっと父上もどこかで見ているさ。ランベルト王国では、人は死んでもその意思は残り続けるものだから」
二人の愛の結晶を優しく撫でながら、エンリコが幸せそうに微笑む。
「ロドリゴが名前を考えてくれたよ。男の子ならエミリオ、女の子ならエミリアだそうだ」
「いい名前ね。もし男の子だったら、きっとあなたに似て素敵な人に育つわね」
「もし女の子だったら、君に似て元気いっぱいの子に育つだろうな」
顔を見合わせて、ふふ、と微笑み合う。
甘えるようにエンリコの肩に頬を寄せ、無造作に後ろで一括りにした金髪を指で弄ぶ。
最初に会った時は短かったのに、今では腰ぐらいにまで伸びている。ベアトリーチェが毎日丹精を込めて手入れしているからか、まるで金糸のようにサラサラだ。外から差し込む日の光に反射して、キラキラと眩く輝いている。
「だいぶ伸びたわね。私よりも長いんじゃない? 収穫の時に邪魔にならないの?」
なんて事のない問いだったのだが、エンリコはムッと拗ねたように唇を尖らせた。
「……君がこの髪を好きだと言うから」
ベアトリーチェのために伸ばしていたらしい。
くすくすと笑いながら頭を起こし、子供みたいに膨れた頬を両手で包んで優しく口付ける。
「髪だけじゃないわ。あなたの全てを愛してるわよ、エンリコ」
甘く囁き、トドメとばかりに胸に擦り寄ると、途端に目尻を下げたエンリコが、お腹の子供に障らないようにそっと抱きしめてくれた。
「……俺もだよ、ベアトリーチェ」
強くて、優しくて、温かなベアトリーチェの鳥籠。そばにいるだけで安心する。うるさいほど響く胸の高鳴りも、初めて会った時からずっとずっと変わらない。
ベアトリーチェの篝火は、何年経とうとも熱く燃え盛っている。
「あなたもそうよね? 私たちの可愛い小鳥さん」
まだ見ぬ我が子に囁き、そっとお腹を撫でる。現実はお伽話みたいに綺麗じゃない。しかし、羽さえあればどこまでも飛んでいけるのだ。
きっといつの日か、我が子も篝火を胸に遠く遠く羽ばたいていくだろう。
――それまでは、私が鳥籠になるわ。
無意識に唇から子守唄がこぼれる。
それは、夢の中の旋律と同じものだった。