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第17話 赤い小鳥は空を羽ばたく夢を見る

 ――あの海の向こうにも、きっとたくさんの人の営みがあるのね。


 燃えるような赤毛を風に靡かせながら、ベアトリーチェは森の中でひとり佇んでいた。視界の先にどこまでも続く白い砂浜の向こうには、立派な船が停泊している。


 エンリコたちをランベルト王国へ送り届ける船だ。来る時は決められた港からしか入港できないが、帰る時はその限りではない。そのため、夜明けと共にベスタ領から帰国することになっていた。


 幸か不幸か、空には雲ひとつない青空が広がっている。風もそれなりにあるし、波はとても穏やかだ。さぞかし快調に帆が進むだろう。


 ――エンリコ様たちが初めてケルティーナを訪れたのもこんな日だったわね。


 あの時はただ外の世界に憧れるばかりだった。どこか遠くに行きたいと、そんなことばかり考えていた。それを愚かなことだと知れたのは、大人になった証拠なのだろうか。


 それとも、ベアトリーチェの篝火が消えた証拠なのだろうか。


 小庭で求婚されたあの夜、ベアトリーチェはエンリコの手を取らなかった。そして、エンリコにもベアトリーチェの手を取らせなかった。


 ベアトリーチェのためにフランチェスカを捨てさせることは本意ではなかったし、家族たちを裏切って家を飛び出す気持ちにもなれなかった。それに何より、あれだけニーナが望んでいた当主の座を捨て去ることに強い罪悪感を覚えていた。


 それでもエンリコはベアトリーチェを強く欲していたが、続けて告げた言葉を聞くと、こちらの意思を黙って飲み込まざるを得なかった。


 それは、エンリコが一度口にした言葉だったからだ。


「現実はお伽話みたいに綺麗なものじゃない」と。


 ――これでよかったのよね。


 素敵なエンリコのことだ。きっとすぐに素晴らしい伴侶が見つかるはずだ。そして、いつかベアトリーチェにも。


 今は無理かもしれないが、子供世代、孫世代になってもっと交流が進めば、海向こうと自由に行き来できる時代もくるだろうか。


 ――そのためにも長生きしなくちゃ。ニーナの年齢を越えるぐらいに。


 思い出の中の侍女にふっと微笑む。


 船乗りたちの威勢のいい声が上がり、荷と愛しい人たちを乗せた船がゆっくりと沖合へ向かっていく。少し離れた森の中からでも、家族たちが波打ち際で思い思いに手を振り、別れの声を投げかける様子が見えた。


 あの船が見えなくなったら、家族と共に屋敷に帰るのだ。そして、次期当主としてさらに本格的な教育に入る。


 嫌だ、なんてもう駄々はこねなかった。成人さえすれば自由に外に出られるようにもなるだろうし、そのうちきっと、忙しくなってつまらないことを考える余裕もなくなるだろうから。


 ――でも、お母様やご先祖様たちみたいに上手くやれるかしら。


 何しろ今までサボりまくっていた身だ。身についているのはカーテシーだけ。匙を投げかけている家庭教師を宥めすかして、一から教えてもらい直すしかない。


 この一連の出来事で、いつまでも同じ日常は続かないのだと痛いほど知った。カテリーナもエルラドもずっと元気でいてくれるわけじゃない。ヴィットリオだって、いずれは結婚して家を出ていくだろう。


 今は護られていても、いつか一人で鳥籠を出る日が来る。しかしニーナとニケという土台を失ったベアトリーチェにとって、それは足がすくむような恐怖を与えるものだった。


 ――あれだけ外に出たがってたのに、不思議なものね。


 過去の自分を思い出して、笑みが漏れる。今のベアトリーチェを見たら、ニーナは何て言うだろうか。


「……そういえば、何か困ったらポケットを見ろって言ってたっけ」


 寓話みたいなものだ。きっと何もないだろうと思いつつも、ローブのポケットをごそごそと探る。ベアトリーチェお気に入りの、ニーナが直してくれたローブだ。こうして着てみても、違和感はどこにもない。襲撃にあったのが嘘みたいに元通りになっている。


「あれ、何か……」


 指先に触れたものをゆっくりと取り出す。それは手のひらサイズに折り畳まれたパピルスだった。中に何かあるのか、少し膨らんでいる。


「ニーナが入れたのかしら……?」


 首を傾げながらパピルスを開く。そこに入っていたのは、エンリコが初めて来た時にニーナが結ってくれたリボンだった。


『私がいなくなったら、誰がお嬢様の髪を結うんです?』


 ふいに、ニーナの声が聞こえたような気がした。


 もう大丈夫だと思っていたのに、嗚咽が込み上げる。ニーナがいなくなってから、ベアトリーチェは一度も髪を結わなかった。あれだけ毎日つけていたアメジストの髪飾りもほったらかしたままだ。だってもう、褒めてくれる人も、髪を結ってくれる人もいない。その穴を誰かが埋められるとも思わなかった。


「何よ、ニーナ……。何でこんなの、入れたの」


 問うても答えは二度と聞けない。ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、パピルスを投げ捨てようと振りかぶる。その時、その内側に何か文字が書いてあることに気づいた。


 少し右上がりの綺麗な字だ。癖字のベアトリーチェとは違って、几帳面な性格が出ている。落とさないようリボンを手のひらに巻き付け、パピルスの折り目を広げる。


 文字はそう長くない。パピルスの中央にぽつんとたった一言だけ。


『鳥は空を羽ばたくものですよ』


 そう書かれてあった。


 びゅうっと強い風がベアトリーチェの赤毛を巻き上げ、まるで燃え盛る篝火のように激しく揺らす。咄嗟に押さえるが、ボリューミーな髪は一向に言うことを聞かない。そんなベアトリーチェを嘲笑うかのように、雲ひとつない空の中を(とんび)がゆっくりと横切っていく。


 ――鳥。


 それを見た刹那、消えかけた胸の奥の火が微かに灯ったのを感じた。


 ――私も、まだ飛べるのかしら。


 気づけば、リボンで髪を一括りにまとめて走り出していた。足元でさくさくと砂を踏み締める音が響き、それに反応したヴィットリオがこちらを向いて目を丸くする。


「姉さん?」


 それには答えず、そのまま海に向かって速度を上げる。ベアトリーチェが何をしようとしているのかを察したカテリーナが、制止するために腕を広げる。


「駄目よ、ベアトリーチェ!」


 それも巧みに躱し、波打ち際に一歩足を踏み出した瞬間、ざざざ、と海面が波打ち、海の中からたくさんの六角形の盾のようなものが浮かび上がってきた。


「海亀⁉︎」

「う、海一面にいる!」

「何なんだこれ! こんなの見たことないぞ!」


 戸惑う使用人たちの声を背に甲羅に飛び乗る。最初の一つにはハートマークみたいな模様が見えた。


 海亀の群れは沖合まで続いているようだ。その先で、船の帆が悠々と風に翻っている。


 ――ずっと遠くから眺めるだけだった。でも今は、どこまでも追いかけることができるわ。


 まっすぐに前だけを見て海を駆けているうちに、甲板で輝く金色の髪が徐々に大きくなってきた。向こうもこちらに気づいたのだろう。離れていても目立つ大きな体が、縋るように船尾に飛びつく。


 一目見ただけで、胸の中の篝火が大きくなっていく。まるで全身が燃えているように熱い。もはや、ベアトリーチェの視界にはエンリコしか映っていなかった。


 ――ああ、やっぱり私。あなたが好き!


「エンリコ!」


 今日の空と海と同じ色をした瞳を大きく見開き、エンリコが手を差し伸べた。


「ベアトリーチェ!」


 最後に踏みしめたのは固い甲羅ではなかった。両手を広げたよりも大きくて、真っ黒な銀杏の葉のような形をしている。鯨だ。尾に跳ね上げられ、そのまま宙を舞う。


 ――ニーナ、私、飛べたわよ!


 日の光に照らされた銀色の飛沫が、頬にあたってくすぐったい。遥か下方で海亀と鯨たちが海の中に潜っていくのが見えた。それを見送り、浮遊の力を使ってエンリコの腕の中に飛び降りる。そのまま強く強く抱きしめられ、息ができない。


「ああ、俺の小鳥! もう絶対に離さない!」

「私もよ! もし飽きたって言っても、絶対に出て行ってあげないんだから!」


 もしこれがお伽話だとしたら、最後はこう締めくくるだろう。


『空を飛ぶ赤い小鳥は、美しい金色の鳥籠に入ることを選んだのだ』






 とはいえ、お伽話ではないので現実はまだまだ続く。


 予想はしていたことだが、とんでもない騒ぎになった。何しろ宰相家の娘だ。間違うことなき国際問題にミゲルたちは頭を抱え、船乗りたちも必死で説得を試みた。しかし、当の二人が聞く耳を持たないものだから、話は平行線のままランベルト王国帰港後に持ち越されることになった。


「ああ! ここがランベルト王国なのね! 森がどこにもない……。でも、人がたくさんいるわ!」

「一番南端のカナックという港だよ。リゾート地だし、切り拓いて作った街だから確かに森はないな。でも、フランチェスカにはカタリーナという森がある。王都の近くにもロマーニャの森という大森林があるし……」

「あらやだ。お母様とよく似た名前ね。親近感湧いちゃうわ」

「……お二人とも、今の状況をわかっていますか?」


 ミゲルの唸り声を聞いたのは初めてなので、そっと口を噤む。


 呑気なベアトリーチェたちを尻目に、船が港に着くや否やフランチェスカと王都アウグスタには早馬が送られ、船乗りたちはランベルト王国で羽を伸ばす間もなく、高速船に乗り換えてケルティーナにトンボ帰りする羽目になった。


 少なくとも許可が出るまでは下船できない。それもそうだろう。勝手に下りたら密入国者と何ら変わらない。


 それでもエンリコやミゲルたちが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたし、島育ちのベアトリーチェにとって船での生活は全く苦にならなかった。というか、エンリコがいてくれさえすれば何でもよかった。


 エンリコは情熱的で、ベアトリーチェを昼も夜も離してくれなかった。最初の印象が全て間違っていたのではないかというぐらい甘い顔で、始終愛を囁いてくれる。それはもう、フランチェスカ中の小麦が枯れるんじゃないかという有様だ。


 とはいえ、最後の一線はまだ越えていない。ベアトリーチェは心の準備が出来ていたが、エンリコは「鉄より硬い自制心」で、結婚するまで手は出さないと誓ったのだ。そもそも、結婚前提の間柄だとしても、ランベルト王国側の基準でも成人してないベアトリーチェと同じベッドで眠るのは中々にマズイらしかった。


 そして、あっという間に一週間が経った。


 すぐでにもカテリーナとエルラドが追いかけてくるかと思っていたが、やってきたのは疲れた顔をしたヴィットリオだった。


 どうやら両親とも「跡取り娘が他国の人間と駆け落ちした」という大スキャンダルの収拾に追われているらしく、とりあえずの先発隊として、唯一手が空いている身内を送り込んだようだ。


「高速船はどうなったの?」

「海上ですれ違ったよ。というか姉さん、本当にいい加減にして。大人になったと思ったのに、何でそう対極に突き抜けるの?」


 対するランベルト王国側も王家の親戚がやらかした失態の後始末に追われていた。顔を青ざめたカナック領主の話によると、関係各所に箝口令をしき、ケルティーナ側とどう折衝するべきか日夜話し合いをしているらしい。


 さらに、息子の暴挙に憤慨したエンリコの父親が倒れたこともあり、ケルティーナ側との話し合いの場を持つまでの監視役として、エンリコの弟分であるロドリゴという青年が王都からやって来た。


「何やってんだよ、エンリコ兄。なんで表敬訪問に行って花嫁を見つけてくんだ? ちゃんと仕事したのかよ?」

「仕事はした。言っておくが、一応女王陛下にお伺いは立てたんだぞ。証文に直筆のサインも貰った。使者にはもう渡してる」


 どうやらベアトリーチェの様子を見にきた日にエンリコと会っていたようだ。きっとあの女王のことだから、改まって表敬を受けるのが面倒になって略式で終わらせたのだろう。


「ねぇ、エンリコ。女王陛下、なんて言ってたの?」

「ケルティーナで骨を埋めようが、フランチェスカに連れて行こうが、全ては精霊の導きのまま。好きなようにしろ、だそうだ」


 女王が言いそうなことではある。


 秋の風がすっかり冬の気配を帯び始めた頃、エルラドがやって来た。隣にカテリーナの姿はない。間違いなく喧嘩になると悟って、ランベルト王国に来ることを拒否したそうだ。毎日ベアトリーチェに対して怒っているらしい。


「ベアトリーチェ。お父様も、お前に対してここまで怒ったことはないよ」


 太陽が沈んで昇るまで説教をされたが甘んじて受けた。縁を切られても仕方のないことをしたのだ。こうして口をきいてくれるだけでも有り難かった。


 粛々と己の罪を受け入れる態度にベアトリーチェの決意と覚悟のほどを感じ取ったのか、エルラドも最後は二人の選択を認めてくれた。


「お前もベスタ家の娘だ。エンリコ様をお慕いしていると聞いた時から、こうなるような気がしてたよ。でも、成人前に嫁に出すことになるなんて……。それも他国……。お父様はもう夜も眠れないよ」


 エルラドとヴィットリオ、そして王家とフランチェスカ家が仲立ちとなり、一週間以上にも渡る話し合いの結果、ベアトリーチェは無事にエンリコの花嫁として受け入れられることになった。女王陛下のサインも効力を発揮したのかもしれない。


 ただ、エンリコはベスタ家への非難を逸らすため「大事なベスタ家の跡取り娘を誑かした大罪人」としてケルティーナ史に名を刻まれることになってしまったが。


「まあ、別に間違っていない」と開き直ったエンリコを、リカルドではなくミゲルが殴り飛ばしたのはついこの前の話だ。


 そうして、ようやくランベルト王国の地を踏めたものの、フランチェスカに着いたら着いたでまた大変だった。


 何しろ、満面の笑みを浮かべた領民たちが待ち構えていた。話に聞いていた通り、明るくて気のいい性格の人間が多いようで、あれよあれよという間にベアトリーチェは温かく迎え入れられ、気づけば共に鍬を握って畑を耕すようになっていた。


 最初は二人に腹を立てていたエンリコの父親も、甲斐甲斐しく畑の世話をするベアトリーチェの姿を見て考えが変わったようだ。今では実の娘のように接してくれる。母親はすでに亡く、会えないのが残念だったが、それでも思い出話を聞いているうちにフランチェスカ家の一員になれたような気がした。


 春を待って行われた結婚式に、ケルティーナ側は参列しなかった。王国側もだ。あれだけ周囲に迷惑をかけておいて、祝福してくれというのはお門違いである。それに双方の体面上、必要なケジメとして理解していた。


 それでも、領民たちは心から二人の門出を祝福してくれたし、エンリコの弟分のロドリゴも遠い王都からこっそりとお祝いに駆けつけてくれた。名家のアヴァンティーノらしく、両手に目が眩むような宝石を抱えて来たのには驚いたが。


 領民の子供たちが不器用ながらも作ってくれたブーケの美しさを、ベアトリーチェは決して忘れないだろう。

 





 季節が何度巡ってもフランチェスカの小麦は必ず実をつける。


 エンリコとの新婚生活にも慣れ、二人の駆け落ち話も落ち着いてきた頃、一面に広がる小麦畑を進む男がいた。


 遠目からでもわかる燃えるような赤い髪。ケルティーナ人だ。その男はベアトリーチェの姿に気づくと、満面の笑みを浮かべて大きく手を振った。


「ベアトリーチェ様!」


 聞き覚えのある声に、思わず鍬を放り投げて駆け寄る。


「ロレンツォ⁉︎ 一体どうしたの!」


 長い旅をしてきたのだろう。屋敷では一度も見たことがないくらい薄汚れて、顔には無精髭まで生えていた。また背が伸びたのか、エンリコよりも頭の位置が高くなっている。そして背後には、どこかで調達したらしき荷馬車を従えていた。


「様子を見に来てくれたの? お母様たちは元気? 農場のみんなは? 米とバナヌの収穫は順調?」

「まずはこちらを。ヴィットリオ様からのお手紙です」


 矢継ぎ早に問いかけるベアトリーチェを制して、ロレンツォが小さな封筒を差し出した。周りで畑の世話をしていた領民たちが「なんだなんだ」と近寄ってくる中、手紙を開く。


 そこには、ヴィットリオらしい綺麗な文字でこう綴られていた。


『姉さん、元気? まあ、元気だよね。こっちは姉さんがいなくなって、火が消えたみたいに静かになっちゃった。使用人たちも農場のみんなも寂しがってるよ。母さんも父さんもすっかり元気がなくなっちゃって、思ったより早く引退しちゃうかも。


 でも、まあ、僕が何とかするよ。だって僕、姉さんの弟だからね。こういう後始末は慣れてるから。


 女王陛下が許可を出してくれたおかげで、ようやく周囲の噂話も落ち着いてきたよ。うちを非難するってことは、女王陛下を非難するってことになるからね。ひょっとして、これを予想してたのかな。エンリコ様もなかなか策士だよね。


 この前、近衛騎士団から報告がきたんだ。ニケは元気にやってるって。姉さんの駆け落ち話を聞いて爆笑してたらしいよ。相変わらず御者の仕事をしてるみたい。


 僕は今、姉さんが残したご先祖様の手帳を解読してるとこ。ランベルト王国のことをもっと広く知ってもらえば、早く自由に行き来できるようになるかもって思ってさ。あと、植物の加工技術を活かして紙を作れないかなって思ってるんだ。姉さんが言っていたように輸出にも挑戦してみたいしね。


 やりたいこと、まだまだいっぱいあるんだ。姉さんだってそうでしょ? だから、こっちのことは心配しなくていいよ。なんだかんだ言ってみんな強かに生きていくものだし、姉さんはもう自由なんだ。ニーナが望んだように、どこまでも羽ばたいて。


 エンリコ様……義兄さんと仲良くね。


 追伸

 ロレンツォがどうしても姉さんのところに行くって聞かないんだ。だから、遅くなったけど結納金がわりに色々持たせてそっちに送ったよ。後はよろしくね』


 最後まで読み終わり、ゆっくりと手紙を折りたたむ。目の前のロレンツォは満面の笑みを浮かべたまま、ベアトリーチェを見つめている。


「……ロレンツォ、あなたフランチェスカに骨を埋めるつもり?」

「もちろん! 言ったでしょう。俺はあなたが望む場所へどこまでもお供しますって」


 即座に言い返されて思わず怯む。しかし、ロレンツォの目に宿るのは恋情ではなく、家族に対する愛情だった。


 ――お互い、もう子供じゃないものね。


 くすりと微笑み、手紙をエプロンのポケットにしまう。その様子にお許しが出たと悟ったロレンツォの顔が輝く。


「仕方ないわね。でも、エンリコと喧嘩なんてしないでよ。私の旦那様なんだから」

「よしっ! これからお世話になります!」


 ガッツポーズをしたロレンツォが荷馬車に駆け寄り、一抱えほどある木箱を手に戻ってきた。やたら豪奢な箱だ。一面に見慣れた幾何学模様が彫り込まれている。


 ロレンツォは箱を慎重に地面に下ろすと、周囲にも聞こえるような大声で誇らしげに胸を張った。


「フランチェスカの皆様方へ。この度はエンリコ様と我が主ベアトリーチェ様とのご縁を結んでいただき、誠にありがとうございます。ケルティーナのベスタ家よりお祝いの品を納めに参りました。どうぞ、お近くでご覧ください!」

「え? ここで開けるの?」

「いいじゃねぇですか、ベアトリーチェ様。俺たちにもケルティーナの品を見せてくださいよ」


 農民頭の息子のアントニオが人の良い笑みを浮かべてベアトリーチェを促す。


 木箱の中にはベアトリーチェの私物が山のように詰め込まれていた。好きだった本、筆記具、化粧用具に装飾品、ローブ、エンリコと初めて会った時に着ていたよそ行きのドレス。そして、アメジストの髪飾り。ニーナが家宝中の家宝だと言っていた赤い守り石のついたペンダントまである。


「次から次へと家宝が出てくるんだけど……。いいの、これ?」

「まだまだ! 干しバナヌや米に農具や絨毯……。その他諸々、山のように持って来ましたよ!」


 ロレンツォがいい笑顔で指さす先では、御者が荷台に残った箱を下ろしているところだった。どれだけ積んできたのか、狭い畦道に小さな山が出来かけている。


「え? あの箱、全部そうなの……?」

「すげぇなぁ、ベアトリーチェ様のご実家」


 領民たちの感嘆を背に、箱の中身を黙々と確認していく。

 残りの箱は後でみんなで手分けして開けてもらおう。そう思った時、底に一枚のパピルスが落ちていることに気づいた。


「目録かしら……」


 案の定そうだった。エルラドが書いたのだろう。ヴィットリオみたいに流麗な文字で箱の中身がズラズラと綴られている。


 そして最後の一行には、ベアトリーチェとよく似た癖字で『幸せになりなさい』と書かれていた。


「……十分幸せよ、お母様」


 ぐす、と鼻を啜るベアトリーチェを、ロレンツォと領民たちが優しい目で見つめる。


 こちらの騒ぎを聞きつけたのだろう。水車小屋の点検をしていたエンリコとリカルドが焦った様子で駆け寄ってくるのが見えた。


 ――見てて、みんな。私はここで、どこまでも羽ばたいていくわ。


 ふわりと優しく吹いた風が、ベアトリーチェの赤毛と共に黄金色の絨毯を揺らしていった。

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