第16話 旅立ち
ベアトリーチェが目覚めてから二週間が経っていた。
その間に色々なことが目まぐるしく起こり、そして終わっていった。ニーナの葬儀、首謀者の確保、貴族裁判、焼けた農場の再建……数え上げればキリがない。そして、ニケがベスタ家を発つ日がやってきた。
ニケはマッテオの手によって命を取り留めていた。耐性があり、解毒剤を飲んだとはいえ全身に毒が回っていたので後遺症は残ったが、日常を営むには支障がない程度だという。その言葉を証明するように、ベアトリーチェが目覚めて一週間が過ぎる頃には、一人で立って歩くまで回復を遂げていた。
ケルティーナ勢の手放しの称賛にはにかんだマッテオの微笑みは、今もベスタ家の語り草になっている。
「まさか、自分が乗る立場になるなんて思いませんでしたよ」
穏やかな日が差し込む玄関先で、杖を手にしたニケがため息をつくように言う。ベアトリーチェたちが見守る中、彼は自分が丹精込めて整備してきた馬車を感慨深げに眺めていた。
ニケはこれから、本島から遠く離れた小島に身を移す。ランベルト王国から移住してきた人間の子孫たちが多く住む、穏やかな気候の島だそうだ。本島に足を踏み入れることは二度とできないが、罪を犯した人間の行き先としては破格の待遇と言ってよかった。
ニケの証言でユスフ領主をはじめとした首謀者たちが全員有罪判決になったこともあり、ベアトリーチェの気持ちを慮ったエンリコが「ケルティーナ側の責任は問わない」と鷹揚な姿勢を見せてくれ、使用人の中からも「このままベスタ家に残してもいいのでは」という陳情もでたのだが、ニケが固辞したのだ。
いつもと変わらぬ笑顔で「あのね、甘すぎです。国際問題ですよ、これ」と諭され、さしものベアトリーチェも飲み込まざるを得なかった。
本音は行って欲しくない。ニーナに続いてニケまでいなくなるなんて耐えられなかった。しかし、そんな我儘が言えるはずもない。ニケの言う通り、ことは国際問題なのだ。何のお咎めもなしではいられないのはわかっている。ベアトリーチェにできることは、旅立つニケを笑って送り出すことだけだった。
「あの、ニケ……。これ……」
おずおずと差し出したのはニケがいつも身につけていた腰布だった。ニーナに切られた箇所は目立たない程度に修復されている。この二週間、カテリーナに教わりながらコツコツ直していたのだ。
「気に入ってたみたいだったし、腰布があれば馬車に長く乗ってもお尻が痛くならないと思って……」
「……お嬢様は本当に変わらないなぁ」
腰布を受け取ったニケが泣きそうな顔で微笑む。
「きっと覚えていないんでしょうね。あなたがくれたんですよ、これ。御者は座りっぱなしだからお尻が痛くなるってぼやいた俺に『これを巻けばお尻痛くならないでしょ!』って、今と同じように」
その時の光景が浮かんだのだろう。懐かしむように目を細めてベアトリーチェを見つめるニケの顔は、今まで見たどんな顔よりも優しかった。
「本当に嬉しかった。贈り物をもらったのは初めてでしたから。前にも言いましたけど、人間扱いされたのもね」
笑って見送ろうと思ったのに、とてもできない。涙ぐむベアトリーチェを前に、愛おしむようにゆっくりと腰布を身につけたニケが、馬車に杖を立てかける。そして大きく両手を広げ、ぎこちない動きで一歩こちらに足を踏み出した。
「ねぇ、お嬢様。最後に一度だけ、抱きしめてもいいですか?」
ベアトリーチェを見つめる鳶色の瞳が大きく揺らいだ。それは、エリュシオンに乗って屋敷を飛び出そうとした時、ロレンツォが向けた瞳と同じ瞳だった。
岩の窪みでニケが言いかけた言葉が頭をよぎる。ニケもまた、ベアトリーチェを大切に想っていてくれたのだ。
――私って、本当に馬鹿ね。どうして大事なことほど最後までわからないのかしら。
小さく頷き、ニケの胸に頬を寄せる。ぎゅうっと背中に回された両腕は、出会った頃とは比べ物にならないくらい力強かった。
「あなたの本当の名前、なんて言うの?」
一瞬の間の後、ニケが声を上げて笑う。
「ニケですよ。俺はいつだって、あなたに名付けていただいたニケです」
ふうっと満足げに降ってきたため息の後に、ぬくもりが離れていく。近衛騎士たちに促されて馬車に乗り込むニケは、頭上に広がる青空のように晴れやかな顔をしていた。
「お嬢様、どうかお元気で。どこにいても、何をしていても、あなたを想っています。誰よりも幸せになってください」
「ニケ……。ニケ! 嫌よ! 行かないで!」
走り出した馬車を追い、必死に地面を駆ける。しかし、馬の速度に敵うわけもない。みるみるうちに離されていく。
足元の石に蹴躓いて無様に転ぶ。すぐに体を起こすが、窓から覗くニケの赤毛はもう見えなかった。視界が涙で滲んでいく。
――ダメよ、ニーナ。私、やっぱり飛べないわ。
どれだけ手を伸ばしても、ニケにはもう届かない。泣きじゃくるベアトリーチェを置いて、また一人行ってしまった。ニーナと同じく、遠い遠いところへ。
静かな部屋の中にノックの音が響く。ぼさぼさの赤い髪を掻き上げ、ベアトリーチェは気だるげにベッドに身を起こした。
いつもそばにいてくれた侍女はもういない。ヴィットリオやロレンツォもベアトリーチェを気遣って部屋を出ていた。
静かにドアを開ける。そこに立っていたのは、金色の髪に青い瞳の偉丈夫な男――エンリコだった。
「ベアトリーチェ嬢……」
憔悴したベアトリーチェを見て何を思ったのか、エンリコの青い瞳が翳る。
ニケがベスタ家を発って三日が過ぎても、ベアトリーチェはろくに食事も取らずに部屋に引きこもっていた。ニーナがいなくなり、ニケがいなくなり、そして続くだろう次の別れに耐えられなかったからだ。
「あなたも行ってしまうのね……」
こぼれ落ちた言葉は今にも消え入りそうだった。
「……少し、外を歩かないか? ロレンツォ君には許可を得てる」
きっとロレンツォは血の涙を流したことだろう。その様子を思い浮かべてくすりと笑みを漏らすと、エンリコはほっとしたように少し口元を緩めた。
「寒いから上着を羽織って行こう。何か——」
部屋の隅に目を止めたエンリコの言葉が途切れた。視界の先にあるのは襲撃の際に着ていたローブだ。ニーナが直してくれた、大事な忘れ形見。
エンリコは唇を噛むと、自分の着ていた上着をベアトリーチェに羽織らせた。
「行こう」
手を引かれてやって来たのは小庭だった。あれだけ荒れていたのが嘘のようにすっかり片付けられ、使用人たちの好意か、前はなかった椅子とテーブルまで備え付けられていた。
しかし、二人が座ったのは井戸の縁だ。あの夜と同じように肩を並べて、精霊の明かりが照らす小庭の中をただじっと眺める。
どれだけ目を凝らしても、ドリスの白い花はない。ネレウスの紫色の花もだ。たったひと月たらずで何もかも変わってしまった。小庭も、ベスタ家も、そしてベアトリーチェ自身も。
「ニケが去ってからろくに眠っていないし、あまり食事も取っていないんだろう? マッテオも心配していたよ」
「あら、お医者様を心配させるなんて、私ったら罪深い女ね」
乾いた笑いを漏らし、ぐ、と上着の衿を握りしめる。
「この三日間……ううん、ニーナが死んだ後からずっと考えていたわ。もっと違う結末にならなかったのかって」
雨の中ニケたちを追って窓から飛び出した時、現実らしい落とし前をつけると確かに言った。しかし、これがその結末だとしたらあまりに無慈悲だった。
「城下へ向かう前日にあなたが言っていたこと、ようやくわかったの。私、子供だった。鳥籠の中で守られていたことも知らず、ただ外の世界に憧れていたのよ。大事なものはいつだって身近にあったのに。もっと早く気づけていたら、ニーナも、ニケも、きっと——」
唇を噛み締めて顔を伏せる。今の情けない顔をエンリコに見せたくはなかった。
「――私の背中に羽なんてない。あるのは責任と、守るべきものたちだけ。家族の期待、使用人たちの生活、領民たちの笑顔……。これが家を継ぐものの痛みなのね。あなたも葛藤したことがあった?」
答えを期待したわけじゃない。ただ自分の胸のうちを吐き出したかっただけだ。しかし、エンリコは少しの沈黙の後、ぽつりと呟いた。
「今も葛藤してる」
「何を?」
「全てを捨ててここに残るか、君を攫ってフランチェスカに連れていくか」
伏せていた顔を上げ、エンリコの目をじっと見つめる。今、エンリコはなんと言ったのだろう。まさかベアトリーチェと添い遂げたいと言ったのか。そして、そのためならフランチェスカをも捨てると。
一瞬、冗談だと思った。あれだけフランチェスカを愛しているエンリコが、そんなことを言うわけがない。当主の責を背負う重みは誰よりも知っているはずだ。ベアトリーチェがランベルト王国では自由に生きられないことも。だからこそ、城下に向かう前日にベアトリーチェを諭したのではないのか。
しかし、エンリコの表情には一切の嘘はなく、本心から出た言葉だということが嫌というほどわかってしまった。
「……フランチェスカはどうするつもり?」
声が震える。どうか内心の動揺を気付かれませんようにと精霊たちに祈る。
「後継がいなければ領地は王家に返還される。フランチェスカはランベルト王国の食糧庫だ。今の国王とは親しいし、王領になったとしても待遇は悪くならないはずだ。リカルドには殺されるかもしれないが……」
とても肯定できる雰囲気ではない。いつからそんなことを考えていたのだろう。エンリコの本気具合がひしひし伝わってきて眩暈がしてきた。
「もしダメって言ったら私を攫うの? 無理やり連れてくってこと?」
「きっとカテリーナ様は君を手放さないだろうから」
「国際問題になるわよ? ケルティーナとの友好が潰えてしまってもいいの?」
「それで君を得ることができるなら、俺はどんな非難も受けるよ」
大きな手でぎゅっと両手を包み込まれる。その手は今まで触れたどんな手よりも、熱くて力強かった。
「君の想いを振り切ったこと、死ぬほど後悔したんだ。もう君と離れて暮らす選択肢は選びたくない」
――どうして、そんな目で私を見るの。
共に海を眺めた時も、小庭で肩を並べた時も、そして崖下で口づけを交わした時も、エンリコは同じ目でベアトリーチェを見つめていた。
熱情を孕んだ強い瞳、誰よりも愛しい男の瞳だ。
そして今も、海の底のような揺るぎない青い瞳で、エンリコはまっすぐにベアトリーチェを見つめている。
「家族と共に生きることを望むなら、俺は全てを捨てて君の手を取る。海の向こうを望むなら、俺は全力で君を守る」
立ち上がったエンリコがベアトリーチェの前に跪き、寝巻きの裾に口づけをした。
「俺は君を愛している。だからどうか、俺の妻になっていただけませんか」
――ああ、なんてこと!
震える唇をゆっくりと口を開く。
「私は――」