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第9話 別れの時

 屋敷は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。


 一歩間違えれば多くの人間が死んでいたのだ。昨日の今日でまた侵入者を許したという事実に騎士たちは顔を青ざめ、その責任者であるカテリーナやエルラドも、目を吊り上げて呪いの言葉を吐いていた。


 とても口に出せない汚い言葉だ。もし侵入者が聞いていたとしたら、今頃震え上がっているだろう。そして、ニケとニーナとロレンツォに囲い込まれる形で、ベアトリーチェは自室に押し込められた。


 しかし、部屋に三人の姿はない。ニーナは屋敷内を巡回中、ニケとロレンツォは残党を狩り出すための要員としてカテリーナたちに連れられていった。今はヴィットリオだけが、ベッドに力無く横たわるベアトリーチェのそばについている。


「姉さん、元気出してよ。今朝も言ったでしょ。きっとすぐに捕まるって」


 力無く頭を横に振る。猫たちが事切れる様子が瞼の裏から離れない。

 頑なに黙り込むベアトリーチェにヴィットリオが何度目かわからぬため息をついた時、遠慮がちなノックの音が耳に届いた。


「誰だろ。ニーナが戻ってきたのかな?」


 扉に駆け寄ったヴィットリオが息を飲む。


「どうしたの、ヴィットリオ……。誰が……」


 気だるい体を起こし、扉に目を向けたところで言葉が詰まる。そこに立っていたのは、頬を赤く腫らしたエンリコだった。


「エンリコ様……」


 憔悴したベアトリーチェの姿を見たエンリコは辛そうに眉を寄せると、ヴィットリオに何事かを囁き、力強く頷いてみせた。


「……姉さん、僕はちょっと席を外すね。近くにはいるから安心して」


 そう言い終わるや否や、ヴィットリオは制止する間もなく部屋を出て行った。急に二人きりにされ、部屋の中に気まずい沈黙が降りる。

 この分だと、ミゲルとマッテオから事の経緯を全て聞いているのだろう。大事なお客様を一度ならずも二度までも不穏なことに巻き込んでしまい、自然と身が縮む。


「……猫たちのことは残念でした。でも、あなたが毒を飲まなくて本当によかった」


 本当は飲んだが、そんなこと言えるわけもない。曖昧に微笑むと、エンリコは気遣うような目でこちらを見つめた。


 その青い瞳を見ていると、何故だかとても落ち着く。

 深呼吸をしてベッドを降り、エンリコに近づく。黙っていても何も始まらない。せっかくお見舞いに来てくれたのだから、その気持ちに応えなければ。


「心配かけてごめんなさい。ショックが抜けなくて……。でも、もう大丈夫です! エンリコ様が会いにてくださったから」


 努めて明るく振る舞うと、エンリコは優しげに目を細めて口元を緩めた。


「なら、よかった。あなたが笑っていないと、この屋敷はまるで火が消えたようになる」

「あら、それは毎日うるさいってこと?」

「まさか。元気でいいなと思っていますよ」


 どちらともなく笑みがこぼれる。部屋の中の空気もだいぶ緩んできたようだ。いつの間にか、ベアトリーチェはエンリコの前でも素の自分を出せるようになっていた。


「あの……その頬はどうなさったの? もしかして、昨夜庇ってくださった時に……?」

「ああ、これはリカルドにやられました。黙って部屋を抜け出した罰だと。怒ると容赦のない奴なんです」


 それは十分にわかっている。そっと頬に触れようとしたが、エンリコの大きな手のひらに押し留められた。


「ベアトリーチェ嬢。私は明朝、城下に向けて出立することにしました。もうここには戻りません。だから、あなたとお会いできるのは今日が最後です」


 一瞬、エンリコが何を言ったのか分からなかった。聞き間違いかと思いたかったが、こちらを見つめる表情はとても真剣で、嫌でも飲みこまざるを得ない。

 まるで薄氷の上に立っているかのように足がよろめいた。何か言わなくちゃ、と震える唇を一生懸命動かし、言葉を紡ぐ。


「……警備に不安を感じて? それとも、この国が嫌になった?」

「いいえ、そうじゃない。フランチェスカから書簡が届いたんです。父の体調が思わしくないと。なので、予定を繰り上げて国に戻ることにしたんですよ」


 目の前が真っ暗になっていくのをどうにかこらえる。

 エンリコがいつか戻ってしまうことは最初からわかっていたことだ。父親の調子が悪いと言うのなら、引き止めることなどできないだろう。しかし、それでもベアトリーチェはエンリコと離れたくなかった。


 ――今言わなきゃ、いつ言うの? しっかりするのよ、ベアトリーチェ!


 胸の前でぎゅっと両手を握り締め、震えを止めようと試みる。心臓は破裂しそうなほど脈打っているし、口の中はカラカラだ。それでも、ベアトリーチェはエンリコの瞳から目を逸さなかった。


「あの、あの私、エンリコ様のことが……!」

「ベアトリーチェ嬢。あなたは海の向こうに憧れを持っているようですが、現実はお伽話みたいに綺麗なものじゃないんだ」


 それはエンリコが来た最初の夜にカテリーナが言っていたことだ。一世一代の告白を遮られたことも忘れ、ベアトリーチェは今にも吹き出しそうな感情を必死で押さえつけた。


「……お母様に、何か言われたの?」

「いいや、あなたを見ていて思ったことだ。あなたはとてもまっすぐで……純粋すぎる」


 そこで少し黙り込み、エンリコは下唇を小さく噛み締めた。


「私の国には古い迷信がある。目を背けたくなるほど、ひどい迷信です」


 まるで子供に言い聞かせるように、エンリコはランベルト王国について訥々と語り出した。


 双子は血筋に災いをもたらすとして忌み嫌われ、生まれてきた瞬間に命を奪われること。ケルティーナよりも身分制度が厳しく、最下層の流民は日々の暮らしにも事欠くこと。そして、女性には継承権がなく、男性の付属品として扱われることが多いこと。


 ――そんなこと、家庭教師は一度も教えてくれなかったわ。


 とても簡単には飲み込めない話ばかりで、ベアトリーチェは力無く項垂れることしかできなかった。


「わかるでしょう? あなたはこの国にいた方が、のびのびと生きられる。同じ鳥籠なら、少しでも心地のいい方にいてほしい」


 そしてエンリコは、声もなく立ち尽くすベアトリーチェの両肩に優しく触れた。

 温かな体温が体に伝わっていく。こうしてエンリコから触れられたのは、昨夜の非常時を除けば初めてのことだった。


「自分では気づいていないのかもしれないが、あなたは確かにこの国を愛している。農場でバナヌの輸出について語る姿は、とても輝いていましたよ」


 あの時、エンリコは何かを言いかけて飲み込んでいた。まさか今、こんな形で知ることになるなんて。

 エンリコは、ぐ、と一瞬だけ力を込めると、ベアトリーチェの肩から手を離して踵を返した。


 ぬくもりが遠ざかっていく感覚に、咄嗟に手が伸びる。服を掴んで引っ張るという無礼な振る舞いにも、エンリコは何も言わなかった。


「待って! 待ってください! こんな終わり方は嫌よ!」


 大きく首を横に振り、息を吸う。もう躊躇はしなかった。全身の力を込め、振り絞るように叫ぶ。


「私、あなたが好き! 一目惚れなの! 一緒に連れて行って、なんて我儘は言わないわ。でも、せめてあなたの気持ちを聞かせてください!」

「ベアトリーチェ嬢……」

「お願い、お願いエンリコ様……。どうか……」


 胸に縋りつくベアトリーチェに、エンリコはぎゅっと眉を寄せて苦しそうな呻き声を上げた。そして、静かに両目を閉じて逡巡する様子を見せた後、ゆっくりと瞼を開く。


「俺は……」


 エンリコはそれ以上何も言わず、素早い動きでその場に跪くと、ベアトリーチェのローブの裾に口付けをした。

 ふいに、書庫でミゲルに語った言葉が蘇る。


『口付けをするのは、拝謁か求婚の時ぐらいよ』


 両目から涙があふれ、喉からはとめどなく泣き声が漏れた。激しくしゃくりあげるベアトリーチェにエンリコは何か言いたげに唇を動かしたが、結局、何も口には出さなかった。


 涙で滲む視界の先で、立ち上がったエンリコがこちらに背中を向け、ドアノブに手をかける。別れの時だとわかっているのに、ただ見ていることしかできない。まるで人形になったみたいに体が動かなかった。


「……さようなら、ベアトリーチェ嬢。あなたの笑顔は、何よりも美しかった。どうか、いつまでも幸せでいてください」


 美しい金髪が翻り、扉の向こうに消えていく。徐々に遠ざかっていく足音が冷え切った部屋の中に無情に響いた。






 ざあざあと雨が降り続いている。誰もいない書庫の中で、ベアトリーチェは物憂げに窓の外を見つめていた。

 手にはマッテオが読んでいた巻物がある。ネレウスとドリスについて調べようと広げたのはいいものの、とても小難しい文字を追う気持ちにはなれなかった。


 ――今頃、エンリコ様たちは城下に着いたかしら。


 昨日の言葉通り、まだ朝日が昇り切らないうちにエンリコたちはベスタ領を発って行った。

 懐いていたリカルドがいなくなって寂しいのだろう。馬小屋でエリュシオンが切なげに嘶いているのが雨音に混じって聞こえてくる。


 ――エンリコ様の言葉を借りるわけじゃないけど、まるで火が消えたみたいだわ。


 昨日までの喧騒が嘘のように、屋敷の中は不気味なほど静かだった。


 山狩りの甲斐なく、黒ずくめたちの残党はまだ捕まっていない。カテリーナやエルラドをはじめ、主要な騎士や使用人たちは揃ってエンリコの護衛についている。


 ヴィットリオは最後まで迷っていたが、結局みんなについて行った。だから、この屋敷に残っているのはロレンツォとニーナを含めた数名の使用人だけだ。念のためにベスタ家に長く仕える精鋭たちを残して行ってくれたので、もし侵入者が来ても撃退はできるだろう。


 ニーナからは「本当に見送らなくていいんですか?」と言われたが、力なく首を横に振った。これ以上言葉を交わしても辛いだけだ。向こうもそう思っているのか、馬車が走り出す瞬間までエンリコはベアトリーチェに顔を向けなかった。


 ――たった一週間ちょっとなのに、一生分の恋をしたみたい。


 自分をまっすぐに見つめる青い瞳を思い出すたび、胸が締め付けられるように苦しくなる。眠れば朝が来てしまうと思うと一睡もできなかった。きっと、この気持ちを忘れる日は来ないだろう。次の恋ができるとも、とても思えなかった。


 ――でも、フラれちゃったし……。お互い好き合ってるのに、フラれるっていうのも変な話だけど。


 胸を刺す痛みに強く唇を噛む。本当はついて行きたかったし、離れたくないと叫びたかった。しかし、それは許されないことなのだと、恋をした相手から諭されてしまった。


 エンリコはフランチェスカの後継ぎ、自分はベスタ家の次期当主。それぞれに背負っているものが重すぎて、とても振り払えない。


 そして、エンリコが語ったランベルト王国の暗部ともいえる話は、ベアトリーチェの心に深い影を落としていた。


 ――まさか、赤ちゃんが殺されて、女性の権利が制限される国があるなんて。


 エンリコたちが来た夜、カテリーナが言っていた言葉を思い出す。


 カテリーナはベアトリーチェがランベルト王国では自由に生きられないとわかっていたのだ。ひょっとしたら、カテリーナ自身も海向こうに憧れていた頃があったのかもしれない。


 ――結局、私は小鳥。どれだけ夢見ても、遠くには羽ばたいていけないのね。


 ニケにはあれだけ偉そうなことを言ったのに情けなさの極みだ。もう枯れたと思っていた涙があふれ出し、巻物の上にぽたりと落ちる。


「いけない、インクが滲んじゃうわ……」


 本好きのマッテオが見たら目を剥いて怒るだろう。もう二度と会えない彼らの姿を思い浮かべながら、そっとハンカチを取り出した時、ふと巻物に書かれた記述が目に飛び込んできた。


『ネレウス:ケルティーナ全土に広く分布。九月から十一月にかけて、紫色の花弁をつける。花から抽出される成分には強心薬の作用があり、心不全の治療に有効。ネレウス自体に毒性はないが、ドリスと合わさるとテティスという毒を発生させる。取り扱いには十分に注意されたし。※昨今の環境変化で年々減少傾向にある。医療関係者は保護に努めること。※もしもの時に備え、代替薬の開発に着手』


『ドリス:ケルティーナ西部、主にユスフ領周辺で分布。満月の夜にしか開花しないという特性があり、採取の機会は稀。小さな鈴状の白い花弁からは神経毒が抽出でき、ユスフ領では狩猟の際に利用される。ネレウスと合わさると非常に危険。摂取した場合は速やかに嘔吐剤を投与すべし。中和成分を多く含む食物としてバナヌが有効。※他毒にも有効性を発揮したとの報告あり。要研究。※成分を効率的に抽出するには?』


 目が文字を追うごとに体が冷えていくのがわかった。急に書庫の中の空気が重苦しくなり、喘ぐように唇を動かす。


「ユスフ……?」


 ベアトリーチェの脳裏にニケの笑顔が浮かぶ。ユスフ領はニケの故郷かもしれない場所だ。


 ――これって偶然の一致なの?


 黒ずくめたちがやって来たのはニケに故郷のことを話した日の夜だ。あの時、ニケはカテリーナたちにはまだ黙っていてくれと言っていた。不安な気持ちはわかるからと引き下がったが、果たして本当にそうだったのだろうか。


 ――バレたら都合が悪いってことだったんじゃ……?


 エンリコはドリスの存在をニケから聞いたと言っていた。この巻物を読む限り、ドリスが咲くのは西の方だ。本島の東寄りのベスタ領では、そもそも分布すらしていない。


 物好きな先祖が西から種を持ち込んで育てていたという可能性は確かにあるが、名前まで知っているのはおかしい。ニケはケルティーナの古語を読めないからだ。


 もしニケにユスフ領で過ごした記憶があるのなら、ドリスの毒性も把握していただろう。掃除の時、井戸の水を飲むなと言ってくれたのは、毒が入っていると知っていたからなのかもしれない。


 あの日の朝、風はまだ強かった。汲んだ水が澄んでいたということは、掃除の直前まで蓋はされていたはずだ。黒ずくめの残党が毒を投げ入れたと思っていたが、警備が厳重になっていたことを考えると、屋敷の中の人間が入れたという方が自然だろう。


 ニケは足に怪我をしていた。しかし、その怪我が本当に転んだ時にできたものなのか、目撃者は誰もいない。


 ――黒ずくめたちの一人に、私を見てひどく驚いていたやつがいたわ。


 あれは精霊の力持ちがいることにではなく、ベアトリーチェがいることに対してだったのだとしたら? ニケなら、普段ベアトリーチェが夜中に出歩かないと知っている。そして、あの場にいたとすれば、逃げる時にドリスを摘むことができたはずだ。


「ちょっと待って、ちょっと待ってよ……。嘘よ、そんな……。やだ……」


 ガタガタと体が震え出す。大切な家族を疑うなんて、自分の考えに吐き気がしそうだ。

 だが、全ての状況がニケを疑えと囁いてくる。呻き声を上げ、ベアトリーチェは頭を抱えた。


 ――ニケは、ユスフ領の密偵なのかもしれないわ。


 そうだとしたら、狙いはエンリコかベスタ家そのものなのだろう。もしベアトリーチェだけが標的なのだとしたら、わざわざ毒を飲むなと忠告するはずがない。


 ――何でよ、ニケ!


 どれだけ心の中で問いかけたところで真実がわかるはずもない。賓客を襲うことでベスタ家に責任を負わせ、家名に傷を負わせるつもりだったのか。それとも、ケルティーナとランベルト王国の関係にヒビを入れるつもりだったのか。


 どちらにせよ、ニケが関係しているのならエンリコたちが危険だ。城下に向かう途中には険しい山道がある。地形を熟知している御者なら、どのタイミングで襲撃をかければいいか手に取るようにわかるだろう。


 それに今日は雨が強い。たとえ襲撃が失敗してもニケなら他にやりようがある。


 ――本当のことを確かめるためにも、早く後を追わなくちゃ!


 勢いよく椅子から立ち上がった時、こちらに駆け寄ってくる足音と共に、ここにはいないはずのヴィットリオの声が聞こえてきた。


「ロレンツォ! ロレンツォはどこ⁉︎」

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