適材適所だとしても、嫌われ役の分担はご遠慮いたします
マルグリット・モートン伯爵令嬢は、子供の頃からやけに神経質な人間だった。
夜会の準備のために並べられた無数のグラスに混ざるたった一つの小さなヒビ。
大広間にいくつも下がるシャンデリアの中でごくわずかにある火の消えた蝋燭。
磨き上げられた室内で微かに曇る窓ガラスのほんの一部分。
立ち働く何人ものメイドたちのたった一人のエプロンの少しの染み。
そういったものに近付くと、あたかもそれらから名でも呼ばれたように、それらに注意を向けてしまう。
場合によっては重宝されただろう気付きは、しかし、使用人を不安にさせ、招待主に気まずさをもたらし、本人を居心地の悪い思いに追い込んだ。
気付いた事に怒りを見せた事は無いにも拘らず、スラリとした痩躯とキリリとした目鼻立ちもあって、マルグリットは徒に厳しい人物のように受け止められがちだった。
「おかあさま、これは気がついちゃいけないことだったの?
わたし、なんにも言ってないのに、みんないやそうなかおで、わたしを見るの」
人の表情にも敏感なマルグリットは、自分の気付きが好意的に受け止められていないと分かっていた。
「マルグリット、貴女のそれはちゃんと美点だわ。
でも、状況によって見ない振りが出来るようになりましょう」
幼い娘の真っ直ぐな髪を撫でながら語るモートン伯爵夫人は、特に大した事では無いという態度を取っていた。
「マルグリット、お前。僕より酷いな、可哀そうに」
年の離れた兄は、妹に同情的だった。
「せめてもう少し、大らかで居られたら良かったのにな。
お前のそれを好意的に見てくれるような嫁ぎ先を探してみよう」
モートン伯爵の声は、憐れみに満ちていた。
そうして決まった、同い年のノーマン・エルス伯爵令息との婚約は、最初は順調だった。
「ノーマンさま、ボタンがひとつちゃんととまっておりませんわ」
「ああ。ありがとう。マルグリットじょうは、よくきがつくね」
「どういたしまして」
「ノーマン様、タイが少し歪んでおりましてよ」
「ああ、ありがとう。マルグリットが居ないと僕はダメだね」
「そのような事ありませんわ」
「ノーマン様、そちら、お忘れですよ」
「ノーマン様、こちら少し数が足りないようですわ」
「ノーマン様、ここが少し……」
「……レイリア様、私、口うるさいでしょうか」
「そうですわね。
でもわたくしは、マルグリットのそういう所、頼りにしていましてよ」
レイリア・トンプソン侯爵令嬢は、貴族の子女が通う学園で出来たマルグリットの友人である。
小柄な体格に、淡い色の髪と瞳、白磁の肌に、ややふっくらとしたピンクの頬。
おっとりとした印象を与えるが、気兼ねなく付き合える相手にはハキハキとした物言いをする。
見た目と本質の異なる高位貴族らしいが、サッパリとしていて頼りになる友人だと、マルグリットは思っていた。
少し身分差のあるレイリアとは、学園の高位貴族令嬢用の学級が一緒であったが、当初は大した交流が無かった。
生徒達が催し物の主催を取り仕切る練習ための学園祭で、マルグリットが図らずもいつもの神経質さを発揮してしまい、それを高く買ってくれたレイリアと親しくなったのだった。
「ありがとうございます、レイリア様。
エルス伯爵夫人にもそう思って頂けると良いのですが……」
学園を卒業すれば、エルス家への嫁入りは秒読みである。
「どんどん指摘して言って頂戴な。その方が有難いわ」
エルス伯爵夫人は、笑顔でそう言ってくれていたが、本心からかどうかは分かりかねた。
鷹揚なエルス伯爵夫妻の人柄の為か、モートン邸とは異なり、エルス邸はマルグリットの気に障る点が多かった。
マルグリットは、十程見つけた事を、一つか二つに絞って伝えるのが常だった。
婚姻後の不安は、エルス伯爵邸での事だけでは無かった。
学園でマルグリットがレイリアという友人を得たのと同じように、ノーマンもまた、ジリアン・ブルックス侯爵令息と友人になっていた。
ジリアンは、学園の令嬢達に人気があった。
スッキリとした鼻梁、クッキリとした切れ長の目、ハッキリした物言いで、意志の強さや頼りがいを感じさせた。
侯爵家の三男であるが、卒業後に騎士団入りが内定しているという噂があった。
大柄で色素が薄くおっとりとしたノーマンもまた、顔立ちが整った方であったので、二人が並んでいる様子は多くの令嬢達の目を引き寄せた。
ジリアンは、マルグリットの神経質さと相性が悪かった。
ノーマンのレポートの束がずれているのを、綴じ直そうとするマルグリットを「必要無い」と止めた。
式典の前、ノーマンのチーフを丁寧に整えるマルグリットの横で、ノーマンに「誰も気にしないよな」と言った。
ノーマンの綴りの僅かな覚え間違いを、マルグリットが言うか言うまいか散々迷った末に、ノーマンが将来困るのではと考えて指摘した時、「それぐらい、別に問題ないだろ」とため息を吐いた。
人気者のジリアンの疎まし気な態度は、学園でのマルグリットの立場を悪くさせた。
婚約者が居るから問題無いとは言え、男子生徒からは明らかに不人気な令嬢扱いされたし、ノーマンが気の毒という声も良く聞いた。
女子生徒からは、侯爵家の跡継ぎ娘という学年でほぼ最上位の友人が居て尚、ノーマンとの婚約を辞退するべきでは、という当て擦りをするものが後を絶たなかった。
入学したての頃は、ノーマンへの指摘はもっと多岐にわたっていた。
今では、最小限、必要なものに限っていたはずだったが、それでもジリアンは不満を声にした。
それらに対するノーマンの「まあまあ、マルグリットも悪気がある訳じゃないから」という執り成しも、マルグリットの心を削っていった。
学園に上がる前は、マルグリットの事を気が利くと言ってくれていたノーマンを好ましく思っていたはずだった。
けれど、卒業まで残すところあと一年程になって、マルグリットはノーマン達にあまり関わらないような行動を選びがちになっていた。
今日は、一学年上の生徒の卒業式である。
マルグリットとノーマンは、在校生の代表側に名を連ねており、学園に正装でやって来ていた。
卒業生達は、これまでは未成年としての扱いであったが、卒業式からはそうでは無くなる。
在校生であってもそのような場に臨むにあたって、マルグリットは、最近では特に抑えていた細かさを最大限に発揮する事にした。
その最終仕上げとして、控の間でノーマンの服装の確認をしようとして、入ってきたジリアンに戸惑った。ジリアンもまた、在校生として出席を予定していたから、居るのは当然であるが、マルグリットは今度は何を言われるか身構え、ノーマンの確認を諦めるか思案を始めた。
マルグリットに険のある態度を取りがちなジリアンだったが、今日はノーマンに一声かけただけで、鏡で自身の装いの確認を始めた。
内心で胸を撫で下ろしたマルグリットは、ノーマンの確認を終えた。
その日は男女同伴の慣例のため、いつになくノーマンと長く時を過ごした。
久しぶりのノーマンとの会話は、思いの外弾んだ。
レイリアも在校生の代表であった事もあり、密かに億劫に思っていたノーマンとの時間を恙なく過ごすことが出来た事を、マルグリットは非常に安堵していた。
「良かった。最近の様子のまま、ノーマン様に嫁ぐのは不安でしたもの」
そっとそう、独り言ちた。
思えば気が抜けていたのかもしれない。
在校生代表は未成年のため、少し早めに退席する事になっていた。
帰りの馬車を待つ場で、マルグリットはほとんど意識せずにノーマンに語り掛けた。
「ノーマン様、タイを直させてくださいませ」
「……いい加減にしろ!
もう帰るだけだ! 必要無いだろう!」
ジリアンだった。
多少は控えようと言う気持ちが残っていたのか、声量こそ抑えられていたものの、明らかな怒号に場が凍り付いた。
「そのように仰る必要など有りませんでしょう。
婚約者同士の、微笑ましいやり取りではございませんか」
しばらく様子見していたものの、ノーマンがマルグリットを庇う様子を見せないために、レイリアがマルグリットを背にして言う。
「分かってる!
でも、もう限界だったんだ!
この会の準備の間、どれだけ我慢してたか分かるか!?
他の人間なら、絶対気付かないような事を、ネチネチと!」
「気付きますわよ」
「いいや、気付かない!」
言い争う二人の傍で、各々のパートナーを始め、周囲が戸惑っている。
自分が原因の騒動に、どうにか二人を止めようと歩を進めようとした時だった。
ノーマンがマルグリットの耳元で囁いた。
「やれやれ、トンプソン侯爵令嬢にも困ったものだね。
いつものように、マルグリットが――であってくれれば、全て丸く収まるのに」
「え?」
何を言われたか理解出来なかった。したくなかった。
それからの事はあまり覚えていない。
ノーマンに支えられて馬車に乗せられたような気がするし、レイリアが気づかわし気な声をかけてくれた気もするが、何を言ってもらったかも思い出せない。
出迎えてくれた母に酷く心配されたようにも思うし、兄と義姉にも何か言われたように思うが、記憶が曖昧だった。
気づけば、自室の寝床で涙しながら眠っていた。
控えめなノックの音がする。
反射的に出した入室許可の声は掠れていた。
「失礼致します。
旦那様からのお嬢様への伝言をお伝えします。
『大事な話があるので、今日は学園を休み、気分が良くなったら執務室に来なさい』との事です」
父は、最近隣国から帰ってきたばかりで、ここしばらく忙しそうにしていた。
侍女は、着替えるかどうかや、朝食を摂るかどうかも聞いてくれた。
顔を洗い、部屋着に着替え、部屋で朝食を摂る事にする。
鏡で見た顔は、目が腫れていた。
軽めの朝食を摂ると大分気分がましになったので、父の都合を聞いてもらい、それに合わせて執務室に向かう事にする。
今着ているのは部屋着なので、執務室に向かうために、着替えなくてはならない。
「来たか、掛けなさい。
昨日の話は……いや、いい。無理をする必要は無い。
今日は、お前の婚約解消の話をしようと思ってな」
「婚約解消、ですか?」
十になる前に結んだ婚約だ。後一年か二年程で婚姻の時期を迎えるような今、解消の話が出るなど普通では無い。
「そうだ。学園に入ってからは、上手くいっていなかっただろう」
「上手くいっていない、という程ではありません。
……何故、お気づきなのですか?」
ノーマン自身からの扱いが酷い様なら、両親に相談する事も考えただろう。
しかし、軋轢は周囲とのものだったので、報告はしていなかった。
「当然だろう。親をなんだと思っているんだ」
ホッとした様な嬉しい様な、それでいて居た堪れない様な、複雑な気持ちにマルグリットが翻弄されていると、話は何故か父の惚気話になっていた。
「……疎ましいとしか思えなかった自分の性格を、そんな風に好意的に捉えてもらった事が嬉しくてな。
娘のお前にも、そんな結婚をしてもらいたいと思ったのだよ」
父と母の馴れ初めから結婚生活に至るまで、時には同じ内容を繰り返しながら、延々と続く惚気話から、ようやくマルグリットの話に戻って来たらしい。
マルグリットは、吐き出していた砂糖を拭うために、自分の口元にハンカチを当てた。
「エルス伯爵夫妻は特に夫人が、お前の事を買ってくれているが、最近のノーマン君は違うだろう。
ジリアン・ブルックス侯爵令息が、お前への悪し様な物言いを隠さないのは、本人の浅慮もあるが、ノーマン君が話の出処だからだ」
父がそっと机に置いた書類を見ると、その裏付けが取られていた。
落胆は、驚きだけでなく、やはりという思いと共にあった。
陰口の中に、ノーマンしか知らないはずの内容があったのだった。
「お前を嫌われ役に仕立て上げて、自分への同情票を稼いでいたんだ。
それも貴族のやり方と言えばそうだが」
「昨晩は、直接言われました。
『いつものように、マルグリットが嫌われ役であってくれれば、全て丸く収まるのに』と」
「この婚約は、お前を思ってのものだったから、我が家の利益は然程ではない。
解消ならば、話し合いで可能だろう。
お前の将来だが、学園の残り一年、隣国へ留学してはどうだ?
お前に会わせたい相手を見つけてな」
レイリアとの別れは躊躇われたが、もう学園に通いたい気持ちは無かった。
母や兄夫妻とも話をして、隣国行きを決めた。
折良く学年の変わり目だったため、レイリアとの別れの機会も取る事が出来、余裕を持ってという程でなくとも、準備の時間もあった。
そして、兄に付き添ってもらって渡った隣国。
隣国の学園に通い出す前の、デビュタント前の若い貴族令息令嬢も参加する夜会にて。
「同じ病を患っていらっしゃる」
「マルグリット。
心の声が漏れてるし、僕達の性質は、別に病気じゃないから」
父がマルグリットに会わせたいと言っていた相手とその理由は、直ぐに分かった。
夜会の準備のために並べられた無数のグラスに混ざるたった一つの小さなヒビ。
大広間にいくつも下がるシャンデリアの中でごくわずかにある火の消えた蝋燭。
磨き上げられた室内で微かに曇る窓ガラスのほんの一部分。
立ち働く何人ものメイドたちのたった一人のエプロンの少しの染み。
全て同じ所を見ていた。
思えば、兄妹の神経質さは父譲りのものだったから、父がコーネリアス・ヴィンランド伯爵令息を見つけるのは当然だったと言える。
マルグリットも気になる所を見ていたコーネリアスと目が合うと、恥ずかしそうに目を逸らされた。
背が高いせいか瘦せすぎなように見え、眼鏡の奥の目は細くて、いかにも神経質そうな印象があったが、マルグリットは優しそうな相手だと思った。
紹介されて話をすると、性質が似ているだけでなく、趣味も合うことが分かった。
乗馬があまり得意でない事、読む本の作者、好きな食べ物、落ち込むと穏やかな景色の場所に出かける事。
コーネリアスとの婚約を解消しようとしているという子爵令嬢とも、会って話をした。
「ヴィンランド伯爵令息様は良い方だと思いますよ?
でも、わたしは大雑把な方ですから、婚姻で身分が上がってしまうのは、重荷だと思いますの」
言外に、あまり神経質な相手はちょっと、といったところだ。
無事、婚約解消出来たら、富豪の商人に嫁ぐ予定らしい。
「……さっきの話、ちょっと僕は辛かったな」
「お義姉様は、お兄様の細かい所は助かるって仰っていますよ」
兄の相手も父が見つけたものだったが、マルグリットの目から見ても、二人は仲睦まじかった。
隣国の学園生活は、楽しかった。
コーネリアスは、同年の隣国王子の側近だったのだが、王子はレイリアと似たところがあり、コーネリアスの神経質さを買っていた。
「マルグリット・モートン伯爵令嬢。
助かるよ。
流石に、コーネリアスにご婦人関係の確認はさせられないものがあるからね」
穏やかな気質の権力者に気に入られたマルグリットは、女子生徒の友人も容易く得る事が出来た。
隣国で学園を卒業したマルグリットは、異国から嫁いできた王子妃付きの女官となり、王子付きの文官となっていたコーネリアスと結婚した。
結婚してからも王子夫妻に仕え、夫婦揃って重宝され、穏やかな日々を送った。
「ここは誰か男性の文官に確認させる必要があるな」
「でしたらコーネリアスに確認させましょうか?」
「いや、新人にやらせてみよう。
最終確認用魔道具夫妻 夫の方を投入するにはまだ早い」
「……殿下?」
「あ! い、いや、呼び名、只の呼び名だよ」
王子から「最終確認用魔道具夫妻」と呼ばれていると知った時は、どうかと思ったが。
レイリアとは、手紙のやり取りを頻繫にしている。
父から学園での振る舞いを突き付けられるまで、婚約解消を渋っていたノーマンは、中々結婚相手が見つからなかったようだったが、爵位を返上するかという程に困窮した子爵家の令嬢を迎える事になりそうらしい。
政略結婚の利益が全く無いどころか、不利益と言ってもいいぐらいだ。
ノーマン自身も、服装や書類に不備が多く、王宮での出仕先が無いまま、伯爵家を継ぐことになりそうなため、エルス伯爵家の今後の未来は暗いと、レイリアが書いている。
ノーマンとは、婚約解消の席で話をした。
「細かすぎる事を指摘する君が嫌われ役で、何でも受け入れられる僕が好かれ役で、それで適材適所だと思わないかい?」
クズだった。
父が収集した情報に、学園に入学してマルグリットの方が明らかに成績が良かった事を気にしていたらしいとあったが、それを考慮しても、何も理由にならないと思った。
ジリアンもまた、出仕は出来なかったそうだ。
実家の領地に戻ってからの話が社交界に上がる事が無いので、どうしているかは分からないが、恐らく慎ましい暮らしをしているだろうと、レイリアが推測している。
マルグリット達は毎晩、夕食後に銀食器を磨きながら話をする習慣が出来た。
「今日は、王宮の窓に二か所もヒビを見つけてしまってね、参ったよ」
フォークを磨きながら、ため息を吐くコーネリアス。
「窓ガラスの交換は大変ですものね。
私は、ドレスにほつれのある侍女を三人も見つけてしまったわ」
スプーンを磨きながら、返すマルグリット。
「高位の侍女で、三人は多いな。君も大変だったね」
語る内容は愚痴が多かったが、二人は幸せそうだった。
「邸の中を直接掃除されるよりはマシ、邸の中を直接掃除されるよりはマシ」
銀の燭台を磨いている、コーネリアスの乳兄弟の執事の呟きが、夫妻に届いているかどうかは分からない。
読んで下さってありがとうございます。