後輩が傘を返してくれる話
「お久しぶりです、先輩」
校舎の裏庭で突然、後ろから声を掛けられた。振り返ると、そこにいたのは何てことはない、ウチの高校──三鷹山葉学園高等学校の制服を着た背の低い女の子だった。
「え?」
「ホントに先輩だ……よかった、また会えるって信じてました!」
「……誰?」
「ふふっ、誰でしょう?」
彼女はイタズラっぽく笑いながら、周りを見回すように長い髪をふわりと靡かせながら一回転した。
「ここは穴場ですね。人通りも少ないし、内緒話にはもってこいの場所です」
「だから、誰なんだよ……」
妖精か何かのような姿に思わず目を奪われてしまいつつも、急に親しげに話しかけられたことには困惑を隠せなかった。もちろん女の子に話しかけられること自体は悪い気はしない。ついでに言うと、けっこう可愛いし。とはいえ、見覚えのない子にいきなり「先輩」と呼びかけられても戸惑ってしまう。
「えーと、別の誰かと勘違いしてやしないかい?」
「いーえっ、アナタで間違いありません。 三柳蒼先輩、ですよねっ!」
「ううむ……合ってるなぁ」
それは確かに俺の名前だ。この子が俺のことを知っていることは間違いないっぽい。しかし俺の方は全くこの子のことを思い出せない。よく見るとこの子、少し色味の淡い栗毛色の髪に、夜空を思わせる瑠璃色の瞳と、どこか浮世離れした佇まいをしている。こんな子、一度会ったらそうそう忘れないと思うのだけれど……
「ホントに覚えてないんですね……でもそっか、あの時は名前も言ってなかったし、あの日以来ずっと会ってなかったんだからしょうがないですよね」
残念そうに俯く彼女を見て、少し心が痛む。
あれ……? その姿を見てふと、心に引っかかるものを感じた。
「……先輩。わたしは“魔女”です」
「っ!?」
「2年前のあの日、先輩に救われた魔女です。憶えて、ませんか……?」
この目、不安げに問いかけるこの声。そして────“魔女”という言葉。
「そうか……思い出した。君はあの時の、」
「っ、はいっ!!」
一気に鮮明に思い出した記憶の中の女の子と、同じ目で俺を見つめる目の前の少女。
そうだった。あれは、確か────
◇ ◇ ◇
「……あなた、は……?」
とある街のとある公園の隅で、小さくうずくまって座り込む人影があった。どうしたのだろうと少し離れた場所から見つめていた俺に、ふと顔を上げたその人物は問いかけてきた。フードを被っていたから分からなかったけど、女の子だったらしい。
「いや……こんなところでどうしたのかなと。もうすぐ雨も降りそうなのに、わざわざそんな隅っこに座り込んで。家に帰った方が良いんじゃないか?」
「……いいの。わたしには、ここしか居場所ないもん」
「“居場所”ね。あれか、帰る家がないとか帰っても暮らすお金がないとか」
「……そういうのじゃない」
「だよな」
冗談っぽく軽い口ぶりで訊いたけれど、違ったようで安心した。
それにしても、“居場所”か。
「ま、いいや。ならその“居場所”、少しの間だけ相席させてもらうよ」
「え?」
彼女の近くのベンチに腰を下ろす。
「……なんで?」
「俺にとってもここは“居場所”なんだよ。大事な思い出のある、ね」
大切な人と過ごした、思い出の場所。たとえその人がいなくなっても、大切なことは変わらない。
「あとはまあ、似た者同士の雰囲気を感じたから、その誼で」
何か、重いものを抱えた者同士の親近感とでも言うのだろうか。この子もまた、何かを抱えているのだと直感した。それこそ、生きていくだけでも苦しい何かを。
「ダメだよ……放っておいて。わたしは“魔女”なんだから……」
「え?」
「“魔女”はみんなを不幸にするの。自分も、他人も……だから誰も、わたしに関わらない方がいいの」
「そりゃまた……本気で言ってるのかい?」
「信じるか信じないかは勝手だけど。お母さんもわたしも“魔女”だけど、わたしの周りでは不幸なことばかり起こったし、お母さんもいなくなっちゃった。もうイヤなの。みんなが不幸になって、いなくなるのが……だから放っておいて」
ぷいとそっぽを向いて俯く少女。
彼女の言動は、幼い子どもの思い込み……というにはやけに確信的な響きを含んだ言い方が気になった。何より、“魔女”という言葉を聞いて黙っていられる俺でもない。なぜなら、まさにこの場所で、俺は“魔女”を名乗る大切な人と出会ったのだから。
「聞き捨てならないね。俺は、“魔女”はみんなを幸せにするんだって聞いたんだ。誰であろう“魔女”本人からね」
「……え……」
「俺の大切な人もまた、自分のことを“魔女”だって言ってたんだ。生憎、もう亡くなっているけどね。ひとつ年上の女の人でね。仲良くしてくれてた……大切な人だったんだ。俺にとっては、誰よりも」
「それって、恋人……?」
「まあ……うん、そうだね」
その想いを確かめ合ったのは、彼女が亡くなる直前だったけれど。出会った時はまだ中一と中二、そういうことをちゃんと理解していたとは言い難いとしても、口にはせずともお互いそのつもりではあったのだと思う。なにより、大切な存在として互いに想い合っていた……少なくとも、そのことだけは間違いなかった。
「あの子は言っていた。『“魔女”はみんなを幸せにするんだよ。だからアオイくんも。これからもずっと、幸せでいて。』って。病気のせいで、自分の命が長くないことを知っていたのにね。いやそれとも、だからこそみんなを幸せにしたいと思っていたのか。あの言葉があったから、俺は────」
つい、言葉に力がこもる。
「だからこそ俺は、その言葉を本当にしなきゃいけない。あの子と一緒にいた時間は幸せだったし、今もちゃんと幸せだ。それにあの子、『もしも高校生になれたら、やりたいことがいっぱいあるんだ』って言ってたからね。あの子が送れなかった高校生活をちゃんと楽しまないとだし、たまにこうして思い出に浸ることはあっても、俺は一人でもちゃんと幸せに生きていけるんだって胸を張って言えるようにしたいんだ」
「……」
「正直、“魔女”ってのが何なのか、ちゃんと知ってるわけじゃないんだけども。それを名乗る以上は、悲しそうな顔でうずくまってる君を見過ごせないな」
俺は静かに立ち上がると、力強く頷いてみせた。
「“魔女”はみんなを幸せにするんだよ。他人も、もちろん自分自身もね。そのことは、あの子が身をもって証明してくれた。だから君は、大丈夫。君も必ず幸せになれる。幸せに……なってほしい」
少女は俯いたまま動かない。この言葉が届いているかどうかは分からないけれど、声を殺して鼻をすする音が聞こえるのを聞くかぎり、きっと大丈夫なのだろう。
気がつくと、ぽつぽつと雨が降り始めていた。遠くから漂ってくるアスファルトの濡れた匂いが、大雨になりそうな気配を感じさせる。
「やっぱり来たな……。電車の時間もあるし、俺はそろそろ行くけど、君はどうする?」
声を掛けるが、少女はやはり動かない。いよいよ本格的に降り始める雨の中で放置するわけにもいかず、鞄の中に入れていた折り畳み傘を広げると、少女の肩に立てかけて、そのまま立ち去ることにした。
「あ……」
「このまま置いていって、濡れネズミにさせたら後ろめたいからな。風邪ひくなよ」
本当はもっと色々と話を聞くべきなのかもしれないが、同時に、自分なんかで力になれることはないのかもしれない、とも思う。
それに、自分自身のことばかり話し過ぎてしまったことへの恥ずかしさもある。見ず知らずの相手にこんな話を包み隠さず話してしまうなんて。我ながら呆れてしまうけれど、なぜだか悪い気分ではなかった。
駅までの道を小走りに走っているうちに予想以上の大雨になってしまった。たまらず目に付いた建物の軒下で雨宿りをする。滝のような大雨で、髪も服もとっくにびしょ濡れだ。傘を失ってしまったのは思ったよりも痛手だった。とはいえ後悔はしていない。むしろ、あの子が無事に家に帰れたかどうかの方が心配だった。
「あの……っ!」
そう思っていると、不意に後ろから声がした。
ちょうど思い浮かべていた相手の声。見ると、さっきの少女が息を切らせてこちらにやって来ていた。
「はぁ、はぁ……。あの、傘……! ……こんなに大雨になってしまって、返さなきゃ、って……」
「……遅いよ、色々。もうとっくにずぶ濡れだ」
俺も、君も。
この雨の中を走ってきたのだ、濡れずに済むわけがない。だがこの子の心遣いは嬉しいと思った。
「送るよ。もし何かあったり、風邪でも引かれたらお家の人に申し訳がないからさ」
「あ、あの、実はわたしも電車に乗るから……」
「なんだ、この辺に住んでるんじゃなかったのか。じゃあ、一緒に行く?」
少女が黙って頷き、受け取った傘に彼女を誘い、駅までの道を再び歩き出した。
歩いている間も、電車に乗っている間も、とくに会話はなかった。乗り換える時と、どの駅で降りるのか訊ねたのと、席が空いたから座るように勧めた時くらい。
彼女は意外にも、俺よりもさらに遠くの駅まで行くらしい。何故こんな遠くにまで来たのか、気にはなったが訊ねる気にはならなかった。ただ同じ街で、同じあの居場所で、同じように雨に濡れた者同士。たまたま居合わせただけの行きずりの縁ではあったが、それでもどこかお互いに親近感というか、仲間意識のようなものを感じていた。何も言葉はなくても、お互いの存在だけは確かなものであるということ。
自分たちは、決してひとりじゃないということを。
「───次はー、調布、調布───」
「お、そろそろか……。俺はここで降りるから。」
心配ではあったが、さすがに相手の駅にまで送っていくわけにはいかないので、当然俺の方が先に降りることになる。
「うん。……あの、ありがとう……」
「俺は何もしてないよ。ただ自分のことを話しただけだし」
立ち上がった俺を引き留めるように彼女も立ち上がり、声を掛けてきた。雨に濡れてぐしゃぐしゃになった髪の下に、深い瑠璃色の瞳が見える。珍しい瞳の色だ。それに、ちゃんとした明かりの下でよく見てみると、髪も少々栗毛色がかっている。もしかするとこの子には外国人の血が入っているのかもしれない。
「……えっと……」
何か話すことを探している様子の彼女を見て、やはり心配になる。かといって、本当についていくわけにはいかないし……
「そうだ。これ、持っていきな」
咄嗟に思いついて、先ほどの折り畳み傘を手渡す。
「え……でも……」
「傘が無いんじゃ、着いてからも大変だろう。俺は家が駅の近くだから大丈夫」
家が近いというのは嘘だが、これくらいの嘘なら神様も許してくれるだろう。ひとり重い過去を抱えながら生きていく者同士、何かを抱えた者同士としての餞別。そして、お互いに決して“ひとりぼっち”ではないのだということの証として。
彼女は戸惑いながらも、やがてためらいがちにその傘を受け取った。
ちょうど駅に着いて、電車がカクンと揺れる。倒れそうになった少女を軽く支えて立たせてやってから、開いた扉に向かいながら別れを告げる。
「それじゃ。風邪ひかないように気をつけて」
「あの……! ……やっぱりこんな、貰っちゃうのは……!」
「なら無期限で貸し出す! もし機会があったら、そのときに。またな」
まだ渋る彼女にそう言い放ちながら、電車を降りる。扉が閉まり、窓の向こうに見える少女に手を挙げて見送ると、彼女の方も小さく控えめに手を振ってくれた。遠くに住む者同士、あの街で出会ったのだ。何故あの街に来たのかは聞かなかったが、きっとこれも何かの縁だったのだろう。案外、いつかまた会う時は来るのかもしれない。その可能性は低くないと、そんな予感を感じていた。
◇ ◇ ◇
────そして、現在。あの時電車の窓越しに見送った少女がまさに今、俺の目の前に立っていた。
「そうか、君は……あの日、公園で会ったあの子か。大きくなったね」
「はい! 白石佳実といいます。あの時は、傘をありがとうございました」
少女は──白石さんはそう言って、綺麗に折りたたまれて可愛らしい袋に入れられた、あの時の折り畳み傘を手渡してくれた。
正直なところ、見違えた。2年前のあの日……忘れたわけではなかったが、あの時見た彼女の印象とは全く違っていて、すぐには記憶が結びつかなかったのだ。くしゃくしゃだった髪もきれいに梳かれて、すっかり女の子らしい装いをしている。公園の隅にうずくまり、何物にも興味を示さないといった風だったあの少女の面影は、どこにもなかった。
「……でも、背はあまり大きくならなかったんですけど。なんなら先輩の方が伸びてるような……」
「そこはほら、雰囲気がね。大人びたというか」
ぐいっと手を伸ばして俺との身長差を測ろうとする白石さん。うーんと、頑張って背伸びをする姿が可愛らしい。
「それにしても、その傘……よくもまあ、後生大事に持ってたもんだ」
「当然です。ずっと大事に持ってました。いつでも返せるようにって」
傘をしっかり手渡すと、白石さんは恥ずかしそうに視線を逸らして一歩離れる。
「ホントは一度、調布の駅まで返しに来てたんですけど。やっぱり何の手がかりも無しだと見つけられなくて」
「当たり前だ。俺は普段電車を使ってないし、通るわけない」
「ちゃんと降りて、探してみたんですよ? 家が近いって言ってたのは覚えてましたから」
「あー……。えっと、それは方便で、実際は駅からもかなり遠いよ」
「嘘だったんですか!?」
「仕方ないだろ! ああでも言わないと受け取らなかっただろ、君は」
非難めいた視線を向けてくる彼女に、バツの悪い顔で弁明する。
「どうりで見つからないわけだったんですね……」
「いや、そもそも名前も住んでるところも知らない相手を、何の手がかりもなしに探そうとすること自体が無謀なんだと思うよ」
「でもわたし、名前は知ってますよ。呼びましたよね。三柳アオイ先輩、って?」
改めて名前を呼ばれて、ピシッと身体が固まる。
「そういえば……なんで知ってるんだ」
「名前、書いてありましたから。ここに」
そう言って白石さんは、折り畳み傘のある部分を指さす。傘の布地の端っこに縫い付けられたネームプレートに名前が、「三柳 蒼」とご丁寧にふりがな付きで書いてあった。
ちょっと待て。こんなものを、初対面の子に渡していたのか、俺は……!!
「最初から思っていましたけど、これを見て、やっぱり良い人に違いないんだって思いました」
「いや、これは、小学生の頃から使っていた傘だったからで!」
なんだろう、こんなド間抜けな失態をやらかしていたとは夢にも思っていなかった! 恥ずかしくてかなり顔が熱い。本当に阿呆だ……自分の間抜けさ加減が恨めしい。
見ると、白石さんも申し訳なさそうにしながらくすくすと笑っている。穴があったら入りたい、とはまさにこのことかと頭をかかえる。
「ふふっ……でもそのおかげで、先輩の名前を知れました。いつも鞄の中にこの傘があって、先輩の名前と人柄が思い浮かべられて。本当に支えになってくれて。……いつかまた会いたいって、思ってました」
顔をほころばせて、眩しいものを見るような目で、白石さんは真っ直ぐ見つめてくる。
「そうか……。なら、みっともない真似を晒した甲斐はあったってことか」
「はい。わたしにとっては、みっともなくなんてないですけど」
恥ずかしいことに変わりはないが……まあ、結果としては悪くない。現にいま彼女が笑っていることで、この失態にも意味は充分にあったのだと。
そろそろ、日が沈みかかる頃。頬が熱い気がするが、それはきっと真横から照りつける夕陽のせいだろう。そう自分に言い聞かせることにした。
そんな俺を見ながら、白石さんは嬉しそうに言った。
「また会えて嬉しいです、先輩。これから、よろしくお願いしますね?」