31 ~図書室での再会~
「久しぶり」
先輩はあたしがずっと避けていた事を忘れているのではないかと思うほど、自然に声をかけてくる。まるであの日のようにだ。
あたしはぎゅっと胸が締め付けられるのを感じながら、軽く頭を下げてそのまま立ち去ろうと、足早に歩き出した。
「待ってくれ!」
いつも、とても悲しそうな表情をしてそのままあたしを見送るくせに、今日はなぜかあたしの手を掴んで引き止める。
今にも泣き出しそうな程、悲しげな表情を見せる先輩の姿を見て、さらに胸が締め付けられた。
「あの、あたし……そろそろ行かないと」
「俺が、あんな事言ったからだよな?」
あんな事、というのは先輩があたしに告げた思いのことだろう。わかっているくせにあたしはとぼけた様に首を傾げた。
「ごめん、やっぱり俺はあのままの関係は嫌だったんだ。けど、その所為で柏原に嫌な思いをさせていたなら謝る」
もう一度、ごめんと先輩は頭を下げる。
そうじゃない。あたしは嫌な思いなんてしていない。
あたしが先輩の思いを拒んだ時、先輩はそれでも笑ってくれた。友達という関係になろうと、言ってくれた。あたしの、初めての友達になってくれた。
むしろ、謝るべきなのはあたしの方なのだ。それなのに、先輩は深く頭を下げる。あたしは、何も言わずにその頭を見つめていた。
「サークルにも、居づらくしてしまったんだよな……」
ようやく頭を上げた先輩が、ポツリと漏らす。先輩を避け始めた時と同じくらいには、サークルの集まりには行かなくなった。だから、勘違いされても仕方がないだろう。
「先輩、あの……違うんです」
「いいよ、俺に気を遣うな」
「とりあえず、手……放してください」
「ご、ごめん!」
ずっと掴まれていた腕が慌てて解き放たれる。自由になった右腕を、あたしはなんとなく背中に隠した。
「あたしがサークルに顔を出さなくなった理由に、先輩は関係ありません。元々、妹の付き合いで入ったサークルでしたし、別に顔を出す理由は、特にないから」
最初のころ、よく顔を出していたのには理由があった。先輩に会いに行っていたのだ。
「先輩を避けていた理由は……あの事が原因ってわけではありません。ただ、単純に……あたし、恋人がいるって、話したじゃないですか。その人がいい思いをしないなって思って、遠ざけていただけです。ごめんなさい」
今度はあたしが頭を下げる。先輩が小さく息をついたのが聞こえた。
顔を上げると、困ったような、安心したようななんとも言えない表情を浮かべ、頭をかく。あたしが先輩の立場でも、同じ表情を浮かべただろう。
「相手の人、俺との事を怒ってたのか?」
あたしはしばらく考えた後、首を横に振った。
「わかりません。けど、よくは思っていないと思います」
サラリと嘘を吐く。実際、愛花はあたしと先輩の事を酷く怒っていた。友人関係であろうが、関係ない。
あたしは折原恵美と愛花を引き離した。今思えば、二人もきっとあたしと先輩のような関係を築こうとしていたに違いない。
けれど、愛花を信じきる事が出来なかったあたしは、二人の関係を妬んだ。
愛花は、大切な友人をあたしの所為で失う羽目となり、心に小さな傷を負った。
それなのに、あたしはのうのうと先輩と関係を築こうとしていた。それに対する愛花の怒りは、とてもとても恐ろしいものだった。
「そうか、そういうものって、俺から説明しても裏目に出るだろうし、難しいな」
先輩はそう言った後、困ったように笑い「情けないよな」と、零した。
あたしは首を横に振り、泣き出しそうになるのを必死で堪える。この人に、こんな顔を、こんな言葉を言わせているのがとても悲しかった。
あたしは、先輩といい友達になりたかった。けれど、自分の犯した過ちが返ってきてしまった。自業自得だと、理解している。
だからあたしは、「LIKE」も「LOVE」も、あたしの中に生まれてくる全ての「好き」という感情を、今後愛花にだけ注ぐと決めたのだ。
今まではずっと、それが普通だと感じていた。実際に、そうだったのだから。
けれど、あたしは先輩と出会って変わってしまった。自分の中にある「好き」という感情の「LIKE」を先輩に注いでしまった。
それはきっと、愛花にとっては裏切り行為だった。過去のあたしがそう思っていたのと同じように、愛花にとって今、全ての「好き」という感情を互いにだけ注ぐという事が、当たり前だったのだ。
「柏原も、柏原の彼氏もお互いの事、大切にし合っているんだな」
その言葉を聞いて、少し嬉しくなる。あたしは、他人から見ても愛花を愛せている。愛花も、あたしを愛してくれている。公にできないあたし達の気持ちをそう見えるんだと証明してくれる人が、ここにいた。
そうですか? と、照れ隠しを含んだあたしの返事を聞くよりも先に、先輩は「でも」と、続けた。
「でも、お互いにそれだけ大切にしていて、好きなら少しくらいは相手の事、信じてやってもいい気がするけどな」
先輩は、笑ってはいなかった。とても、かわいそうだと言わんばかりの視線をあたしに向ける。
「し、信じてます。あたしも、相手も、お互いを……」
「信じていたら、こうはなっていないだろう」
「別に、相手に言われてしているわけじゃないんです。あたしが勝手に、そうだろうなって思ってしている事で……」
「じゃあ、柏原の方が相手を信じてないんだよ。自分が逆の立場になれば疑うだろうって思っているんだ。だから、そうするんだ」
言い返そうとしたが、言葉が出てこない。そうだったから、今こんな風に愛花の怒りを買う事になった。先輩の言う事は、間違っていない。
「ごめんな。酷い事言いたいわけじゃなかった」
先輩は手を伸ばし、頭に触れようとしたが、頭の少し上で手を止めたあとそのまま引っ込める。
その手をそのまま自分の頭に回し、バツの悪そうな顔をして頭をかいた。
「じゃあ、俺はそろそろ行くよ。邪魔してごめんな」
フルフルと、首を横に振る。
「そんな顔しないでくれ。また、見かけたら懲りずに声をかけるから、挨拶くらいは返してくれよな」
そう言った後、何かを思い出したかのように足を止め、振り返る。今にも泣き出してしまいそうだったあたしは、早く行ってほしいと願った。
「ばあちゃんが、柏原にまた会いたいって言ってた。そっちが落ち着いたら、一回会いに行ってやってよ」
先輩はそれだけ最後に告げると、さっさとあたしの目の前から姿を消した。
あたしは先輩が見えなくなり、そのまま力が抜けたように椅子の上に座りなおす。
こんなところで泣くわけにはいかない。あたしはどうして泣くんだろう。そんな事がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
とうとう堪えきれなくなったあたしは、うつ伏せのまま静かに涙を流した……
「あ、いた」
何度か携帯が震えている事には気づいていた。けれど、誰からの連絡か確認する事をしなかった。確認するまでもない。あたしの連絡先を今知っているのは、愛花と両親くらいだ。
「アイちゃん、大丈夫? 具合、悪い?」
頭上で愛花の心配げな声がする。もう目の赤みは引いただろうか。確認を怠った事を、今更後悔する。
「アイちゃん……?」
「ん……ごめん、寝てた」
結局あたしは、寝ぼけたフリをしてゆっくりと顔を上げる。愛花はようやく顔をあげたあたしを見て、ほっとしている様子だった。
「ごめんね、待たせちゃって」
「マナが悪いわけじゃないでしょう」
「うん、でも退屈だったかなって」
「本、読んでたから。あと少し寝てすっきりした」
「メッセージの返信も、電話も出ないからびっくりしたよ」
愛花は「ねぼすけ」と言ってクスクス笑いながら、隣の椅子に腰掛ける。向かいではなく、隣に座るのは少しでもあたしとの距離を詰めていたいからだと以前言っていた事を思い出す。
「ねえ、アイちゃん」
「うん……~~っ!?」
突如、唇を奪われ息を詰まらせる。そのまま強引に舌をねじ込まれ、一気に頭が真っ白になる。
息を継ぐ暇もなく、愛花の舌があたしの口内を犯す。頭の先が痺れてきて、とろけてしまいそうだった。
ようやく、唇を離したあたしと愛花の口を銀色の糸が繋ぐ。それを美味しそうに指で絡めて、愛花は口に含んだ。
「急に、どうしたの!? 誰かに見られたら、どうするのよ……」
「誰もいなかったよ。ちゃんと確認した」
「軽率すぎるわよ……」
「ごめんね。でも、アイちゃんが悪いんだよ?」
あたしは頭の上に「?」を浮かべ、首を傾げる。あたしが連絡を無視した事を言っているのだろうか。
「ごめんなさい。これからはちゃんと、連絡取れるように……」
「アイちゃんが、女の子の表情してたから、シたくなったんだもん」
愛花はそう告げると、にっこりと微笑む。けれど、その笑みは純粋なものではなく、ほんの少しだけ狂気が垣間見える。
「何、言っているの?」
「アイちゃん、寝ている間、えっちな夢でも見てた?」
「わかんないわよ……」
「でもね、そういう官能的な表情でもなかったの。官能的ではないけれど、すごく女の表情って感じだった。どうして、そんな表情になったのかなぁって」
先程自分の口に含んだ指を、今度はあたしの口の中に挿れる。
最初は一本、すぐに二本、気づけば三本の指がねっとりとあたしの口の中で動き回った。
何度か指先が喉に触れて、そのたびに嗚咽をあげそうになる。表情を歪めたあたしを見ても、愛花の指は止まってはくれなかった。
「アイちゃん、わたしが言いたいのはね? 本当に本を読んでいたのかなって。だって、机の上にある本の栞の位置がとても不自然だもの。アイちゃんの読む速度なら、あれだけの時間があって本の半分も読めていないのは変だなって」
返事をしようにも、口の中にある指の所為で何も言い返せない。愛花はそれをわかっているからか、あたしの返事なんて聞きたくもないとでも言うように、続ける。
「途中で寝てしまったって言いたい? でも、その本はアイちゃんが結構前から読みたかった本だよね。それを読んでいる途中で寝るなんて考えられないの。よっぽどつまらないお話だった? それとも、その本を読めなくなる理由があったのかなって」
あたしは必死で首を横に振る。愛花に悟られてしまってはいけない。あたしだけじゃない、きっと先輩にも害を及ぼすだろう。
そう、あたしがあの日、折原恵美にしたように。
「ふうん。ま、いいや。今日はアイちゃんの言う事信じるね」
指を外し、ちゅっと優しく額にキスをする。そのまま唇を耳に持っていき、暑い吐息と一緒に優しく唇で挟まれる。
ビクンと、肩が上がり自然と両足をきつく閉じる。
「ねえ、アイちゃん……シたい」
「ここじゃ、だめよ……」
「やだ」
愛花は強引にあたしの足を開き、そこに顔を埋める。悲鳴にも似たような声が漏れ慌てて両手で口を閉じた。
愛花の鼻息がかかる。まるで犬にでもなったかのように、激しく攻め立てられ、あたしは一気に昇りつめていく。
爪先がピンと立ち、体が小刻みに震え、小さく声が漏れる。もうだめだと思ったそのとき、本棚の向こうに人影が見える。
「アイちゃん、すごい……今キュってなったよ」
愛花もその存在に気づいているはずなのに、楽しそうにあたしのスカートの中身を教えてくれる。あたしは駄々をこねる子供のようにイヤイヤと首を横に振るけれど、聞き入れてはもらえない。
音が聞こえてしまうんじゃないか。そう思うほどに、あたしの身体は限界だった。
もうだめだ。さっさと果ててしまおう。そうすればきっと、愛花もやめてくれるはずだ。そう思って、身体の力を抜こうとしたとき、本棚の影からその人が顔をのぞかせる。
「大丈夫ですか……? 誰か呼んできます?」
女子生徒だった。面識もなく、どの科なのか、先輩なのかさえもわからない。声をかけられた瞬間、流石に愛花もまずいと思ったのか、せめるのをやめてくれた。
女子生徒からは机の下にいる愛花は死角になっているのか、愛花の存在には気づいていない様子だった。あたしはその事に安心をし、その子に微笑みかける。
「ごめんなさい、ちょっとおなかが痛かったの。けど、薬を飲んだから大丈夫だと思います」
「そうですか……? すごく苦しそうな声がしていたから」
「ごめんなさい、心配……っ!?」
「大丈夫ですか?!」
「こっちにこなくて大丈夫……!」
悪戯心が働いたのか、愛花がねっとりと舌を這わせる。それだけで思わず果ててしまいそうになったけれど、なんとか持ち直した。
さすがにおかしいと思ったのか、女子生徒の表情が曇る。ただ、面倒ごとはごめんだと思ったのか、あっさりと引き下がってくれた。
「もし、具合悪くなりそうなら早めに医務室にいってくださいね」
「ありがとう」
女子生徒は逃げるように、その場を後にする。立ち去ったと気づいたのか、愛花はチュゥっと、一番敏感な部分に吸い付いた。
「ま、ナ……! だめ、それ……っ」
あたし自身も安心したのか、猛スピードで昇り詰めそのまま簡単に果ててしまう。愛花はその一回で満足したのか、ニヤリとした笑みを浮かべて机の下から姿を現した。
「アイちゃんってば、えっち」
頬に優しくキスをして、あたしの手を引く。すぐには立ち上がれそうにないあたしの耳元に唇を這わせて、囁く。
「立たないなら、もう一回シちゃうよ……?」
あたしは首を横に振り、なんとか立ち上がる。愛花は嬉しそうに微笑むと両手であたしの手を引いた。
「アイちゃん、帰ろう? ね? わたしたちのお部屋に」
あたしは力なく頷き、愛花と手を繋いだまま歩き出す。下着の中が気持ち悪かったけれど、もうそんな事はどうでもよかった。
「ねえアイちゃん」
帰宅途中、愛花が思い出したように足を止める。あたしが首を傾げていると、愛花はとても無邪気な笑顔をこちらに向けた。
「絶対に、裏切らないでね?」
「マナ、何が言いたいの?」
「別に。アイちゃんはずっと、わたしだけを好きでいてね?」
「当たり前でしょう……?」
「そ、ならよかった」
愛花はぴょんと跳ねながら、前に向き直る。
あたしは愛花が浮かべた笑顔が、まるで作り物のようで、とても不気味に感じる。
今日のことも、あたしが未だに先輩という友人を切ったことを後悔している気持ちも、絶対に知られてはならない。
絶対に……
 




