牧場へ出かけられず死ぬなんてイヤイヤよ
理一郎さんは、牧場へ出かけられなくなって、体重がみるみる増加した。しかし、これを見過ごすほど理一郎さんは頭が悪くなかった。彼はすぐさま動画を見ながらのダンスを始めた。
理一郎さんの土日の日課といえば、牧場を一気に駆け抜けた後、牛乳を一気に飲み干し、サウナに入ってととのうことであった。牧場への入場が、牧場労働者以外禁止となってしまったことで、理一郎さんは駆け抜けることができなくなってしまった。また、余談だが、ととのうこともできなくなってしまった。家の中では、牧場の爽やかな空気をも、ととのうための熱気をも再現することはできない。彼に与えられたのは、室温を上げたり下げたりするちっぽけな電気製品だけであった。たちまち彼の体温調節神経は混乱の渦に巻き込まれた。
理一郎さんは、職業柄、神経をすり減らすことが多かった。そんなことがあって、彼はたちまち統合失調症を発症してしまった。多量の服薬により、数年後に彼は回復したのだが、執筆途中であったリーマン予想に関する論文を完成させるだけの精巧な頭脳を、この間に失ってしまったようだ。また、お酒を一滴も飲めない理一郎さんの肝臓にとって、大量の抗精神病薬を代謝するのはあまりに重すぎる仕事であった。もちろん、ストレスが肝臓に与えたダメージも計り知れない。彼は細々と、新入生向けの微分積分と線型代数の講義を担当しながら晩年を過ごし、定年を迎えるや否や、体が役目を終えたのを悟ったかのように、ひっそりと息を引き取った。
死因別死者数統計に、「肝硬変」が一件追加された。
食事制限などもってのほか、そんなことをしていては、美食家の理一郎さんの神経はますますすり減っていただろう。
理一郎さんは、宗二郎さんの牧場で取れる畜農産物が大好きだった。
宗二郎さんは、婚約者を牧場へ招き入れることができなくなってしまった。しかし、そんなことで婚約者を見捨てるほど、宗二郎さんは薄情ではなかった。牧場育ちの生粋のアナログ人間でありながら、彼は必死に勉強した。そして半年後、ようやく、パソコンを使って文章を書けるまで上達した。
世の中には、お金で買えない幸せというものがある。婚約者にとって、宗二郎さんの牧場で過ごす時間が、まさにそれであった。
ところが、宗二郎さんが一年経ってようやくテレビ会議をできるようになるまでの間に、資産家が、婚約者にパソコンを買い与えていた。そして、その一年間、婚約者にとって寂しさを紛らわしてくれるのは、宗二郎さんの牧場ではなく、資産家とのバーチャルリアリティ会食であった。たちまち婚約者は、年齢が過ぎて「売れ残り」になるまいと、心を移してしまった。資産家にとって、この婚期を逃したところで、大した痛手ではあるまい。
宗二郎さんは牧場を売却し、酒とギャンブルにそのお金をつぎ込むようになった。買い手に対して気を払う余裕などなかったが、「ルート五」という新興宗教団体が買い取ったのだという。聞くところ、山麓の自然豊かな土地に修行場が欲しかったとのことだ。
そして、十何年が経った頃であろうか、とうとうそのお金は底をついてしまった。宗二郎さんは強盗を働き、人を殺めてしまった。
死因別死者数統計に、「強盗殺人」と「死刑」が一件ずつ追加された。
そんなことどこ吹く風やら、資産家には、まもなく高校を卒業しようとする友三郎さんという甥っ子がいた。
友三郎さんは、牧場で開催される予定だった卒業式が中止になったことで、他の生徒とは比べ物にならないほど落ち込んだ。
厳格な親のもとで学力至上主義の教育を受けていた友三郎さんであったが、実は、学校で総合学習の時間に訪れる牧場は胸に秘めた癒しの場所であった。ここだけでは、友三郎さんは、天真爛漫な笑顔を見せることができたのだ。
しかし、受験が近づくにつれ、そんな機会も少なくなった。女子生徒が「ガリ勉」「無味乾燥な人」と噂話をするのを端に聞きひどく傷つくも、勉強を続けるしかなかった。ところが、彼は資産家の息子ということもあり、お小遣いの額はかなり良いものだった。彼は密かにみんなの好きなものを聞き出してはプレゼントを用意していた。そしてそれを卒業式のタイミングで渡す予定でいた。そして、不器用でうまく表現できなかった最大限の感謝の言葉を、同級生一人ひとりに伝えるつもりだった。そんな折、突然、卒業式が中止になってしまった。
「ガリ勉」「無味乾燥な人」
そんな言葉が、牧場での最後の言葉となった。そのまま、都会のワンルームマンションから大学のリモート会議に出席する日々が、彼には待っていた。
友三郎さんは確かに学力優秀であった。ただ、同時に、密かに牧場の民でもあった。これから自分がどんな場所に「行く」ことになるかはわからない、それでも、「帰る」場所は、牧場でありたい、それも母校の土地の牧場でみんなと一緒に。そんな確固たる思いを、彼は両親にすら伝えずにいた。それなのに、待てど暮らせど、同窓会の案内が来ることはなかった。
もちろん、こんな状況を打破しようとしないわけがなかった。大学での課外活動解禁後、農業振興ボランティアサークルに入団した。ただ、悪い意味で、そのサークルの仲間はとても優秀だった。大学卒業後、サークルのメンバーは、全国津々浦々の農業振興事業に飛び立って行った。
母校で、またみんなで。
こんな友三郎さんの願いは、生きる土台、帰る場所は、粉砕されてしまった。これからどんな試練があろうとも耐えて見せる、でも、帰る場所がなくなったら一日と続きそうにない私。そんな洋楽の歌詞と、友三郎さんは自分を重ね合わせていた。
大学卒業三年後、友三郎さんは、上司のパワーハラスメントに耐えられず、自殺した。多量出血だった。
死因別死者数統計に、「自殺」が一件追加された。
そんな友三郎さんは、実は、極めて珍しい血液型の持ち主だった。それは、健四郎さんと同じ血液型だった。
健四郎さんは牧場に帰れなくなったことで、都会の空気に精神を蝕まれた。ただ、幸いなことに症状は軽く、薬さえ飲めば全く問題なく日常生活を送ることができた。ただ一つの点を除いて。
献血できない体になることは、決して珍しいことではない。会社の健康診断は、当該社員一人の健康を目的に設計されている。一方、献血前検査は、献血者と輸血を受ける患者の両方の健康を目的に設計されている。後者のハードルが、前者のハードルより高いことは想像に難くない。
そんなことよりも、牧場で遊んだ帰りがてら献血する人が少なくなることを、健四郎さんは憂いた。もちろん、このような状況を看過するほど、健四郎さんの献血への思いは軽いものではなかった。メールやソーシャルメディアで、献血は必要火急であることを呼び掛けた。ただ、直感でわかる、これでは足りないのだと。
牧場でのびのびと育った健四郎さんは、何とも言葉で表しづらい、百聞は一見にしかずな人間的魅力の持ち主だった。彼の街頭広報に惹かれて初めての献血をした若者は数え切れない。健四郎さんが街頭広報できないという状況は、血液バンクにとってあまりに大きな財産の逸失であった。
死因別死者数統計に「失血死」がどれくらい増えたのか、健四郎さんは知るよしもない。
理一郎さん、宗二郎さん、友三郎さん、そして健四郎さんに命を吹き込んだ与五郎さんは、どんな死因で死ぬのだろうか?