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☆十月【母なる女子】

有本(ありもと)亜里紗(ありさ)】編

 ──あかりが産まれて、もうすぐ半年が経つ。

 ようやく落ち着いて、休みがちだった授業にも出席できるようになって、今年は留年せずに何事もなく学校生活を送れると思っていた。──昨日までは。

「……どうしよう……」

 一限目のチャイムが鳴り終わった後、学校の玄関前まで来て、立ち止まる。

 すぐに追い返したけど、絶対に気づかれた……しかもクラスメイトの七人に……。先生にも言ってないのに、噂になったら……もうここにはいられない……。あの子たち、学校を休んであんなところで何をしていたの……。

「──なんだ、亜里紗(ありさ)じゃん。まだサボり癖直ってないわけ?」

「早く本土に帰れば。いつまでもこんなところにいたって無駄でしょ」

 足をすくませていると、懐かしい声が耳に触れた。それは決して優しいものではなく、同時に、背中を針でなぞられたような鋭い痛みも走る。

咲紀(さき)加奈絵(かなえ)……」

 元同級生の二人。明るくパサついた派手な髪に、ピアスが四つも五つも光る顔。その目は蔑むように陰がかかっていた。中学の頃からは想像もできないほど変わってしまったその姿に、視線を逸らす。

「まさか、今でもあたしらがあんたのことを待ってると思ってんの?」

「ないない。あんたが先に見切りをつけたんだからね」

 親元を離れて、自由に高校生活を楽しもうと一緒にこの島に来た。将来は三人でお店を出そうとも話していたのに、私が……裏切ってしまった。

 つわりが酷くて、授業を休みがちになって、お腹のことを気にしすぎて思いっきり遊べなくなって、膨らみが目立ち始めた頃には気づかれるのが怖くなって、全く学校に行けなくなった。

 二人はいつも心配してくれたのに、私は知られたくなくて、避け続けて、留年。

 一緒に卒業する夢は、叶わなくなってしまった。

「今さら登校するようになったって遅いっつーの。なんの意味があんの?」

「まさか、あたしらと一緒にいるのが嫌で休んでたわけ?」

「ち、違う! そうじゃなくて……!」

 事情を知っているのは、養護施設の保母さんたちだけ。無事に出産を終えた今でも、言える勇気はなかった。……きっと、軽蔑されるから。

「そうやって結局は何も言わない……。あんたのことを信頼してた過去がマジ汚点」

「さっさとこの島から出てけよ! 二度と顔見せんな!」

「──せんぱ~い!! おはようございまぁぁぁぁぁす!!」

 強い言葉に目を逸らしていると、誰かが飛ぶように駆け寄ってきた。

「何こいつ……あんたの新しいクラスメイト?」

「一年B組、出席番号十三番!! 和智田陽平!! 先輩がなかなか来ないので、迎えに来ました!! 本日の一限目は数学であります!!」

「うっざ……」

 敬礼する和智田は、いやらしいくらいに笑っていた。

「行こう、加奈絵。病気がうつる」

 二人は蔑むような視線を残して、去っていった。きっと、私と和智田、両方対して。

「……口の悪い先輩方だなぁ」

 和智田はスッと真顔に戻って、溜め息混じりに吐き捨てる。

「……ここで何してるのよ。授業中でしょう?」

「だから、お前を迎えに来たんだって。あっ、歳上に〝お前〟は失礼か。〝(ねえ)さん〟でいい?」

「馬鹿にしてるの……?」

 少しだけ怒りを込めた目で見ると、彼はへらへらと手を振った。

「姐さんは疑り深いな~。俺様はクラスのリーダーだぞ。クラスメイトを心配するのは当然だ! ──っていうのは半分嘘で。……本当は、昨日のことがあって登校しづらくなったのなら、俺のせいだから……」

「そんな必要ないわ。決めるのは私だから」

 目線を外し、斜め下に落とす。

「……さっきの二人、友だちだったんだろ? なんで秘密にしてるんだ?」

「あなたには関係ないでしょ」

 関係ないというより、話しても理解できないでしょうね。男の子には絶対に経験できないことだし。

「俺だったら応援するけどな~。女子高生で子育てなんて大変じゃん」

「ちょっと! 場所を考えて!」

 いい人ぶってる気? ひと気がないからっていい加減すぎるわ。他人事だと思って軽く考えすぎなのよ……!

「あ、悪い……。けど、心配するな。俺たちは誰にも言ってないし、言いふらしたりなんてしない。だから気にせず、早く教室に行こうぜ!」

 クラスの過半数に知られている状況なのに、平気でいろと?

 やっぱり、何もわかってない……。

 こぶしを上げて校舎に入っていく和智田に背を向け、引き返す。

 それに気づいた和智田は何度か大声で叫んでいたけど、追いかけて来ることはなかった。



 それから、一ヶ月くらいは学校に行かなかった。四月もまともに通えなかったから、そろそろ行かないと、また留年になる。

 私、何やってるんだろう……。いま学校を辞めれば、周りからの風当たりがもっと強くなると思って、あかりを育てながらちゃんと高校も卒業するって決めたのに……全然できてない。

「……行ってくるね」

 それではダメ。あかりの母親として、あかりの見本になる人間として、私だけはしっかりしなきゃいけない。あかりを守ってあげなきゃいけない。

 保母さんにあかりを預けて、施設を出る。

 後から入るよりも先に入ってしまったほうが気が楽だと思って、早めに学校へ向かった。

 誰もいない玄関で靴を履き替え、静まり返った廊下を歩く。

 教室の扉を開けると、窓際の花瓶に花を飾っている一人の生徒がいた。

「──あら、やっと来たのね」

 ツヤのある紫色の髪を朝陽に輝かせ、グロスをきらめかせながら唇で三日月を作る。

 よく施設に来る、ヤバ美って呼ばれている子ね。毎日誰が花の手入れをしているのかと思っていたけど、この子だったんだ。

「みんな心配していたのよ。自分たちがいるから学校に来づらいんだろうなって。……って言っても、アタシたちの軽率な行動がアナタの首を絞めることになっちゃったんだから、偽善よね。ごめんなさい……」

 謝られるのは好きじゃない、と言おうとして、やめた。

 一応聞いてはいる意思を示すように小さく息をついて、席に着いた。

「でも、これだけは言わせてちょうだい。人はね、自分と違う考えや生き方をする人間に対しては、拒絶から入るの。個人の在り方は一つじゃないのに、どうしても自分を正当化したがる生き物なのよ」

 和智田から何かを聞いたのかもしれない。予想だけで話しているにしては熱がこもっていた。

 両手を腰に当てて、癖なのか、重心が少し右に傾いている。

「だから、負けないで。つらいのははじめだけだから。恐怖は、まだ起こってないことに対してあれこれ妄想するから生まれるの。安全な殻に閉じこもっているから妄想してしまうの。恐怖を抱きたくなかったら、思いきって殻を破ってみるのも一つの手だわ。……アタシだって驚きはしたけど、アナタの生き方を否定するつもりはないもの」

 そうでしょうね。あなたの立場なら、どんな人間でも受け入れるスタンスでいる必要があるものね。……自分の護身のために。

「って、これも偽善かしら。でも、どうしても言いたかったのよね。周りの目ばかりを気にして、自分を殺してほしくなかったから。自分を罪人みたいにしないでほしかったから。だって、アタシも──」

「ヤバ美~、あんたまだやってんのかい、フルーツダイエット」

 一方通行の会話は、不意に飛んできた横槍に遮られて終わった。

 私を強く見つめていた子は、険しい表情をころりと甘く変えて体をくねらせた。

「別にいいじゃな~い! 食欲の秋はフルーツの秋! 美容の秋なのよ~! ナシとかブドウとかイチジクとか!」

「確かにナシはいいよなぁ。オレはリンゴよりナシ派だ」

「どこ見てんのよ!」

 赤髪の子と金髪の子も入ってきて、私の前の席の子と和智田も入ってきた。

「栗拾い行く? 取っておきの場所知ってる」

「おっ! いいじゃんいいじゃん! イガグリ合戦しようぜ!」

「食べ物を粗末にするなら連れていかない」

 彼らが入ってきただけ、空気は一瞬で明るくなる。

「わおっ! 亜里紗ちゃんだ! 俺っち会いたかったよ~!」

「ちょっと! 風邪っぴきさんは近づいちゃダメ!」

「風邪じゃなくて花粉症なんだってば~! ぶあっくしょん!」

 よく話しかけてくる茶髪の子は、涙目を赤くしながら鼻をすすった。

 相変わらずにぎやかな子たちね。いえ、これが普通なのかも。本当は、私もこんな高校生になっていたはずなのに……。

「あっ! そういえば、三年生の人が亜里紗ちゃんのことを探してたよ! 銀髪で親指に指輪をはめた男の先輩!」

「えっ……」

 銀髪の……三年生……!?

「亜里紗ちゃんは休んでたから知らないかもしれないけど、昨日はスポーツの日だったから、祝日なのに学校があってさ~。三学年合同の強歩大会をしたんだ!」

 毎年恒例の、ただただ歩いて島を一周するだけのイベント。去年も参加はできなかったけど、知ってはいる。出席日数に加算されるから、毎年ほとんどの生徒が参加してるって噂に聞いた。

「オレ、スケボが上級生に話しかけられてるところ見て、カツアゲされてるのかと思って大声でバチ子を呼びまくっちまったんだよなぁ……」

「ホント、情けない男さ」

 スケバンの子が赤髪の子の肩をこぶしで突くと、周りの子たちは笑い出した。

「ほら、俺っちって、先輩エンジェルともたまにお喋りしてるから、顔を覚えられてたんだと思う。でも、亜里紗ちゃんは最近ずっと休みだって答えたら、すぐに解放されたよ」

 運がよかったのね。彼の機嫌が悪くなかっただけよ。カツアゲくらい日常的にする人なんだから……。

「亜里紗ちゃんって、先輩に知り合いがいたんだね! もしかして、意外と社交的? それなら、俺っちと一緒にお喋りめぐりしようよ! いつも仲間がいなくて寂しかったんだよね~!」

 それは絶対に無理。今の私は、上の学年の生徒が卒業するのを静かに待つだけ。あの人が私を探していたというのなら尚さら……。

 立ち上がって、すぐ横のカーテンを閉めた。

 ずっと避けていたくせに、私を見ても無視していただろうに、どうして今さら近づいてくるの……。もう私になんか興味ないくせに、どうして思い出させるの……!

 学校にいる時間がいつも以上に怖くて、休み時間も廊下に出ることができず、誰かが教室を出入りするたびに緊張の糸が走った。

 長い拘束の時間が過ぎていき、帰りのホームルームが終わると、一目散に教室を出た。

 ――早く、ここから出ないと……。

 ――早く……早く……早く──!

「そんなに急いでどうしたんだよ、亜里紗」

 玄関に続く角を曲がったところで、誰かにぶつかりそうになった。心臓が跳ねたまま止まり、喉の奥で息が潰れる。

 ワックスで塗り固められた銀色の髪。胸元には黒い十字架のチョーカー。親指に赤い指輪をはめたその手は、大きな古傷が剥き出しになっていた。

「久しぶりだな。ちっと痩せたか? 顔色も悪ぃみてーだぞ」

 大きく脈打つ鼓動に圧迫され、胸の痛みは刻々と増していく。不意の再会にしてはあまりにも近すぎた距離に、思わず後退る。

「そんなに驚かなくてもいいだろ。幽霊じゃねーんだし」

 いっそ幽霊であってほしかった。

 男は少しだけ声を抑えると、屈むように顔を近づけてきた。

「……ちゃんと産んだんだよな? 名前は何にしたんだ? 一回くらい見せてくれよ。会わねーって言ったけど、自分の血が入った子供がどんなもんなのか、ちょっとは気になるだろ」

 こともなげに薄ら笑みを浮かべて言う顔に、怒りしか湧いてこなかった。堰を切ったように、強気な言葉が出る。

「命の尊さをわかろうともしない人間に、会わせるわけないでしょ……! ふざけないで!」

 子供なんて面倒だ、なかったことにすればいいって……鼻歌でも歌うように流そうとした。そんな男に会わせる義理なんてない。

「おい」

 刹那。口元から笑みが消えたかと思うと、雑草でもむしるように髪を掴まれた。

「敬語で話せって、言ったよな?」

 額にじんわりと汗がにじみ出た。それだけで息の根を止められそうなほど鋭利な目つきに、体は震えることも忘れていく。

「──やめろ!!」

 そんな地獄の一刻を断ち切ったのは、和智田の声だった。

「……うちの大事なクラスメイトにそういうことするのはやめてください」

 一瞬の威喝を鎮めて冷静に言葉を紡ぐ和智田に、彼もまなじりをゆるめた。加えて、和智田の後ろにいた三人を認めると、悠然と笑みさえ作った。

「亜里紗の新しいお仲間ってか。だからっていちいち口を挟むんじゃねーよ」

「はっ、どう見ても嫌がってるじゃねぇか。フラれたら潔く退けよ、せーんぱい」

 赤髪の子は茶化すようにズボンのポケットに手を入れる。

「テメェら……喧嘩売ってんのか……」

「あたいらは級友の意思を尊重しようとしてるだけさ。──ほら、行くよ」

 少しの恐怖心も見せないスケバンの子に腕を引かれた。その堂々とした佇まいに安堵する。

 と同時に、危機感も覚えた。この男にやっていい振る舞いじゃない。絶対に癇に障る。

 それでも、すれ違いざまに肩を掴まれることも、声をかけられることもなかった。どんな顔で私を見ていたのかは想像もしたくない。

 外に出て、校舎をぐるりと半周したところにある裏庭に着いたところで、足が止まった。

「……あ、内履きのまま来ちまった」

 わざとじゃなかったの……?

「おーい、バチ子~! 置いていくなよ~!」

 遅れて、和智田たちが駆け寄ってくる。

「悪い悪い、あの空気を早く断ち切りたくて、無心で歩いちまったよ」

「めっちゃくちゃ睨んでたぞ、あいつ。ま、オレもガン飛ばしてやったけどな!」

 赤髪の子が胸を張る隣で、金髪の子が私に鞄を渡してきた。

「……ありがとう」

 いつの間にか落としていたらしい。全然気づかなかった。

「もしかして、さっきの人が……?」

 躊躇いがちな問いに、もう隠すつもりも嘘で固めるつもりもなかった。

 私が小さく頷くと、赤髪の子はこれでもかというほど鼻の頭にしわを作った。

「マジかよ! あんな奴が父親とか、子供が可哀相だな……!」

「そんなこと言っちゃダメよ! ……確かに、大事にしてくれなさそうだとは思ったけど……」

「その通りよ。あの人は子供のことも……私のこともなんとも思ってないわ……。私は遊ばれていただけ……」

 咲紀と加奈絵と、三人でこの島に来て、知っている人が誰もいなくて、お泊り会みたいな寮生活に浮かれていた。私にはやりたいことがあったけどうまくいかなくて、気分転換にみんなで恋愛も楽しもうってなって、誰が先に彼氏を作れるか勝負して……。荒れ気味の学校の中でも、私たちに優しく声をかけてくれた一つ上の先輩たちと仲良くなって、あの人と出会った。正直、束縛されるのは嫌だったけど……私を勇気づけてくれて、まっすぐに見つめてくれる彼に夢中になってしまった。

 だから、彼の真意にも気づけなくて……大きな傷をつけられてしまった……。

「馬鹿でしょう? そのうち気が変わってくれると思って、つわりで苦しい時も、お腹が大きくなって学校に行けなくなった時も、彼が来てくれることをずっと待っていたのよ……」

 そのうち自覚が芽生えてくれるはずだって、信じて疑わなかった。

 今思うと、本当に馬鹿馬鹿しい。本当に大切にしてくれる人なら、はじめからずっとそばにいてくれるはずなのだから……。

「…………。オレがこんなこと聞くのはなんだけどよ……。産むのをやめようとは思わなかったのか……?」

 聞かれるとわかっていた。……そうよね、やっぱりそう思うわよね。

「私だって、はじめは躊躇ったわ。自分のお腹の中に赤ちゃんがいるんだって考えると、怖くて怖くて仕方がなかった……。こんなところに来ちゃダメだって、今からでも他のお母さんのところに行かなきゃダメよって、思った……。でもね──」

 赤髪の子の手を取って、彼自身のお腹に手を当てさせた。

「ここに、新しい命があるのよ。こんな近くで、小さな命が一生懸命生きようとしてるの……」

 こっそり本土の病院に行って、エコー検査で見てみたら、一センチくらいしかないのに、ちゃんと動いてて……。病院の先生に「赤ちゃんとても元気よ」って言われた瞬間、涙があふれて止まらなくなった。その命を消そうとしていた自分が、許せなくなった。

「この命は、私が守らなきゃいけない。だって、紛れもない私の子なんだから……。たとえ一人になっても、私だけは愛してあげなきゃいけないって、思ったの……」

 顔を上げて、心ばかりの笑みを見せる。暗い顔をする目の前の子たちを見たら、自然とそうするべきだと思った。

「もう馬鹿な期待はしないわ。あの人は私のことなんて見てない。本当は心のどこかでわかっていたのに、必死に気に入られようとしていた自分を恥じて、認めたくなかっただけ。……この痛みは、絶対に忘れない」

 胸に手を当て、握り締める。

 和智田は、降りもしない雨に打たれるかのように空を仰いだ。

「母は強し、か……。今の言葉を聞いて安心したぜ。もしかしたら、まだあいつの言いなりになる気があるんじゃないかって、心配してたんだ。けど、大丈夫そうだな」

「あんたは根がしっかりしてるんだね。母親になったことで若気が吹き飛んで、強い芯だけが残ったんだ。――人生、これからさ!」

 スケバンの子は、勝負でも挑むかのようにこぶしと手のひらを打ち合わせる。

「スッゲーよなぁ。一個上とはいえ、まだ高校生だぜ? オレが女だったとしても、そこまで成長できる自信はねぇよ」

「かっこいいわ……。あたしも〝姐さん〟って呼びたいくらい!」

 和智田……私がいないところでもその呼び名で呼んでいたのね……。

「みんなで呼んじまおうぜ! 俺たちの〝先輩〟であり〝姐さん〟だ!」

「あたいは〝バチ子〟って呼ばれてるよ、姐さん」

「あたしは〝エミリー〟です、姐さん!」

「オレは〝オシヤマ〟です、お姐様!」

 ちょっと、ふざけてない……?

「そんなふうに呼んでもらえるような人間じゃないわ。……でも、ありがとう。和智田、バチ子、エミリー、オスヤマ」

「あれ……オレ、言い間違えたかな……」

 普段そう呼ばれてることくらい知ってるわよ。……騒がしいんだもの、あなたたち。

 首を傾げたオスヤマに、心の中で皮肉めいて、笑う。

 ――少しだけ、昔の元気を取り戻せた気がした。



 それから、一週間が経った。

 彼がまたいつ接触してくるかわからない状況で不安もあったけど、休み時間や帰り際に和智田たちが周囲を警戒してくれるおかげか、特に何も起こらなかった。

 彼は三年生だから、卒業するまでのあと数ヶ月間をしのげばいい。それまでは和智田たちに迷惑をかけてしまうけど、彼らが娘を守るために何かしたいと言ってくれたのが嬉しくて、つい頼っていた。

「──大変大変大変だよっ!!」

 昼休みになると、花粉症の子が教室に走り込んできた。……スケボ、だったかしら。

 手鏡で自分とにらめっこをしていたヤバ美は、大きな溜め息をつく。

「騒がしいわよ、勇介ちゃん。お化粧直ししてるんだからバタバタしないでちょうだい」

「そんなこと言ってる場合じゃないよ! 今、職員室で先生エンジェルとお喋りしてたら、三年生の人が暴動を起こしてるっていう話が入ってきて……!」

 そういえば、火曜日は先生に会いに行く日って言ってたわね。どこまでお喋りが好きなの。

「喧嘩なんて日常茶飯事じゃねぇか。上のクラスで起きてるって言うんなら、いちいち止めに行かねぇぞ、オレは」

「違うよ! 学校でじゃなくて、養護施設で起きてるんだよ!」

 ──!? 今、なんて……!?

「はあ……!? どういうことだよ、それ!」

「俺っちもよくわかんないけど! 五人くらいが怒鳴ったり暴れ回ったりしてるって……!!」

 彼が話している途中で、机に伏して寝ていたはずの和智田が勢いよく立ち上がり、血相を変えて教室から飛び出していった。

「おい! 待てよ、和智田!」

 オスヤマとバチ子があとに続き、目の前の席で鉛筆を削っていたねねも席を立った。

「だから嫌いなんだ……よそ者は……」

 その小さな背中を目で追いつつ立ち上がると、エミリーが首を横に振りながら近づいてきた。

「姐さんはここにいて! 危ないから!」

 危ない……? そんなことわかってるわよ……! でも、娘が施設にいるのに、こんなところでじっとしていられるわけないじゃない!

「きっとあの人の仕業よ……! 見て見ぬふりなんてできないわ!」

 教室を出て、廊下を走り、外へ出る。空は曇りがかっていて、薄暗かった。

 私のせいだわ……あんな非道な人が何もしないはずがないのに、油断していたから……! もっと警戒しておくべきだった……どうして気づかれてしまったの……!

 向かう道中、そうやって自分を非難し続け、涙をこらえて夢中に走った。

 そして、施設の手前で職員さんに避難させられていた子供たちとすれ違い、泣きわめくその姿に胸を締めつけられた。

「――お、待ってたぞ、亜里紗」

 私がその場に着いた時、彼は一階の広間にある遊び場のおもちゃを踏みつけながら、和智田たちと睨み合っていた。私の顔を見て、その目が一層鋭くなる。

「ここにいるんだろ。……考えてみりゃあ、ちっぽけな診療所しかないこの島で赤ん坊を預かってもらえるところなんて、ここくらいだもんな。さっさと連れて来いよ」

 彼の横にいた連れの四人は事情を知っているのか、ニタニタと笑うだけで動揺はしていなかった。

「それとも、親切な個人宅にでも預けてんのか? だったら、見つけるまで一軒一軒回らねーとな、ここみたいに」

「やめて!!」

 私が叫ぶと、彼は肩を揺らしながら笑った。

 すると、背後から近づく人の気配。

「……どういう、こと……」

 振り返った先にいたのは、あの二人だった。

「咲紀……加奈絵……!?」

「先輩がなんかやらかしてるって聞いて来てみたら……。赤ん坊って……どういうことなんだよ、亜里紗!」

 悲痛に顔を歪めた二人。

 半開きになった口が震え、はたかれたように視線を逃がした。

「なんだ、お前言ってなかったのか? 親友だとか言ってたくせに、所詮そんなもんなんだな」

 繰り返される嘲けた笑いに、ついて来ていたエミリーたちが靴底を鳴らした。

「あんた……人の気も知らないで、よくそんなことが言えるわねっ!」

「そうだよ! 亜里紗ちゃんがどれだけ苦しんでたのかわからないの!?」

「この、クズ人間……」

 最後にねねがボソリと呟くと、彼を巻いていた一人が爪先をこちらに向けて身を乗り出した。

「なんだとテメェ! ──ぐあっ!?」

 掴みかかろうとしたその手をバチ子が遮り、そのまま背負い投げで床に叩きつける。

「あの男につくって言うなら、容赦はしないよ!」

 それを見て、オスヤマは乾いた笑みを浮かべた。

「お前、電気の力がなくても強いじゃねぇか……」

 けれど、それも束の間。次に向かってきた男は体が一回りも二回りも大きく、バチ子は足元をすくわれて床に押さえつけられた。

「バチ子っ!」

 助けようとしたオスヤマも二人がかりで羽交い締めにされ、身動きが取れなくなる。

「あーあ。黙ってお利口にしていればいいものを。イキがったって女は所詮、女。弱い生きもんだ。そんでもって、男の中にも無力な奴はいくらでもいる。──お前みたいにな!」

 おもちゃの残骸を踏み散らしながら歩み寄ってきた彼は、オスヤマの目の前に立つと、その顔に向かってこぶしを突き出した。

 それを和智田が許さなかった。

「先輩、卑怯っすよ……!」

 彼のこぶしを片手で止めた和智田は、口調こそ穏やかなものの、その目はじっとりと黒く塗られていた。

 対する双眸もたゆみを振り捨て、競り合うようにつり上がる。

「……卑怯がなんだよ。結果的に得たいものを得たほうが勝ちだ。お前らみたいなガキにはそういう生き方を選ぶ余裕がねーんだよ。――ガキはガキらしく寝てろ!」

「うっ!」

 腹部を殴られた和智田は、続けざまに蹴り飛ばされて壁に背中を打ちつけた。

 その姿を楽しそうに見つめ、男はゆっくりとこちらに歩み寄って来る。

 その一歩一歩に身の毛がよだち、目を閉じたくなる現実に奥歯を噛み締めた。

「くくく来るなっ!! 亜里紗ちゃんには指一本触れさせないぞっ!!」

 スケボが私の前で両手を広げ、エミリーとねねも腕を、手を握ってくる。引っ張るその手に抵抗するように、足は動かない。

 ――そう、怖くたって、逃げちゃいけない。

 たとえ殴られても、あかりには絶対に会わせないって、示す必要がある。

 私がやらなきゃ……私が立ち向かわなきゃいけない……!

「──待てよ」

 その時、誰かが横を通り過ぎた。

 高校の学ランを着た男子生徒。中途半端に伸びた短髪を揺らしながら堂々と大股で歩くその生徒は、一瞬の躊躇いもなく男の胸倉を掴み、額をすり合わせた。

「お前、亜里紗がどんな思いでお前といたのかわかってんのか……!! これ以上傷つけたら許さねぇぞ!!」

 ――――。見たことのない生徒だった。

 私の名前を知っているようだったけど、去年同じクラスだった人でもなければ、先輩でもない。顔見知りでもないのにこんなところへ飛び込んでくる生徒がうちの高校にいるとも思えず、驚きと同時に訪れた戸惑いに、体の震えが止まった。

「なんだテメェ……。馴れ馴れしく呼び捨てにしやがって……! テメェに口出す権利なんかねぇんだよっ!!」

「ふざけんなっ!! つらい思いも寂しい思いも、亜里紗は一人で背負ってたんだ!! 彼女が苦しい時にそばにいなかったお前が、父親面なんかすんじゃねぇ!!」

 猛然とした怒鳴り声は、怒鳴り声のはずなのに、私の中にはみずみずしいつゆのように吸い込まれた。

 目の前の血走る眼を逸らさずに受け止め、それしかできなかったのか、彼は額を当てたまま振るわずに鼻で笑った。

「父親面なんかしてねーよ。子供を見たいのはただの興味本位だ。……そもそも、俺はあいつのことなんかはじめからなんとも思ってねぇ。あいつが勝手に勘違いして、舞い上がってたから遊んでやっただけだよ! 愛だの恋だの、時間が立てば薄れていくゴミみたいなもんのために、人生を棒に振る愚か者じゃねぇんだよっ、俺は!!」

 っ……。わかってはいたけど、はっきり言われると……やっぱりつらい……。

 私が彼に捧げた時間。私が彼に捧げた想い。

 私にとっては本物だった。けど、彼にとっては空気も同然、どうでもいいものだった……。

「……はっ、呆れてものも言えねぇ……」

 失意したように、チョーカーが吊り下がる胸倉を掴んでいた手がゆるんだ。

 それでも、緊迫した空気ははちきれんばかりに膨らんでいく。

 ――何かが、変わった。

 その人は、両手で目の前の顔をがしりと掴み、

「お前みたいなクソ野郎は……――とっととブタ箱に入りやがれっ!!」

 ――ゴツンッ!!

 鈍い音を響かせて頭突きを見舞い、

「男に生まれたことを後悔しろっ!!」

 その急所を思いっきり蹴り上げた。

「があぁっ!?」

 奴は大口を開けてひざまずき、その場にうずくまった。

「……や、やっば……」

 オスヤマは顔を青くし、彼を押さえていた二人の男もポカンと口を開けたまま、呆然と一点を見つめた。

「地獄に堕ちろ!!」

 蹴り上げた本人は、してやったと言わんばかりに腰に両手を当てた。ふっと重心が右に傾く。

 その立ち姿には、かすかな見覚えがあった。



 ――その後。

 間もなくして、島の見守り活動をしている保安員の人たちが来て、彼ら五人は連行された。

 警察官がいないこの島では、事情聴取もそこそこに終わり、施設の職員さんたちの証言もあって、私たちはすぐに解放された。

 そのごたごたの中で、窮地を救ってくれたあの男子生徒はいつの間にか姿を消していた。

「和智田、大丈夫……!? ごめんなさい、私のせいで……!」

 私は、壁に手をつきながら立ち上がる和智田に声をかけた。

「……あ~、びっくりした。お腹と背中がくっつくところだったぜ。アッハッハッハ!」

 男の子って、みんなこんなにタフなのかしら……。

「くっそぉ……このあたいが男に負けるなんて……! せめて木刀さえあれば……!」

「お前はもっと女らしくしろよ、せっかく電撃地獄から脱け出せたんだからよ」

 電撃地獄の意味はわからなかったけど、バチ子とオスヤマも怪我はないよう。

 それでも、破壊されたおもちゃは散乱し、その非道な行為は惨状となって残っていた。

「姐さん! あかりちゃんは……!?」

 エミリーの言葉で、ハッと息をのんだ。

 急いで広間を出て、階段の手すりを掴みながら三階まで駆け上がる。

 乳児院に繋がる廊下が長く伸びているように見え、早く前へ、もっと前へと、呼吸さえもわずらわしく感じながらその一点を見つめる。

 扉の取っ手を掴んだ時には、しぼんだ肺がキリキリと痛みを訴えていた。

「あかりっ!」

 部屋に飛び込むと、そこに立っていた保母さんは安堵したように目尻を下げた。

「亜里紗ちゃん……! よかった……。下で騒ぎが起き始めた頃から、ずっと泣きやまなくて……。いつもはすごくおとなしいのに……」

 割れるように泣き叫ぶあかりを保母さんから預かり、ゆっくりと抱き締めた。

「ごめんね、あかり……。もう大丈夫だから……」

 汗ばんだ額をそっと撫で、不安をあやすように体を揺らす。トン、トンとその小さな胸を叩いていると、真っ赤に開かれた口は徐々に小さくなって、無防備にすうすうと寝息を立て始めた。

「おお、さすがママパワー……!」

 感嘆と漏れた声に振り返ると、興味深そうに手元を覗き込むオスヤマに続いて、みんなが部屋に入ってきた。

 そこには、あの二人の姿もある。

「亜里紗……」

 咲紀と加奈絵は、思いつめた表情であかりを見てから顔を上げた。

「なんで……なんで言ってくれなかったんだよ……! 言ってくれれば、あたしらだってこんなに……!」

 あんたのこと嫌いにならなかった! と、続いた言葉に胸を突かれた。

 じんわりと広がる痛みに、唇を噛む。

「……言えるわけ、ないじゃない……。この歳で子供ができたのに……相手にはないがしろにされて……捨てられて……。そんな馬鹿な話……できるわけないじゃない……!」

 二人の顔を見られなくなって、目を伏せた。あかりが少しだけ眉をひそめた気がした。

「それはわかるけど! 困った時は相談してって言ってたじゃん!」

「あんた昔からそうだよ! 何かあっても、あたしらが気づくまで何も言ってくれない! あたしらがそんなに信用できないわけ!?」

「そうじゃないっ!」

 荒げた声に、あかりはきゅっと顔をしかめて、再び泣き始めた。

 慌ててあやしたらすぐに泣きやんだけど、このまま抱いていたらあかりが悪いものを吸収してしまう気がして、保母さんに預けた。

「……ここでの生活を楽しもうって約束したのに、言ってしまえば、二人も巻き込んじゃうじゃない……。楽しめなくなるじゃない……。ここに来たことを後悔させちゃうじゃない……!」

 私は、二人じゃなく、あの人を選んでしまった。

 行きたい島があるって、もともとは自分から誘ったのに、二人のことを見ないようになっていた。自分のことしか見ないようになっていた。

「何言ってんの……! あの約束は、三人で一緒にって意味でしょ!? あんたが一人で悩みを抱え込んだ時点で、あたしらの約束なんて叶わない! あんたが不幸になって、あたしらだけが幸せになって、それになんの意味があんの!? 何の意味もないでしょ!!」

 ――三人で、一緒に――。

 私は自分のことしか考えていなかったのに、二人は私のこともちゃんと見ていてくれた。

 私が白い目で見られる恐怖に負けて、二人に相談しなかったから亀裂が生まれただけ。

 ……そのことに気づいた瞬間、涙が伝った。

 加奈絵は、寄り倒す勢いの咲紀をなだめてから続けた。

「……あたしらだって、咎められるところはある。他の先輩に聞いてたんだ。あの先輩が、今までいろんな問題を起こしていたことも、それを裏でもみ消していたことも、全部……。でも、幸せそうにしてる亜里紗を見たら、どうしても言えなくて……。知らないほうがいいのかなって、思って……」

 弱気な彼女は初めて見た。

 短気だけど正義感の強い咲紀と、高慢だけどしっかり者の加奈絵。

 今でこそ見た目は派手だけど、根は真面目で、すごく他人想い。

 だからこそ二人のことは尊敬していたし、大好きだった。

 そんな二人が、今はただただうつむいている。それがとてつもなく心苦しかった。

「隠しごとなしに人付き合いをするなんて、難しいことっすよ」

 ずっと押し黙っていた和智田は、突然と口を開いた。

「そんでもって、他人が言いづらいことを察してくみ取ってやることは、もっと難しい。……けど、そういう困難なことが人間にはあるんだって、気づく時は来る。それが今なんだ。今、先輩たちは気づけた。だから、これからはまた一歩、新しく前へ進める」

 体現するように靴を鳴らした。その顔は、やっぱり笑っている。

「先輩たちに訪れた不幸は、先輩たちを陥れるものでもダメにするものでもない。先輩たちを変えるものだ。――せっかく気づけたのに、また友情を捨ててバラバラになるなんてこと、しませんよね? 自分を成長させるチャンスを逃すなんてこと、しませんよね~?」

 煽るように眉を上下に動かす和智田。憎らしい顔。

 でも、咲紀と加奈絵の顔は和らいでいた。

「なんだよ、この生意気なガキ……」

 これが通常運転だと言わんばかりに睨みつけた咲紀は、親指の爪で人差し指をチッと弾く。

「こんな奴といたらストレス溜まるでしょ。マジ災害」

 加奈絵は髪をかき上げて後ろに流した。

「子供にも悪影響だって。……今からでも事情を話して、うちらの学年に戻ってきたほうがいいんじゃない? 亜里紗、勉強はできるんだし」

「ここの先生、みんなテキトーだし、こっそりうちのクラスにいてもバレないっしょ!」

 バレないと単位がもらえないんだけど……。

 二人の言葉から角が取れてきて、少しずつ息を吐きながら肩を下ろす。

 見えない圧に体中の筋肉が張っていた。精一杯と、言葉少なに返す。

「変な子たちが多いけど、楽しいから……」

 と思ったけど、もったいないからもう少しつけ加えてみる。

「……二人も、留年する?」

「はぁ!? ちょっとやめてよ! 留年なんかしたらパパに嫌われちゃうじゃん!」

「弟たちに馬鹿にされるって! あたしテストの点数悪すぎてギリギリで進級したんだからね!」

 変わってないのね、ファザコンと勉強嫌い。

「いつでもウェルカムっすよ、先輩方! リーダーの俺様が盛大に歓迎しまっす! とりあえず、その長すぎる爪を一本ずつ剥いで、短すぎるスカートもいっそのこと剥いで、盛り盛りの髪を液体のりでストレートに伸ばして──」

「ヤバい! こいつの目、マジでヤバい!」

「それ以上近づいたらあそこ蹴り上げるからね!」

「それだけはイヤァァァァァーー!!」

 乙女のような悲鳴を上げて部屋の隅に逃げた和智田は、あかりが寝ているベビーサークルの陰に隠れた。

 卑怯者、チキン野郎、閻魔の使者だと、非難の砲火を浴びる。

 どれだけ騒いでも、あかりはすやすやと眠ったままぴくりとも動かなかった。

 それだけ疲れていたのかしら。

 それとも、あの子たちの笑い声が心地いいのかしら。……ふふ。



 和智田がふざけ始めてから、どこかすっきりとしないままその日は流れた。

 翌日になって、学校に行く支度をしながら「大丈夫かな……」と無意識のうちに呟いた自分を、鼻で笑う。

 みんなの前ではかっこつけて、口に鍵をかけて、大人ぶっている。気が抜けた時にしか素直になれないなんて、自分こそまだまだ子供ね。

 そんなことを思いながら施設を出て、校舎の額に貼りついた時計盤を目指しながら足を進めた。

 すると、矢継ぎ早に校舎から出てくる生徒たちの姿が目に入った。

「え……?」

 不思議に思いつつ、玄関で外履きに履き替える生徒とすれ違いながら、教室へ向かう。そして知った。

 ――学校は、休みになっていた。

 おそらく、校内に広がった噂を鎮静化させるために。連行されたあの人たちは昨日の夕方に出た船で本土に送られていたけど、念のために取られた対策だと思った。

 朝になって決まったことらしく、いつも通り登校していた生徒たちは不満を漏らしながら散り散りになっていった。

「休みならもっと寝てたのによぉ……。オレ、もう一回朝メシ食ってこようかな」

「頭使ってないんだから太るだけよ」

「今日は二年生の先輩エンジェルに会いに行く日だったのに~!」

 黒板に書いてある〝本日休校〟の文字を見て、オスヤマたちも教室から出ていこうとした。

 ──その時。

「はい、ちゅうも~く! リーダーからのお知らせだぜ!」

 教壇に立った和智田は両手を上げた。

「なんと! 本日十月十九日は、我らが姐さんの誕生日だ!! だから、望みを一つ聞き入れたいと思う!! その他大勢は見守り人だ!! とりあえず平伏せ!!」

 そ、そんな大声で言わなくても……。

「姐さん、あの馬鹿はなんでも聞いてくれるよ。犬になれでも高級品を貢げでも、遠慮せずに言っちゃいな!」

 バチ子はこぶしを突き出して頷く。

 そんなこと言われても、やってほしいことなんてないし……。特別ほしいものもないし……。

 ──あっ。

「それなら、私……みんなと遊びたいわ」

「え?」

 放課後も休みの日も、ずっとあかりと部屋に閉じこもっていたから、久しぶりに外で遊んでみたかった。でも、少し気が引けるお願いだったかも……。

 静まり返ったその場の空気に恥ずかしくなって、顔を伏せる。

 そこへ、日陰に入るように顔を見上げてきたねねが、キラリと瞳を光らせながら言った。

「栗拾い、行く?」



 ――それで、本当に遊ぶことになった。あかりも連れて、咲紀と加奈絵も誘って。

 最初は肩身を狭そうにしていた二人も、徐々に和智田たちと打ち解けていって、すっかり子供みたいにじゃれ合っていた。

 私もあかりをエミリーたちにみてもらいながら、栗を拾ったり、キノコを採ったり、川で魚を釣ったり、海岸を走ってみたり、浜辺でバーベキューをしながら、夕陽が映える早い時間にだけど、花火もした。

 この島に来てやりたかったことを、思う存分楽しむことができた。……和智田が変なキノコを食べて倒れた時はヒヤッとしたけど。

 笑いすぎて疲れた私はあかりを抱いて、日傘の中で扇子を振っていたヤバ美の隣に腰かけた。

「あら、お友だちを置いてきちゃっていいの?」

「ええ。あの子たちは元気すぎて、もうついていけないわ」

 無防備にはしゃぐ咲紀と加奈絵の後ろ姿に目を留める。

 失った時間を取り戻すことができたと感じるには、それだけで十分だった。

 海に差す色がオレンジから赤へと濃くなっていく様子を、微笑むでも悲しむでもなく見つめていたヤバ美の横顔に、独り言のようにささやく。

「……その髪、ウィッグだったのね」

 すぐにぴくりと肩が動いた。うろたえたわけではなく、笑っただけのよう。

「アタシの中学、男子は坊主にするのがルールだったの。だから、ちゃんと生え揃うまでは隠してるってわけ。……まさか、役に立つ日が来るなんて思わなかったけど」

 気づけてよかった。ちゃんとお礼が言えるのだから。

「ありがとう、助けてくれて。……こんなこと言うのもなんだけど、かっこよかったわよ」

「ヤダやめてよ~。スッピンなんて一生の恥なんだから!」

 あの姿なら、たとえ誰かが仕返しをもくろんでも、見つけられないだろう。和智田たちも気づいてないようだし。

「でも、これで懲りたら、もう自分一人で抱え込まないことね。アナタの周りには素敵な人がいっぱいいるんだから。優しい人から優しさをもらっても、その人が優しさを失うことはないのよ。思いっきり甘えちゃいなさい。……その子のためにもね」

 見下ろしたあかりは、生えてきたばかりの下の歯を見せながら笑っていた。

「あー……うー……」

 目もあって、口もあって、鼻もあって、耳もあって。私たちと同じものを持っているのに、どうしてこんなに小さいのかしら。

 あかりがもっと大きくなったら、私のことを見て、ちゃんと母親だと認めてくれるのかしら。

 そのとき私は、今以上に立派な大人になれているのかしら……。

「…………。……ま~……ま~……」

「!」

「ちょっと! 今、ママって言ったんじゃない!? 言ったわよね!?」

 い、今のはただの……!

「きっと、あかりちゃんもママを応援してくれてるのよ。――ママ、これからも頑張ってねって。お誕生日おめでとうって。あかりのママでいてくれてありがとうって」

 ヤバ美に肩を叩かれて、込み上げたものがこぼれた。

 違うとわかっていても、涙が止まらなかった。

「──おい、ヤバ美!! なに姐さんを泣かせてんだ!!」

 ビーチボールを脇に抱えた和智田は、鬼の形相で駆け寄ってくる。

「ア、アタシじゃないわ! あかりちゃんがママって言ったから、それで……!」

「おお!? マジか!! やったじゃんママ!! ついにデビューだなママ!! 今日は宴だぜママ!!」

 テンション高すぎよ……。やけくそみたいに言わないで。

「オレたちのママだー!! ハッピーバースデー!! 亜里紗ママ~!! フッフゥゥゥ~!!」

 和智田に乗じて、他のみんなも騒ぎ始めた。担ぎ上げられそうになって、必死に抵抗しながらあかりを抱き締める。

 楽しそうなのはいいけれど、ここまでハジけた人間にはなってほしくないかも……。

 そんなことを思いながら、呟くように怒るのが精一杯だった。

「……姐さんでいいわよ、馬鹿……」



 最後にみんなで線香花火をして、思い出の一日は終わった。

 帰りは全員で施設を訪れ、おすそ分けとして、職員さんたちに栗や柿が入ったカゴを渡す。

 あんな騒動があったのに、私とあかりは引き続きここで面倒をみてもらえることになった。

 本当に本当に、感謝しかない。下げた頭が上がらない。

「よかったな、あかりちゃん! ――じゃ、俺たちもそろそろ帰るか!」

 遊び疲れた顔を並べながら、みんなは玄関から出て行く。……その時。

「――のん気なものだな、あれだけ迷惑をかけておいて」

 誰かの声が降りかかった。振り返ると、声の主は階段から下りてきているところだった。

 耳周りがすっきりとした、黒く重めのショートストレートヘア。少年っぽさが残る顔に似つかわしくない、射貫くような鋭い目を眼鏡から覗かせた男の子は、同じクラスの――。

「ワンちゃんだ!」

 和智田が突然と叫ぶ。

 犬がいるのかと全員が周囲を見渡すなかで、和智田は間違いなく彼を見ていた。

「ワ、ワンちゃん……!?」

 目つきの鋭さはさらに増す。

「だってお前、一学期の成績がナンバーワンだっただろ? おまけに誕生日が十一月一日ときたら、一に恵まれた男、ワンちゃんだ!」

「変なあだ名をつけるな!」

 階段を下りきったところで、威圧的な態度は緩和される。身長が私よりも少し低かった。

「子供たちを怖い目に遭わせておいて、よく平気でいられるな。怪我人がいなかったのが不幸中の幸いだ。いい加減、周りに迷惑をかけるような生き方は卒業しろ」

 ぴしゃりと言い落とされ、和智田は唇を尖らせる。

 ……咲紀、加奈絵。ヤンキーみたいに睨みつけるのはやめて。

「学校でももっと静かにするんだな。ガヤガヤされると目障りだ」

 そう吐き残し、彼は食堂のほうへ向かっていった。

 後ろ姿が見えなくなると、しゃくれていたオスヤマはこぶしを握って悪たれ口を叩いた。

「なんだあいつ! 偉そうなこと言いやがって!」

「確か、立花(たちばな)君だったっけ? 俺っちが話しかけた時もあんな感じだったよ……」

 スケボもあからさまに表情を曇らせる。

立花太史(たちばなたいし)は、昔からあんな感じ。わいわいはしゃいでる集団が嫌いなんだって」

「おねね、知り合いなの?」

「ただの顔見知り。あいつ、この施設で育った奴だから。今は空き家を借りてるらしいけど」

 そういえば、この子って島育ちだったわね。

「あら、それじゃあ、子供たちを心配してここに来たのかしら。可愛いところあるじゃない♪」

「あたいには至極無愛想な奴に見えたけどね」

 もしかして、昨日の一件はこの子たちが原因だと思っているのかしら。みんなは私に巻き込まれただけなのに……。

「まあ、あれでも医者を目指してるらしいし、ただ冷たいってわけでもないんじゃない」

「おいおい。あんなツンケンしてたら医者なんて務まらねぇだろ」

「もしかして、解剖医とか!? 怖いよぉ、わっちー……」

 憶測を飛ばす彼らに、スケボに取り憑かれた和智田も釈然としないぼんやり顔を浮かべている。

 でもそれは、まばたき一つで忍び笑いに変わった。


 ――本当に誤解をしているのなら、解かないといけないわね……。


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