☆七月【島っこ女子】
【天川ねね】編
なんでここに集まるんだろう。なんで悪い奴らばかり集まるんだろう。
この島はとても静かで、のんびりで、自然の香りにあふれてて、青と緑とオレンジのコントラストが綺麗な、落ち着きのある場所だったのに……。
朝でも夜でも、喧嘩の怒鳴り声や下品な笑い声が聞こえてくるし、道を歩けばどんちゃん騒ぎの残骸ゴミで花が潰されてるし、学校に行けばあっちでもこっちでも生徒と先生の取っ組み合いが起きてるし、なんか臭いし、薄汚れた人間の巣窟みたいになってる。
生徒の数が少なければ廃校になってしまうからって、古びた学校に思い入れのある大人たちが学生の受け入れを決めたらしい、けど……こんな荒んだ状態の学校なら、いっそなくなったほうがよかったんじゃない。少なくともウチはそう思う。
「──ねーねちゃ~ん♪ 今日も畑の手伝いに行くの?」
ほら、こういう尻軽な奴もいるし。
「無視しないでよ~。……俺っちもね、島のマダムたちから野菜作りのノウハウをちょっと教えてもらったんだ~。だから一緒にやろうよ♪」
「あっちにいけ、よそ者」
最近特にうるさくなった、木くずみたいな髪の男。放課後になると日課のように話しかけてくる。
本土の奴らなんて、一時的な遊び場としてここに来てるだけ。興味本位で畑を踏み散らかすだけ。相手をするなんて時間の無駄。
「〝よそ者〟だなんて酷いじゃ~ん! 同じクラスの仲間でしょ?」
「たまたま同じ場所に放り込まれた。ただそれだけ。島を荒らしに来ただけのよそ者が、気安く〝仲間〟とか言うな」
「えーん、ねねちゃんのいけずぅ~……」
タコみたいに唇を尖らせてウネウネ。……やっぱり完全無視すればよかった。
「またやってんのか、スケボ。テメェもこりねぇなぁ。もう一ヶ月はフラれ続けてんだろ」
いつも制服がよれよれの小汚い赤鬼は、机から顔を上げて口元を拭った。……きったな。
「オスヤマ君も一緒にやろうよ、土いじり!」
「やなこった。あんな地味な作業、オレの性に合わねぇ」
「美味しいものいっぱいもらえるよ!」
「食べ物で釣るなよ。見返りのためにやるわけじゃねぇだろ」
見た目に反して意外とまともなことを言う……。
「あんたは野菜が嫌いなだけでしょ。お肉だったら喜んで食いつくくせに」
赤鬼の後ろで、席を立って伸びをする金髪ギャル。最近こいつらとよく話してるな……。
「そうなんだよなぁ。この島、酪農はやってねぇのか? 鶏はいるみてぇだけど、牛とか豚もいれば、遭難しても食うものに困らねぇのに」
ここは無人島じゃない!
「それいいね! 俺っちたちでやってみる? 羊なら毛皮も取れるよ!」
「どうせ途中で放置するでしょ」
「いや、オレはこう見えても実家で犬を飼ってたんだぜ」
自分では世話してないパターンだ。
「つーか、実は今もこっそりと飼ってんだ」
は……? 寮生活のよそ者はペットなんて飼えないでしょ……。
「──ワンワン! 呼んだかワン?」
和智田陽平!? おもちゃの耳なんか着けて、どういうつもり……!?
「お~よしよし、そんなに暴れんなって」
赤鬼にパンチやキックで攻撃する和智田は、楽しそうに笑いながらも時々鋭く睨む。
「な、何やってんのよ、あんた……」
「罰ゲームだワン! かけっこで負けたワン!」
「足に自信があるっていうから試してみたんだ。オレの圧勝だったぜ!」
「楽しそう! 俺っちもやるキャン!」
「ワンワン!」
「キャンキャン!」
「エミリーもオレのペットに──」
「うるさい!」
うっざ……。都会のヨゴレが。
「あんたたち、やめないとおやつ抜きよ!」
「な、なんだと!? それは勘弁してくれワン!」
「えみりんのクッキー食べたいからやめる~!」
「クッキーよりもお前が食べ──いえなんでもありません」
餌づけされてるところを見ると、このギャルが真の親玉か。女のほうが強いって、この島特有じゃなかったんだ。おじいちゃんに言っておこう。
「梅雨の時期だとクッキーは作りにくいから、ブトウパイにしたわ」
「イエ~イ、嬉しいワン! どのみち好きだワン! 甘いものはなんでも食べるワン!」
いつまでやってる。
「そういえば、この島って梅雨入りが遅かったよね。もうすぐ七夕なのに……。天の川、見えるかな~……」
「なに女みてぇなこと言ってんだよ」
「いいじゃん! みんなで見ようよ、天の川! この島は外灯も少ないし、綺麗に見えるはずだよ!」
「それは無理」
どうせなら期待をへし折ってやろうと、視線を窓の外に投げながら教えてやった。
「毎年大雨で見えないし。見えたためしがないし。少なくともウチは見たことないし」
「えっ……。で、でも、まだわからないよ! 毎年そうだからって、今年も見えないなんて確証はないよ!」
そうやって胸を膨らませておいて、当日には肩を落とすのが関の山。子供を悲しませたくないからって、大人たちはあえて七夕の話題を避けるのが暗黙の了解。
所詮、ただの空だし。綺麗じゃなくても島の夜空だし。……そう言い聞かせるのはウチだけじゃないはず。
「……お前、見てみたいのか? そうなのか? そうなんだな!?」
急に人間に戻った和智田は、怪しく目を光らせた。
「そうだよ! 今年はわっちーがいる! きっと満天の天の川を見せてくれるよ!」
「ロマンチックなバースデープレゼントだな。オレたちに惚れるなよ」
「あんたは何もしないでしょ」
そういえば、誕生日を祝ってやるとか言ってたっけ……。なんでもやるとか言ってたけど、結局はできないことのほうが多いんだよね。
〝なんでも〟って言ったり〝俺様の常識〟とか言ったり、矛盾ばっか。
「よーし! となれば、てるてる坊主を大量に作るぞ! 千羽鶴ならぬ、千てるてる坊主だ!!」
「おお、すっげぇ地味そう! オレはやらないからな!」
「みんなでやろうよ! 絶対に楽しいって!」
「てるてる坊主って……小学生じゃないんだから」
馬鹿にするように笑いながらも、足先は和智田のほうに向いてる。
あーあ、ミイラ取りがミイラになる気満々……。和智田ウイルスに感染してるんだ……。
「自然は操れない。操っちゃいけない。それがわからないのなら、余計なことはするな……」
それだけ言い残して、バイ菌がうつる前に教室を出た。
仮に晴れたとしても、それは運。運がよかっただけ。
奇跡だと言われても、人間の力じゃない。和智田の力じゃない。
だって、自然がお前なんかに負けるわけないんだから。
そして、誰かさんたちが心待ちにした、七月七日。──ものすっごい、猛烈な豪雨だった。
校舎の一階から三階までを取り囲む大量のてるてる坊主は、落ち込むようにうなだれ、風に煽られながら吊り下がっていた。
朝から昼まで、昼から夕方まで、夕方から夜まで、雨は一度もやむことはなかった。
和智田は、授業中も休み時間もずっと窓の外を眺めていて、お仲間が話しかけても一言二言返すだけだった。
その日、ウチが最後に見た奴の顔は、とても悲しそうだった。
翌朝になって、雨の勢いは少し弱まった。
それでも、教室の中はいつもよりどんよりとしていた。
「天の川が空から降ってきたんだよ! 俺っち、滝みたいにいっぱい打たれたから、体中に天の川エキスが染み込んでパワフル全開になっちゃった!」
「静かなお前なんて気持ち悪いぜ、和智田。元気出せよ」
「そうよ。天気を操るのは、あんたが言う常識範囲内には含まれないでしょ」
和智田の周りを気遣いの言葉が飛ぶ。机にひっ伏していた和智田は、ゆっくりと顔を上げて眉を八の字に寄せた。
「え? 俺、普通に元気だけど」
「は?」
そのまま背中を椅子に預けて、頭の後ろで両手を組む。
「湿気が多いと蒸し蒸しするよな~。蒸し蒸しするとなんのやる気も出ないよな~。だから俺は梅雨が嫌いなんだ! 梅雨の時期は充電期なんだ! 雨がやんだらハッスルするぜ~!!」
椅子をゆりかごみたいに揺らすその顔は、ワカメみたいにへらへらだった。
「よかったぁ~! いつものわっちーだ!」
「なんだよ、心配して損したぜ」
「いっそ、ずっと梅雨だったほうが平和なのかもね」
「お前ら~、よく考えろよ。ターゲットの誕生日はまだ二週間弱も先だぜ? こんなところが終着点なわけないだろ!」
どうやら、本当に梅雨バテしていただけのよう。勝手に自爆すればよかったのに。
また面倒なことに巻き込まれないように、放課後になったら早巻きで学校を出た。雨はもうほとんどやんでいた。
あんな奴らにかまってる暇なんてない。来たる島のビッグイベントに備えないと……。
「――おじいちゃん、おばあちゃん。あとはウチがやるから、帰っていいよ」
トウモロコシ畑に支柱を立てて紐を張っていた二人は、振り返ってにっこりと微笑んだ。
「おや。おかえり、ねねちゃん」
「おばあちゃんたちもまだまだやるよ。雨がやんでいるうちにやっておかないとねぇ」
「膝が痛いって言ってたじゃん。これくらいウチでもできるし」
鞄を小屋に置いて、代わりに防風ネットを手に取る。
いつまで経っても子供扱いが抜けない。まあ、おじいちゃんたちからしてみれば、高校生なんて貝殻で喜ぶ幼稚園児と変わらないんだろうけど。
二人に手伝わせたくなくて、キャベツ畑まで走って向かい、広げたネットを苗の上にそっとかけた。
「――わっ」
その時、一際大きな風が吹いて、強くはためいたネットは飛ばされる。慌てて伸ばした手は当然のように届かない。……こういう時、体が小さいのは本当に不便だなって思う。
「うわあっ! な、何これ!?」
少しの空中散歩を楽しんだネットは、木くず頭に引っかかった。……なんでいる。
「なーんか、島のじいさんばあさんが総出でビニールハウスとか立ててるみてぇだけど、イメチェンか?」
その後ろには、予想通りに馬鹿と赤鬼とギャルが立っていた。また性懲りもなく……。
「違うよ、オスヤマ君。年に一度来る大型台風に備えてるって、マダムたちが言ってた。雨はほとんど降らない風台風だけど、毎年この島を直撃するから、農作物を守るのが大変なんだって」
「へぇ……。そりゃあご苦労なことで」
他人事を無関心に見渡す赤鬼に、近づいてきたおじいちゃんがわびしく笑う。
「強風は野菜にとってストレスになるんじゃよ。だから、できるだけ風の影響を受けないように、葉や茎が傷まないように、こうやって事前に準備をする必要があるんじゃ」
「自給自足を大事にしてるからねぇ。この時期にどれだけ被害を抑えられるかが鍵になるのよ」
おばあちゃんがふうっと小さく息をつくと、畑の上のほうまで眺めていた和智田は腕を組む。
「全部を守るのは難しいんすよね」
「さすがになぁ……。家だって飛ばされそうになるくらいの暴風じゃからのぅ」
それだけじゃない。これだけ海に囲まれていたら、堤防があったって海水は浸食してくるし、高波で砂浜が押し上げられて道路や船小屋も砂まみれになる。もう毎年のことだから慣れてはいるけど、復興作業も大変だし、お年寄りが多いこの島にとっては大きな痛手だった。
「――よし、そうとなれば決めた! その最大級の災害から島を守る! それが、天川ねねへのバースデープレゼントだ!!」
「は? 何言ってんの……」
また自然を敵に回そうとする……。無駄だってことがわからないわけ?
「おいおい和智田。さすがに天気を変えるのは無理だってわかっただろ。やめとけよ」
「そうよ。期待をさせるだけさせておいて、やっぱりできなかったですっていうパターンが一番悲しいんだから」
別に期待してないし。
「いや、わっちーならできるよ! できるまでやるんだよ! できないで終わるからダメなんだ! 成功を願う気持ちと失敗を恐れる気持ちがあるんなら、俺っちは断然、前者のほうが強いよ!」
「さすがスケボ、未来の勝者を知っているな!」
二人がハイタッチをすると、赤鬼まで「オレもやる!」とか言って仲間に加わった。その横で金髪ギャルは呆れたように溜め息をつく。
「まあ、別にいいけど……。でも、プレゼントの内容を勝手に決めちゃっていいの? 今までのやり方とは違うじゃない」
「バースデープレゼントってのは、本来勝手に用意するものだ。これなら喜んでくれるだろうと予想して提供する。今回はそのスタンスに乗っかるぜ! 聞いても教えてくれなさそうだしな!」
そもそも欲しいものなんてないし。
「よぉ~し! そうと決まれば、俺っちたちも手伝っちゃうよ~!」
「力仕事っていうんなら、オレもやってやるよ」
「体操服に着替えてからのほうがいいんじゃない?」
お気楽モードでやる気を見せ始めた四人に、眉がつり上がる。
「余計なことはするな! 島のことも自然のこともよく知らないくせに! 心の中ではどうでもいいって思ってるくせに! 住みにくいところだって思ってるくせに!」
「なんだよ急に。お前は俺の心が読めるのか? 俺のことをよく知っているのか?」
は……!?
「知らないからやるんじゃない、知るためにやるんだよ。この島にいる限り、俺たちは島の住人だ。自分たちが暮らす場所を守って何が悪い」
そんなの一時的な気分で言ってるだけだ。どうせ疲れて飽きたら投げ出すんだ……!
「ねねちゃん。あなたが本土の人たちをよく思っていないことは知っているけれど、同じ学校の子たちなんでしょう? 協力してもらうだけしてもらえばいいじゃない。若い子がいると、おばあちゃんたちも助かるわ」
「でも……」
「これは処世術。使える男は使ってあげればいいのよ……うっふっふ」
おばあちゃんがほくそ笑むと、おじいちゃんは少しだけ眉をひそめた。
ああ、これがおばあちゃんの裏拳的強さなんだ。おじいちゃんがちょこちょこ愚痴にするもう一つの顔なんだ。初めて見た……。
――手伝ってもらうんじゃない、利用するだけ。
言われて言い聞かせてみたけど、やっぱりどこかで認められない部分は残った。
ウチはおばあちゃんみたいにおおらかじゃない。それは子供だからなのか性格だからなのかはわからないけど、この時だけは、黙って口を閉じていることが苦しく思えた。
それから毎日、奴らは放課後になると、体操服に着替えて畑についてきた。
ビニールハウスを立てたり、ネットの柵を作ったり、海水が流れてきた時のために排水溝を掃除したり……泥だらけになりながら、島中の畑を回って作業に明け暮れた。土日だって、通常の手入れをする島の人たちと楽しく喋りながら、朝から晩まで没頭していた。
……正直、驚いた。時間が経つにつれて、ちゃんと利用してやろうと振り切れるようになった自分に。奴らを見て見ぬふりする目元がゆるんでいくことに。
なんだ、意外と使えるじゃん。うるさいけど、おとなしくやってるじゃん。なんて気持ちが湧いてきて、口がむずむずと曲がりそうになった。
早く投げ出せばいいのに、早く帰ればいいのに、とも思うウチは誰の味方なのか、土を固める手に力が入った。
『──防災対策課からのお知らせです。明日の早朝より、大型台風が接近する見込みです。避難場所や避難経路をご確認の上、十分にご注意ください』
七月二十日、昼が下る頃。最後のネットを張り終えたところで、島中にアナウンスが流れた。
「ついに来るのか……」
灰色に霞がかる遠くの空を見つめて、和智田は両手の土を払った。心なしか、顔が強張っている気がする。
でも、ウチはそれ以上にそわそわしていた。
家に帰って、早めにお風呂に入って、早めにご飯を食べて、早めに布団に入る。
それでも、ほとんど眠れなかった。
夜中じゅう、風の切る音が耳を離れず、窓がガタガタと大きく揺れる音にも汗をかくほど心臓が息を切らせる。頭を抱えるように布団を被っていても、ちっとも休まらない。
どれくらいそうしていたのか、顔を出して時計を見ると、針は四時を指していた。
待っていたと言わんばかりに飛び出して、別の部屋で寝ていたおじいちゃんとおばあちゃんのところへ駆け込む。
──ウチの一番嫌いな日が始まった。
「大丈夫よ、ねねちゃん。今までの台風でもピンピンしてた家でしょう?」
予想通りに起きていた二人は、テレビを観ながら体をほぐしているところだった。さすが年寄り。
おじいちゃんはカーテンを開けて、窓の外を見る。
「だいぶ波が高くなったな。そろそろ避難しておくか」
一旦部屋に戻ってTシャツに着替え、あらかじめ用意しておいた防災バッグを持って家を出る。
雨はほとんど降ってないけど、目を開けるのがやっとなくらい風は強い。髪は逆撫でに、服は翻されるほどに猛々と吹きつける。肌は湿気でベトベトになった。
避難場所に指定されていたのは、高校の体育館だった。台風の影響で休校になっていた学校には、学生寮の生徒はもちろん、島の人たちも大勢が避難していた。
でも、その中に奴の姿はない。
「……ねぇ、オスヤマ。和智田はまだ寮のほうにいるの?」
「いや、さっきまでその辺にいたんだが……」
「畑がちゃんと守れるかどうか心配で、お腹が痛くなっちゃったのかな!?」
そこまで繊細じゃないだろ――心の中で独白。
つと気を逸らし、荷物を置こうと場所を探していると、近所のおばさんが話しかけてきた。
「おはよう、ねねちゃん。……ねえ。さっき、校舎の壁をよじ登ってる男の子がいたんだけど……知らない? まだ外にいるのかしら……」
えっ、壁を……?
「そういや、わしも見たぞ。窓にぶら下がってたてるてる坊主を逆さまにしてたみてぇで、危ないからやめろって声をかけたんだが、大丈夫の一点張りで……」
てるてる坊主……!? そういえば、あの時からずっと吊りっぱなしになってたっけ……。
「じいさん! それ本当か!? 絶対に和智田だろ!」
「何やってんのよ、あの馬鹿!」
「でも、なんで……!? てるてる坊主を逆さまにしたら、雨が降って状況がもっと悪化しちゃうんじゃ……!」
山で土砂崩れが起きるかもしれないし、冠水で農作物はもっと弱ってしまう。
――そんなの、絶対に許さない!
「あのクソ猿っ……!」
体育館から出て、玄関へ向かった。
内履きを履き替えようと思っていたのに、足は止まらず、そのまま扉に腕を伸ばす。
風の猛攻を押し返す勢いで飛び出そうとしたところで、奴はガラス越しに姿を現した。
「おいおい、外に出る気か? 危ないぞ」
扉を引き開け、茶化すように唇の端を上げながら入ってきたその顔に、奥歯が鳴った。
「お前、どういうつもり! 大嵐にして、島をめちゃくちゃにしたいわけ!?」
「は? 何言ってんだよ。そんな嫌がらせみたいなことするわけないだろ」
「じゃあ、なんで――!」
和智田に掴みかかろうとした時、風の唸り声に交じって、バサバサッと大きな物音が聞こえた。引きつけられた視線の先――段々畑の上方で、ビニールハウスがめくれ上がっていた。
「うわ、ネットの支柱が外れたか……!」
和智田は険しく目を細める。
緊迫した空気を焦らせるように、背後からも忙しない足音が近づいてきた。
「うおーい、オレがあんなに強く打ちつけといたってのに、風ってのはすげぇな」
「感心してどうすんのよ! 一つ外れたら他もつられて外れちゃうじゃない!」
「じゃあ、止めにいけばいいんだ!」
木くず男の言葉で、和智田と赤鬼は互いに頷き合う。
「お前らはここにいろよ!」
そして、躊躇うことなく飛び出していった。その後ろ姿に、ウチは思わず叫んだ。
「ちょっと待って!! 物が飛んできたりしたら危ないでしょ!!」
──父ちゃんを思い出して、急に怖くなった。
六年前。奴らと同じように畑を守ろうとした父ちゃんは、どこからか飛んできた瓦が頭に当たって、死んだ。
その一瞬の出来事を──家の窓から見ていた光景を、毎年この時期になると思い出していた。思い出したくもないのに、脳に浮かんでは目の前に映し出された。
突然声を上げたウチに、和智田は驚いたように足を止める。それでも、すぐに笑みを浮かべて親指を立てた。
「男は危険な時にこそ本領を発揮するってもんだ! 忘れかけてた本能がうずくぜ!!」
…………。……獣だ。
そう思うと、なぜか少しだけ胸が軽くなった。
でも、それも一瞬だけ。和智田を睨んでいたウチの目は、その背後に迫る大きな看板に見開かれた。
「あ、危なっ──!」
叫ぼうとした時、和智田の隣にいた赤鬼が素早く振り返って、その看板を叩き落とした。
「っしゃあ! 和智田に盾突こうなんて百年早いわ!」
楽しそうだった。気味が悪いほど、楽しそうだった。
「さっすがだぜ、オスヤマ! よーし、張り切って行くぞ!」
「おうよ、相棒!」
「待って~! 俺っちも行く~!」
三人は、はしゃぐように駆け出していった。
どうして、止め合わないの……。危ないって、怪我をするかもって、どうして躊躇わないの。
「止めたって無駄なのよ。あれがあいつらの生き方だから」
ギャルは呆れたように笑う。
「馬鹿でしょう? でも、ちょっとだけかっこよく見えるのが不思議なのよね。強い心がないと、あんなふうに生きられないからかしら。……よっぽど守りたいのね」
呆れつつ、心惹かれているようだった。
「守りたい……? 自分が世話になった人の畑でもないのに……? 自分が生まれ育ったところでもないのに……?」
「違うわ。あなたとの約束をよ。一方的に押しつけた約束でも、自分で決めたことだから。あなたへの誕生日プレゼントだから、全力で守りたいのよ」
――優しい。不意にそんな言葉が浮かんだ。
……なにそれ。全然似つかわしくない。
――他人のために、どうしてそこまでするの。
……馬鹿なだけ。強引で荒々しくて、まさに台風人間。
――もっと近くで見たら、優しさに見えるのかな。
……そんなわけないじゃん。近づいたら怪我をするだけだって。
――そう、怪我をする。でも、それを越えられたら、見えないものが見えるのかもね。
……まあ、見たかったものが見えるのかもね。……それって、案外綺麗だったりするのかな――。
「えっ、ちょっと!?」
気づけば、走り出してた。
あいつらは、風の本当の怖さを知らない。あと一時間もしないうちに台風が上陸すれば、その脅威にさらされる。その前に、避難させないと……!
足を踏み出すたびに体が浮き上がる。自分の小ささを受け入れて、いつ飛ばされたっておかしくない状況で、思いっきり恐怖を感じた。ただでさえ上り坂なのに、足が重くなる。
それでも、止まるわけにはいかない。戻るわけにはいかない。あいつらのことを見てみたいって……和智田のことをちゃんと見てみたいって、思ったから――。
「──もういい! もういいから早く戻って!」
畑の上段。山に当たった風が乱気流になって襲いかかってくるような場所で、和智田たちは飛ばされそうになっていたビニールハウスを押さえていた。
「お、お前、なんでここに……!」
「もういいって! どんなに頑張ったって全部は守れないんだから! そんなことは島のみんなもわかってるし、ウチもわかってる! だからもういい!」
「ふざけんな!! そんな簡単に諦められるかよ!! 俺たちは自分の意思でこの島に来てんだ!! この島が好きになれると思って来てんだ!!」
──! 島を……。
「大事な場所が壊れされそうな時に、黙って見てられるかよ!!」
そんなの……。そんなのウチだって同じだ! 大好きな島が荒れていくさまを見てるだけだなんて嫌に決まってる! でも……!
「ウチだって、この島が好きだけど……!! でも、人間の力なんて小さすぎる……!! あってもなくても同じようなものだし!! 自然の力になんて勝てるわけない!! できるわけないじゃん!!」
「できないことに集中するな!! できることに集中しろ!! お前の島を想う気持ちは、俺たちなんかより何倍もでかいはずだろうが!!」
「!」
「信じろ!! 自分を信じるんだ!! それでももし、一人で抱えきれなくなったら、俺を信じろ!! 俺は絶対に、お前を裏切ったりはしない!! 俺は夢を叶える男だぁぁぁぁぁ!!」
「────」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。痛くもないのに、目の奥から涙がにじみ出てくる。自然と伸びた手は、目の前で倒れそうになっていた支柱を掴んでいた。
「……信じる……」
それが正しいことなのかはわからない。
「……信じる……」
見えるのは、嘲笑う真っ暗闇なのかもしれない。
「……信じる……!」
それでも、そうしたいと思ったから。
「……信じる……!」
そうしたいと、願ったから。
「……ウチは……自分のことを……」
後悔したっていい。いや、後悔なんてしない。
「和智田のことも……──信じるっ!!」
間違ったって怖くない……裏切られたって怖くない……それが正直な気持ちだから!
自分の中で何かをぶち破った――その時。
風の中に、水滴を感じた。海水じゃない……しょっぱくない水滴が唇の上で弾ける。
一つ二つと増え、次第に数えきれないほどの雨水が全身を横殴りにした。
その大粒に目も開けられず、服がずぶ濡れになっていく感覚に背筋が凍った。
──そうだ、和智田はてるてる坊主を逆さまに……!!
やっぱり騙されたのかと、彼を信じようとした自分に意識が遠退いていく。
そんななか、その男はまさに、歓喜の雄叫びを上げていた。
「来たぁぁぁぁぁ!! 恵みの雨だぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
ザザァァァーッと叩きつけるような轟音に、共鳴するように叫んでいる。
そこで、ウチはゆっくりと目を開けた。
何かが違う。強烈に降りしきる雨が、横からではなく上から降ってくるように感じた。
本来、雨は上から降ってくるもの。横から吹きつけるのは、風があるから。そう、風が――。
「えっ……」
風が、弱まっていた。
踏ん張っていた足から、徐々に力が抜けていく。
「俺様の勝ちだぁぁぁぁぁ!! どうだ思い知ったかぁぁぁぁぁ!!」
アッハッハッハ!! と、ラスボスの如く両手を天に突き上げていた和智田を見て、ウチはようやく理解した。
空に広がっていた積乱雲の塊が、拡散し始めている。
和智田は、台風をも飲み込む豪雨を降らせて、台風を弱らせようとしていたんだ。
「おお、すっげぇ!! 本当に風が弱まった!!」
「でもすっごい雨だよ~! ……ぶあっくしゅん!!」
木くずは盛大なくしゃみをこぼす。
「――な、何よこれ! 前が見えないじゃない!」
振り返ると、金髪ギャルがベッタベタに張りつく髪を拭いながら上ってきていた。
せっかく心配してきたのにぃ、と息を切らせながらブーたれるその姿を、赤鬼は目を丸くして凝視した。
「ウホー!! オレにはよく見えてるぞ!! お前のセクシーショットが!!」
「えっ、嘘っ!?」
言わすもがな、白シャツからはうっすらと桃色が浮かんでいた。
「何見てんのよ! 馬鹿っ!!」
ギャルは胸元を隠すように自分を抱え、来たばかりの道を駆け下りていく。
赤鬼ははしゃぎながら追いかけ、途中ですっ転んで泥だらけになり、赤鬼に駆け寄った木くず頭もまた、足を滑らせてバシャリと盛大に泥しぶきを上げた。
その光景を高みの見物気分で見ていた和智田は、後引く笑いを残したままのニタニタ顔で駆け出す。
「ほら、お前も帰るぞ! せっかく大災害を回避できたのに、風邪を引いちまったら意味がない!」
そう言って、どんどんと加速しながら坂を下っていく。
ああ、赤鬼たちに突っ込むつもりだ。そんなことを思いながら、その背中を呆然と見つめた。
体を伝い、流れていく雨が、少し温かく感じた。
──ウチの大嫌いな時間は、呆気なく終わった。
学校に戻り、酷く心配していたおじいちゃんたちの砲撃を一言二言で振り切ってから、家に帰った。
冷えきった体を湯船に浸かって温めているうちに、雨は上がる。
快晴とまでは言えないけど、うっすらと虹がかかる空のもとで、誰もが奇跡だと口にするほど静かな天気にはなった。
もちろん、一人の男子高校生によって起こされたものだとは誰も思わないだろうけど。
夜になると、島の集会場では畑の手入れを終えた大人たちによって宴会が開かれ、奇跡的な無事が祝された。
おじいちゃんとおばあちゃんに連れられて行ってみたけど、あまり気乗りしなくて、すぐにその場を離れた。
なんでこんなにすっきりしないんだろ……。
そんなことを思いながら、まだ湿気の残るそよ風の中を歩く。
すると、学校のほうからパチパチと爆ぜるような音が聞こえた。暗闇が続く道の先に、オレンジ色の炎が上がっていた。
驚き、身の毛がよだち、慌てて駆けつけて……損をした。
「……何してんの」
あの四人が焚火をしていただけだった。校舎周辺は火気厳禁なのに……。
「あっ、ねねちゃんだ! 今ね、てるてる坊主たちをお空に還してるの!」
は? 空に? そういえば、校舎にぶら下がってたてるてる坊主がなくなってる……。
「天気を変えてくれたてるてる坊主は、空からの使者だからな! これからもよろしく~って意味を込めながら焚き上げるんだ。短冊みたいに!」
そんなの聞いたことがない。どうせ和智田流でしょ。
「島の人が火事だって勘違いして飛んでくるから、早く消したほうがいい」
「やっぱりそうよね。……オスヤマ、水持ってきて」
「なんでオレなんだよっ」
赤鬼がしぶしぶと汲んできたバケツの水を撒くと、火はあっけなく消え、煙も短く散った。
奴らはその残骸を少し寂しそうに見つめていた。
「……和智田。ウチはお前に、島を守ってほしいなんて頼んだわけじゃない。だから、礼は言わない」
和智田は焚火の跡からじっと目を離さず、動かない。
「けど、代わりにいいものを見せてやる。他の奴らも、暇なら来ればいい」
「え……?」
背を向けて歩き出すと、四人の怪訝そうな小声が聞こえてくる。
湿った土のぐちゃぐちゃ鳴る音と一緒に、その声は途切れない。
自宅の奥にある林の中に入って、伸びきった草藪をかき分けながら薄暗い夜道を進む。
雨続きでご無沙汰だった虫の声がチキチキリーリー聞こえてきた。
「おい……オレたち殺されるんじゃないのか……!?」
「俺っちまだ死にたくないよぉ……!」
「しっ! 聞こえたらどうすんの……!」
こいつら、ウチをなんだと思ってるんだ。どちらかと言うとお前たちのほうが何を仕出かすかわからん。
「……天の川が見たかったんでしょ。だから見せてあげるだけ」
「天の川……? 何言ってんだよ、空はあいにく雲模様だぜ」
「空にはない。特別な天の川だから……」
おじいちゃんもおばあちゃんも知らない。ウチと父ちゃんしか知らない場所。父ちゃんとの思い出の場所。だから、今はウチしか知らない場所……。
「──ここ」
着いたのは、樹林に囲まれた小さな川の中流。
家々が建ち並ぶ下流と違うのは、特に綺麗な源流の水が流れているということ。
そして、その水に誘われて無数の光が集まってくるということ。
「うおっ……!」
ふわりと水辺を舞い、ほろりと草の上に沈むホタル。川上から続く乱舞の光が目の前を飽きずに泳いだ。
「すごい……綺麗……!」
「俺っち、ホタル見たの初めて!」
都会じゃ見られるところも減ってきてるんだっけ。下流でも少しは見られるけど、ここほどじゃない。外灯もないからより鮮明に見える。
「ここはおじいちゃんの私有地だから、普通の人は来られない。おじいちゃんとおばあちゃんも、足腰が悪くてここまでは来られない。だから実質、ウチの独り占め」
「そんな場所に連れてきてもよかったのか? よそ者の俺たちを」
和智田の問いに答えるには、少しだけ勇気が必要だった。
「……お礼……だから……」
でも、一度言ってしまえば気は楽になった。
「……ウチの母ちゃんは、結婚した時にこの島に来た都会人だった……。でも、この島の不便さに耐えきれなくなって、ウチが三歳の時に一人で本土に帰った。だから、仕事で夜遅くまで帰ってこない父ちゃんの代わりに、おじいちゃんとおばあちゃんがウチの面倒を見てくれた。本当は母親がやるべきことを、体を痛めながら畑仕事をする二人がやってくれた……」
自分でやるって言っても、勉強を頑張りなさいとか、子供は遊ぶのが仕事だからとか言われて、おんぶに抱っこされ続けるだけだった。
「ウチが本土の人間を嫌うのは、人との繋がりも、自然との繋がりも、気分で決めるだけで心から大切にしない人間ばかりだと思うから。興味本位で来た観光客は、海辺にゴミを散らかしていくし、民宿で出された山菜の料理を平気で不味いって言って食べ残す。そんな奴らを、ウチは好きにはなれない」
ストレス発散に利用されるだけなのが、すごく嫌だった。生まれてから最期までこの島を好きで居続ける人たちの暮らしを馬鹿にされてるみたいで、すごく嫌だった。
「でも、お前たちは違うって、思った。島のことを心から慕ってくれるって、思った。……だから、ここに連れてきた……」
こんな日が来るとは思ってなかった。思い出が汚されて、消えてしまうと思っていたから。
「……ねねちゃんの、お父さんは……?」
「六年前の今日……台風のせいで死んだ」
そう口にした時、空気が少し冷たくなった。
それでも、灯り続ける蛍火は優しく漂い、一つ、また一つと増えていく。
「それまでは、毎年父ちゃんと一緒に来てた。秘密基地に来てるみたいで、楽しかった。……でも、父ちゃんがいなくなってからは……一人で昔のことを思い出しに来るようになって……」
その光は次第ににじみ、ぼやけ、消えることはないまま、
「……すごく、寂しかった……」
震える声とともに流れ落ちた。
あの日から毎年見ている、悲しい光――。
「……一人で泣いてると……ホタルが集まってきて……。それが父ちゃんみたいで……。悲しいけど、あったかくて……。あったかいけど…………ずっと寂しかった……」
とめどない思いは、すぐにあふれてくる。それを抑えて、我慢して、この日にだけは吐き出してもいいと決めていた。今日だけは子供みたいに甘えてもいいって、この場所に来て、父ちゃんに会いに来ていた。
下を向いたままむんずと涙を拭うと、水面に長い髪が映った。頭に手が置かれる。
「いつも素っ気なくて、あたしたちのことを邪険にしてたのは、そういうことだったのね……」
そっと撫でる手は、しわくちゃなおばあちゃんと違ってなめらかだった。
「……まあ、確かに、都会に比べたらここは不便だし、オレ好みの食べ物だって少ないし、可愛い女子も少ねぇけどよ。すっげぇ居心地のいいところだとは思うぞ。のびのびしてるっつーか、開放的っつーか」
赤鬼は池のほとりに小石を一つ投げて、ぱっと舞い上がった光たちを面白そうに見上げた。
「そういう環境を求めて来てるんだよね、大半の人は。だから、みんなバラバラなんだよ。仲良くしてる人たちや喧嘩する人たちもいるけど、基本は一人の時間を過ごしてる。――だけど、それを許さない人もいた」
陰に包まれて藻くずになった木くずが小さく笑うと、その隣にいた悪魔は暗がりでもわかるほどの不敵な笑みを浮かべた。
「――お前たちは全員、俺様の下僕だ!!」
「そうじゃないでしょ!」
頭から離れた手が握りこぶしになって振りかざされる。和智田は尚もへらへらと笑った。
「俺は、俺が楽しいように生きてるだけだ。みんなでワイワイガヤガヤズキズキするほうが楽しいだろ?」
ズキズキがちょっとわからない。
「たとえお前に愛想尽かされたって、めげずにアプローチし続けてやるぜ!」
「ウチは、別に……」
もうそこまで嫌いだと思ってるわけじゃない。……でも、完全に気を許したわけでもない。
「心を閉ざすな、心の時間を止めるな。綺麗な水が放置されると徐々に汚れていくように、人の心も動かさないとどんどん淀んでいくんだぞ。汚れた心じゃ、優しい光も寄り添ってくれないぜ。──さあ、カモン!」
そう言った和智田の肩に、一匹のホタルが止まった。呼吸するように発光を繰り返している。
「……光るホタルはオス。光ってるのは求愛行動」
「俺はメスじゃない!!」
「それ以前にホタルじゃないでしょ!」
――! 思わずツッコんでしまった……。慌てて口を塞いでも、時すでに遅し……。
奴の顔はにんまりと広がった。
「ようこそ、和智田ワンダーランドへ!! ハッピーバースデー、天川ねね!!」
――嫌だぁぁぁぁぁぁ!!
衝動的に足が動いて、その場から逃げるように走り出した。
あんな奴、道に迷って遭難すればいい! 天狗に連れ去られて鼻が長く赤くなればいい! 気持ち悪い! 存在が気持ち悪い!
「おーい! 待てよ、ねねっこ~!」
来るな来るな来るな!!
家に駆け込むまでの間、和智田はずっと追いかけてきた。
いろんな意味で怖くて、一度も振り返ることなく走った。
「……あらあら、珍しく甘えたさんなのねぇ、ねねちゃん」
さすがに家の中まではついて来なかったけど、その恐怖はおばあちゃんにしがみついてもしばらくは消えなかった。
「大きな赤ちゃんじゃの~。ほれ、ジジイのところにも来てみなさい」
うるさい。でも、二人が家に戻っててよかった……。
「今夜は久しぶりに川の字で寝ましょうかねぇ」
「おお、そりゃあいい考えじゃ。そうしようかの、ねねちゃん」
「…………。――うん……」
今日は、今までで一番疲れた誕生日だった――。
次の日になって思い出した。今日は終業式。
どうせなら昨日から夏休みにすればよかったのに、と思いながら登校する足は重い。
なんか、すごく行きたくない……。あいつらと顔を合わせづらいし、合わせたくないし、ずる休みすればよかった……。今から帰っても遅くはないか……。
「──やっふぅ~!! 夏休みだぁぁぁ!!」
「オレもブギウギするぜぇ!!」
と思っていたら、教室に入る前から和智田と赤鬼の声が聞こえてきて、違う意味で引き返しそうになった。
なんとか踏みとどまって扉を開けると、案の定、二人は狂犬のように駆け回っていた。
「ちょっとやめなさい! 小学生じゃないんだから!」
「俺っちは筋肉痛と風邪で動けないのに……どうしてそんなに元気なの……――ぶあっくしょん!!」
木くずは正しい。あれだけ強風に耐えてびしょ濡れにもなれば、そうなるのが普通だ。
だから両方に効く漢方薬を持ってきてやったのに……あいつらは馬鹿だから必要ないか。
「……これ」
机にひっ伏していた木くず頭の前に包み紙を置き、席につく。
「えっ、何これ……!? どす黒くて変な匂いがするんだけど……ヤバい薬!?」
「〝漢方〟って書いてあるじゃない。飲めば元気になるわよ」
「そっか! ねねちゃんが俺っちを心配してくれたんだね! 感動だよ!! ありがとう!!」
風邪うつされたら困るだけだし。
「でも、漢方薬って不味いんだよね……? 誰かオブラートとかゼリーとか持ってない?」
「男のくせに何言ってんのよ。そんなもの水だけでグイッといきなさい、グイッと」
「ミネラルウォーターならここにあるぜ!」
和智田はどこから取り出したのか、二リットルのペットボトルを掲げた。
「和智田っ!! それはやめとけ!!」
器用に顔を青した赤鬼は唐突に叫ぶ。
「……? そんなに慌ててどうしたんだよ、オスヤマ」
「いいからさっさと元の場所に戻せって! ──あっ」
続けて声を上げた赤鬼は、和智田の背後に立つ一人の女子生徒を見るなり、わなわなと震え出した。
「──あんた、あたいの水に何すんだい……」
みんなが夏用の制服でクールビズをしているなかで、くるぶしまである長いスカートを履き、赤茶の昆布みたいな長い髪を垂らしたその人は、煮え繰り返るのを待つ魚みたいにギョロリと目を見開いている。……あんなにむさ苦しい格好なのに、なんでおヘソは出てるんだろ。
「わあああああああああああああっ!?」
振り返った和智田は首を絞め上げられ――と思ったけど、その手はペットボトルだけを奪ってすぐに下がった。
和智田の左斜め前の席に着き、水は足元にゴトリと置かれる。
「早くこっちに来い! 和智田!」
崖から突き落とされそうになったタヌキみたいに縮んだ男は、すごすごと赤鬼に身を寄せる。
「お前、よく無事だったな……」
「お、女にやられるほど弱くないぜ」
あんなに絶叫しておいてよくそんなことを……。
「いや、あいつは要注意だ。――羽場真知子。オレの中学の同級生なんだけどよ、〝百戦錬磨の羽場〟とか〝負けなしの真知子〟とか呼ばれてた、本物の不良だぜ……」
へぇ……。いつも寝てばっかりでおとなしい人だと思ってたけど、結局、見かけ通りのワルなんだ。
「ああ~そうだ、羽場真知子! 八月十日がバースデーの奴だ! 来月はあいつにアタックするぞ!」
「やめとけって! 痛い目見るだけだ!」
「だぁいじょうぶだ~!」
どういうスイッチの切り替えをしたのか、和智田は性懲りもなく足取り軽やかに近づいていく。
「よう! お水大好き羽場真知子! 一学期最後の日くらい起きろよ!」
そして、腕枕をして机に伏していたスケバン女の手に触れた。――その時。
「いてっ!?」
バチッ! という音とともに、青い火花が散った。
な、なに今の……!? 静電気……!?
「あたいに触るんじゃないよ!!」
噛みつくように吠えて、睨む。……見たことはないけど、機嫌の悪いライオンみたいだった。
和智田が指を引っ込めて固まっていると、ライオンは再びふて腐れたように顔を沈めた。
赤鬼は和智田を引き戻して、吐き捨てる。
「だから言っただろ。あいつは酷い静電気体質なんだ。ちょっと触れただけで感電並みの威力だぜ。またの名を、バチバチのバチ子ってな」
ダサいネーミング。
でも、そんな人間もいるんだ。羽場真知子自身も痛いだろうに……慣れってやつ……?
「だから負けなしなのか! かっこいいじゃん! それだけ強い静電気なら焼き鳥も焼けそうだな! 俺様ネギ抜きで!」
こいつは子供っぽいっていうか、マヌケっていうか、なんかもう宇宙人。
「俺っちもバチ子ちゃんに焼かれてるのかなぁ……なんだか体がすごく熱いよぉ……」
さっさと薬飲め。
「あんた、完全にアウトじゃない! 和智田、オスヤマ! 保健室に運んであげて!」
「了解でござる!」
「神輿だワッショイ!」
木くずを頭の上に持ち上げた二人は、リズムよくかけ声を合わせながら教室から出ていった。
まるでブルドーザー並みの騒がしさ。
まあ、今日が終わればしばらくは聞かなくて済むんだし、最後の宴だと思えばいいか。
――と思ってたのに、それは教室に戻ってきた和智田の一言でかき消された。
「さあ! 夏休みをみんなで満喫するぞ! 今から最高の計画を立てるんだ! 真夏のビーチを駆けめぐるぜ~! ――とりあえず、この島の隠れスポットを教えてくれ、ねねっこ!」
やんぬるかな。どうやらウチは、台風よりもヤバい災害を見逃していたらしい。
――和智田ウイルス。島は平和になったけど、ウチの心はザワザワだ……。