☆五月【ハーフ女子】
【笹垣恵実梨】編
昔から、人の注目を浴びることは多かった。
パパからの遺伝で日本人顔なのに、ママからの遺伝で髪と目の色が黒くないから。
初めて会った人はみんな、あたしを〝ギャル〟だとか〝今時の子〟って言う。
だから、人から見られることも勘違いされることも慣れっこだし、仕方ないことなんだって思ってた。
──でも、最近は違う。
なんというか……ねっとりした視線がずっと近くを漂ってるというか、右や左や上や後に移動しながら、ずっとついて来てる気がする……。
そう、気味が悪い。もう一ヶ月近く、ずっと気味が悪い……。
でも、あたしはこの視線の正体を知っている。──そう、幽霊よ!
「悪霊退散っ!」
「げふっ!?」
いつもお昼を食べている中庭で、島の人に分けてもらった清めの塩を茂みに投げつけた。
思った通りね、ヒットしたわ。
「また塩かよ! 海で嫌というほど浴びたわ!」
茂みから姿を現したのは、学ランを着た男子高校生の幽霊――じゃない!?
「あんた、同じクラスのオスヤマじゃない!」
「オシヤマだ!」
え、そうなの? あの自称リーダーがそう呼んでた気がしたんだけど……。まあ、どっちでもいいわ。
「そんなところで何してるのよ! 最近、ずっとつきまとってたでしょ!」
「否定はしねぇ。けど、主犯はあっちだぜ」
そう言ってオスヤマが指差したのは、中庭の池。水面からブクッと泡が立ったかと思うと、頭にお皿を乗せた男子生徒がゆっくりと顔を出した。
「わ、和智田陽平!?」
カッパ!? カッパのつもりなの!? っていうか、ずっと潜ってたわけ!?
「ちーっす! 地獄の底からずっと見てたぜ、笹垣恵実梨! さあ、お前の願望を聞かせろ!」
ずぶ濡れの状態で這い上がってきた和智田は、頭の上のお皿をフリスビーのように投げ捨て、両手を広げて笑った。
「な、何言ってんの……?」
「もうすぐ誕生日だろ? プレゼントとして、なんでも願いを叶えてやろうって言ってんだ。ちなみに、ブランド品が欲しいと言えば俺様特製のスペシャネルバッグ、一緒にパラパラが踊りたいと言えばオスヤマも一緒に踊ってくれるぜ!」
「踊らねぇよ!」
ブランド……パラパラ……。もう、聞き飽きた言葉だわ……。
「もう言い飽きた言葉だけど……あんたたち、あたしのことをギャルだと思ってるでしょ……」
「あ? どっからどう見てもギャルだろうが!」
「今流行りの白ギャルじゃねぇのか?」
「違うわよっ!」
この高校なら絡んでくる人なんていないと思ってたのに……。せっかく静かに過ごせると思ってたのに……!
「あたしはハーフ! パパは日本人だけど、ママがフランス人だから髪と目の色が違うの!」
もう何百回と口にした言葉を投げつけるように叫ぶ。
どうしてみんな決めつけるのよ……! あたしのことなんか何も知らないくせに! 見た目だけで決めつけるなんてサイテーだわ!
睨みつけると、二人は少しだけ呆然の間を置いてから、笑い出した。
「アッハッハ! パパにママって……! 高校生なんだからもうやめろよ! ちなみに、俺様は男と女のハーフだぜ!」
「それを言うなら、オレは関東人と関西人のハーフだ!」
はあ……!?
「馬鹿にしてるの……!?」
「馬鹿にはしてない。ただ、にわかには信じがたいだけだ」
「なら、ちゃんと見てみればいいじゃない!」
左手を腰に当て、結びまとめた金髪を右手で払う。
近づいてきた二人は怪しむように瞳を細め、その視線を髪から顔へ、顔から撫で下ろすように下に下げて……。
「って、どこ見てんのよ!!」
「いてっ! オ、オメェが見ろって言ったんだろうが!」
「胸を見ろなんて言ってないわよ!」
思わずはたいちゃったじゃない、オスヤマの頭。でもいいわよね。失礼すぎるし、デリカシーないし。びしょびしょの和智田には触りたくないし。
「ふむ。確かに、カラコンじゃないな。髪も、根元から金髪が生えてるって感じだ」
「オレ、テレビ以外でハーフ見たの初めてだ」
改めてと、興味深そうに視線を這わせる二人。「ふむふむ」とか「ほうほう」とか、熟年研究者のように声を漏らす。
髪に手を伸ばされたところで、逃げるように一歩下がった。
「そ、そんなに見なくてもいいでしょ……!」
「いや、うまいこと血をもらったんだなと思って」
「父ちゃんはイケメンなんだな。──あ、父ちゃんじゃなくて、パパか」
アッハッハッハ! 二人は相通じるように手を叩きながら笑った。
ろくでもないわね、このお馬鹿コンビ……。
ムッと眉根を寄せると、和智田は慌てて両手を上げる。
「冗談だって。──で、お前の望みはなんだ? 何か欲しいものとか、悩みごとがあれば聞くぜ。俺様の常識範囲内ならな!」
「そんな都合のいい話があるわけないじゃない。見返りに何を求めてるの」
「見返り? そんなもの求めてないが……。まあ、どうしてもって言うんなら、もらってやってもいいぜ」
はじめはいい顔するのよね、誰だって。
「男はみんなそう言うのよ。勝手にプレゼントを押しつけて、後でそれを棚に上げて、デートしろとか彼女になれとか言い出して……ホントに自分勝手」
いつも通りのやり取りに溜め息が出る。
「そいつはダサいな~。男なら正々堂々と真っ向勝負だ! 行け、オスヤマ!」
「オレと付き合ってください!」
「馬鹿なの!?」
なんなのこいつら……。これも騙すため? それとも素……?
「まあ、俺はクラスメイトと仲良くなりたいだけだ。最初がオスヤマで、次がお前。誕生日順に声をかけてるだけで、お前だけに変なことをしようとしてるわけじゃない」
「ちなみにオレは、和智田陽平という最高のダチをもらったぜ」
「俺はただのクラスメイトとしか思ってないけどな」
「嘘だろ和智田!?」
あからさまなホラ吹きには見えないけど……。でも、こうやっていつも騙されちゃうのよね……。
「……変なの。入学式の時から思ってたけど、あんたってホントに変わり者よね。隣のクラスにまで大声で挨拶しに行くし、授業をサボって遊びに行っちゃうし、雨の日はわざわざ泥だらけになって学校中を走り回るし……」
何がしたいのかはわからないけど、本能のまま暴れてるんだなってことはわかる。自由奔放というか……。周りに迷惑をかけることはいいことじゃないけど、悪いことだと指をさして指摘するのもなんか違う気がする。
「こいつは真性の変人なんだ。けど、オレのために命まで懸けてくれた。悪い奴じゃねぇよ」
確かに、見るからに不良そうだったオスヤマも、最近急に雰囲気が変わったわよね。どのみち子供っぽいけど、目元が優しくなったというか、人当たりがやわらかくなった気がする。
ああもう、全部〝気がする〟だけじゃない! なんて曖昧で便利な言葉なの! 仕方ないじゃない! よく知らないんだし、よく見てなかったし、確信が持てなくて当然だわ!
「俺様は正義だ! 和平の使者だ! 無駄な争いは好まん!」
ひとまず結果を見てみるっていう手も……あるのかな……。誠意が本物かどうかわからないのに、否定するのも失礼だし……。
「さて、そろそろ土下座の用意でもするか」
いちいち気持ち悪いし……。
「土下座なんてやめてよ、あたしが悪人みたいじゃない」
「おおっ! ということは、願いをとろっとろに吐露してくれるのか!? そうなのかにゃ!?」
だからなんなのよ! この変人は!
「……じゃあ……」
こんな奴に毎日つきまとわれるのなんてごめんだわ。まあ、言うだけなら、言うだけだし……。
「……あたしね、人が少ないところがよかったからここを選んだんだけど、それだけじゃないの。この島は、自然にいっぱい囲まれていて、空気も景色も綺麗だなって思ったから来たの」
できるだけ生徒が少ない学校を探していたら、たどり着いたこの場所。秋に下見に来て、その絢爛な紅葉と穏やかな島の空気に、とても心が安らいだ。この場所なら、周りに気を遣わず、静かに自分を見つめ直すこともできると思った。
「島の北のほうに高めの山があるでしょ? その頂上にすっごく綺麗なお花畑があるって聞いたから見に行こうとしたんだけど、危ないから一人で行っちゃダメって島の人に言われて……。だから、そこに連れてって」
前のめりになりすぎないように抑揚を抑えて言うと、オスヤマはふーんと鼻を鳴らした。
「そんなもんでいいのか? 高級品でも頼めばいいのに」
「別にそんなものいらないわよ。下手に形が残るものは後で面倒になり得るし。形が残らないものは、しらばっくれればいいでしょ?」
「なんだ、まだ疑ってるんだな。――よっし、上等だ! その望み、確かに聞き入れたぜ!」
和智田の目に光が射しこんで、キラン、と音が聞こえそうなくらいに照り返した。
その視線を遮るように、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
──って、お弁当食べられなかったじゃない!
数日が経って、誕生日当日。五限目の体育の授業中に、それは決行された。
「まさか、授業をサボることになるなんて……」
「放課後から登ったら、すぐに日が沈んじまうだろ。課外授業だと思えばいい」
三キロ走の途中、町中を走るコースから脱け出し、そのまま山へ登ることになった。
事前に山の入口付近に隠しておいたスケッチブックと色鉛筆セットを拾い、踏み分けられただけのデコボコ道を登り始める。
「エミリーは絵を描くのが趣味なのか?」
勝手に外国人みたいな名前で呼ぶ和智田は、暑そうに体操服の袖と裾をまくり上げる。虫に刺されないように長袖長ズボンにしようって言ったのはあんたでしょうに、それじゃあ意味ないじゃない。
「うん、まあ……。思い出になるような綺麗な景色を、いつでも見られるように残したくて」
「へぇー」
この二人に言ってもわかんないわよね。絵なんか興味ないって顔してるし。
「思い出にしなくても、また行けばいいんじゃねぇの?」
「そんな簡単に行けないから描くんじゃない。今から行くところだってそうでしょ」
「ああ、そっか!」
胸元のチャックを全開にしたオスヤマは、大股で先頭の和智田を追い越し、木々の間をすり抜けて道なき道を行く。はしゃぐようなその背中に、ちょっと笑ってしまった。
……よかった、和智田に無理やり付き合わされたわけじゃなかったのね。
「おい、今リスがいたぞ! 高値で売り飛ばそうぜ!」
「いや、俺様が捕食する!」
「やめてよ馬鹿っ!」
前言撤回! 自然の敵だわ! 和智田に関しては人間じゃない!
動物を見つけるたびに恐ろしいことを言う二人に余計な体力を奪われつつ、ひたすら上を目指した。
もう、無駄に疲れるじゃない! あたしはあんたたちみたいなスタミナ馬鹿じゃないのよ!
「――おーい、大丈夫かー?」
半分くらい登ったところで一度立ち止まり、脱いだ長袖を腰に巻いた。
呼吸が乱れ、いくつもの汗がこめかみを伝う。
「……平気よ、これくらい」
視線を落としたままぽそりとこぼした。先へ先へと進んでいた二人の影が戻ってくる。
あたしのために来てくれたのなら、もうちょっとペースを合わせてくれてもいいのに。
変な意地を張りたくなって、二人が踏み分けた道を避けて再び登り始める。――と、その時。
「きゃっ!?」
地面だと思ったところは、枯れ葉がひっかかっているだけの崖っぷちだった。足場が崩れ、一瞬でヒヤリと凍った体が重力に引かれていく。
「エミリー!!」
オスヤマに手首を掴まれ、体は宙にとどまった。脇に抱えていたスケッチブックは滑り落ち、色鉛筆も崖の底へバラバラと散っていく。
登ろうとしても、苔か何かで足が滑る。完全に宙ぶらりんになった。
反対の手を和智田と繋いだオスヤマも、辛うじてへこみに膝をかけているだけの状態だった。
「オスヤマ! 放して!」
和智田が掴んでいる木が、みしみしと音を立てていた。
このままじゃ、みんな落ちちゃう……!
「そんなことできるかっ! オレは女子の手を握ったのが初めてなんだぞ!!」
この状況で何言ってんの!?
「和智田の馬鹿野郎が放しても、オレは絶対に放さない! どうせ死ぬんなら一人は嫌だ!!」
「この俺様が放すわけないだろぉぉぉー!!」
震えた腕を、その熱が伝わってくる。かすかに体が引き上げられた。
「ぬおぉぉぉぉぉっ!! 人生いつでも崖っぷちだぜぇぇぇーー!!」
ゆっくりと、でも確実に。――とはいえ、それはたった数秒の間だけだった。
──バキリッ!!
細い幹が、嘲笑うように豪快な音を立てて折れた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
それでも、和智田の心は折れなかった。木が完全に二分される直前に、根っこの──株の部分を掴み直していた。
「いてっ!!」
折れた幹はオスヤマの頭に直撃したけど……。
「あ、あんた、頭から血が……!」
「ははっ……女子の手に興奮しすぎたぜ……」
まだ言ってる……。
「オスヤマ!! 気合い入れるぞ!! ──ファイトォォォォォォォォォッ!!」
「イッッッパァァァァァァァァァァァァァツッ!!」
みるみるうちに体が引き上げられ、久しぶりに触れた土に指を立てる。しがみつくように体を押し上げ、地面の上に戻ったところで大きく息を吐いた。
立ち上がることができず、膝をついたままうなだれた。
「ご、ごめんなさい……あたしのせいで……!」
見なくてもわかる、泥だらけの二人。和智田の手には痛々しいすり傷があって、オスヤマの頭からは血が垂れている。
けど、二人の荒い息が収まった時、聞こえてきたのは笑い声だった。
「アッハハハ! いやぁ~、スリル満点だなぁ~!」
「やっぱ冒険はこうでねぇと!」
見上げた先にいたのは、やっぱりボロボロの二人。気を遣って笑っているのかと思ったら、そうでもなかった。続いたあたしの言葉に、和智田はあからさまに機嫌を悪くした。
「ねぇ、やっぱりやめましょ……。この先は勾配がもっと急になるし、何が起こるかわからないわ。危険すぎる……」
「はぁ? 何言ってんだよ」
簡単に言うと、おもちゃを取り上げられた子供。想像で言うと、死んでも死に酒を放さないアルコール中毒のおじさん。
「俺だって、今までの人生で諦めたことは何度もあるが、諦めてよかったと思ったことは一度もない! 未練を残して仕方なくやめる、なんて絶対に許さん! この和智田様がいるんだぞ! 死んでも連れてってやる!!」
天国に連れていかれるのかもしれない。
「迷いが生じるのは全力じゃない証拠だ。お前は全力じゃなかったのか!? 綺麗な景色が見たいって気持ちは生半可なものだったのか!?」
額の血汗を袖で強引に拭ったオスヤマに言い落され、目に涙がにじんだ。
和智田はすかさず切り込む。
「泣くな! すぐに泣く女なんて見飽きてるんだよ! さっさと立ち上がれ!!」
「そうだそうだ! 置いていくぞ馬鹿野郎!!」
背を向けて急ぎ足に再び登り始めたオスヤマに、和智田も階段を段飛ばしにするようにトントンと軽やかに上がっていった。
「ちょ、ちょっと……!」
振り返ることなく小さくなっていく二人に、かける言葉は届かない。
「なんてスパルタなの……」
優しくはあっても、甘くはない。……二人の真の像が少しだけ見えた気がした。
それから、二人を見失いそうになりながらも必死に追いかけて、食いついて、山肌を踏みしめた。登りたいという気持ちよりも、置いていかれたくないという気持ちが先行していた。
それは本来の思いじゃないけど、うつむきかけていた気持ちを引っ張ってくれた。
そして――。
「あ……」
木々の隙間から見える青空に向かって無心に突き進んでいると、パッと視界が開けた。
広く伸びる温かな極彩。まるで、今からコンサートが開かれるかのように、一面に赤や黄色やピンクの高低を制した花が咲き乱れ、時折り揺れて、万華鏡のように豊かに移ろった。
ふわりとやわらかく降りる日射しは優しく、さらりと汗をなぞる軽やかな風が心地よかった。
「あ~、大地を感じるぜ~……」
二人はだらりと寝そべっていた。そのまま溶けて土に還りそうなほどに。
思わず笑ってしまって、口元を抑える。……まずは言うべきことがあると思った。
「……あたしのほうこそ、見た目で人を判断していたみたいね……。あんたたちのこと、ただの非常識な野蛮人だと思ってたけど、そうじゃなかったわ。……ごめんなさい」
聞いているのかいないのか、二人は目を閉じたまま微笑んでいる。
「それから、ありがとう。今……すごく幸せだわ」
久しぶりに、心から笑えた気がした。
男の子との間に壁を作るようになって、それでも、無視したり突き放すことはできなくて、適当に笑って適当に流す、そんな毎日だった。ギャルだと思われれば軽い女に見られるし、ハーフだと知ってもらえても勝手に希少価値をつけられて邪な目で見られる。女子からは鬱陶しそうに横目で見られ、「さっさと国に帰れ」と言われたこともあった。
平気だって口先だけで言い聞かせても、心は落ち着かなかった。
だから、この島に来た。――そして、この二人に出会った。
「でも、絵が描けなくて残念だったな」
小さく息をつきながら、和智田は青天井を仰いだ。
「ううん……いいの。この目にう~んと焼きつけるから。忘れたらまた来ればいいんだし」
「おいおい、オレに言ったことを忘れたのか? 簡単に来られる場所じゃないんだろ?」
「また連れてきてくれるでしょ?」
二人に陰を落とし、笑みを浮かべる。
和智田はミイラのように胸の上で腕を交差させた。
「怖ぇ~! これだから女は面倒なんだ!」
「おっ、珍しく和智田がこたえてる!?」
それも芸の一つだったらしい。振り子のように勢いよく体を起こし、すぐに満面の笑顔を作った。
「な~んつって! また来年の今日にでも連れてきてやるよ! ──ハッピーバースデー、エミリー!」
その後、あたしたちは日が傾くまで、お花畑の中に寝転がって雲を眺めていた。犬の形だとか、ケーキの形だとか、子供みたいなことを言いながら、懐かしいうららかな時間にふけった。そして、ありったけの夕景色を楽しんでから、山を下りた。
学校に戻ると、当然の如く怒られた。授業中に生徒がいなくなることはよくあるらしく、心配されることなくことごとく怒られた。
神隠しに遭いましたと主張する和智田とオスヤマに付き合わされて、寮に戻れたのは夜八時頃。
いつもみたいに素直に謝ればよかったのに、なんでだろ……。もしかして、あたしが授業を〝サボる〟ことに対して抵抗してたから……? まさか、そこまでの気は遣えないわよ、あのお馬鹿どもは。
「……早くお風呂に入らないと」
九時になると入浴場は閉まってしまう。思いっきり汗もかいたし、レディーとして逃すわけにはいかない。
「貸し切り状態ね」
女湯の暖簾をくぐり、脱衣所で服を脱いで、タオルで胸元から下を隠す。この時間にもなると他に人はいないけど、家じゃない場所で裸をさらけ出すのはちょっと抵抗がある。
「はあ……疲れた……」
念入りにかけ湯をして、湯船に浸かる。いつの間にかできていた腕の傷に少ししみたけど、そんなことも気にならないほど、ほぐれていく体に心もほっと安らいだ。
「……ん?」
今、水風呂のほうから音がしたような……。
でも、脱衣所には誰の服もなかったわよね……。虫? カエル? まさか、幽霊!?
「──って、そんなわけあるかぁー!」
湯船のふちに置かれていた桶を掴み、思いっきり投げつけた。
カポーンと音を立て、水面からかすかに見えていた黒い影にヒットする。
「いってー!! 皿がない時になんてことを!!」
ドボドボと体操服姿の馬鹿が顔を出した。
「何やってんのよ、和智田っ!」
「ラストサプラ~イズ!」
「ばっかじゃないの!? どうやって女子寮に入ったのよ!」
「警備員がうたた寝してたから、ラリアットかましてやった」
「お馬鹿!!」
もう! ホントに何考えてんのかわかんない!
「ちなみに、今回の主犯は俺じゃないぜ」
ガラガラガラ。脱衣所の引き戸が開き、コンビの片割れが親指を立てながら入ってきた。
「ナイスショットあざーっす!!」
「オスヤマぁぁぁぁぁ!!」
許さない!! 絶対に許さない!! やっぱり、男なんてみんなろくでなしよ!!
――収まらない怒りを抱えたままの、翌日。
昼休みに中庭でお弁当を食べていると、
「エミリ~、機嫌直せよぉ~」
和智田とオスヤマがゴマをすりながら近寄ってきた。
「うるさいわね。信用したあたしが馬鹿だったわ。視界に入るだけで気分が悪くなるからあっちいって」
「そんなこと言うなよ~。俺たちはもっと友好度を高めたかっただけなんだぜ~」
「そうだそうだ。裸の付き合いっていうだろ?」
「男だけでやりなさい!」
お弁当をしまい、ベンチから立ち上がって足早に校舎へ向かう。
「しょうがないなぁ。ほら、これやるからよ」
「物で釣らないで! もう何もいらないわ!」
「いや、これはプレゼントというか、返すものというか……」
歯切れの悪い和智田にしぶしぶと振り返ると、そこには見覚えのある冊子があった。
「えっ……!?」
衝動的に奪い取った。角が凹み、真新しいすり傷がついたその表紙をめくる。
間違いなく、昔の自分が描いた絵。昨日、崖の底に落としてしまったスケッチブックだった。
「昨日のラストサプライズはお気に召さなかったようだからな。今朝探してきたんだよ。残念ながら、色鉛筆は見つからなかった。多分、リスたちが持っていったんだろう。やっぱり捕食しておけばよかったぜ」
あっけらかんと笑う和智田。
その明るい声に手が震えて、急に熱が込み上げて、涙がこぼれるまで時間はかからなかった。
「お、おい! そんなに大事なものだったのか……!?」
オスヤマは困ったようにあたふたと手を泳がせた。
大事……。大事に決まってるじゃない……。ここには小さい頃からの思い出がたくさん詰まってるのよ……!
スケッチブックをゆっくりと裏返し、最初のページに描かれていた絵を見せた。
「この絵は、あたしが初めて描いた絵……。フランスにあるママの実家から眺めた景色よ。……昔、一年間だけ住んでたことがあるの……」
街から少し離れたところにある、丘の上の一軒家。目下には、たくさんの鳥が休息に訪れる噴水広場や、赤と緑が映えるバラの庭園があって、遠くには、国を象徴する高い塔も見えた。
「ママは、難しい病気で……ずっとベッドから出られない生活を送っていたから……。いつも、窓から一緒にこの景色を眺めていたの……。ママとの、思い出の景色なの……」
再び裏返し、抱き締めるようにスケッチブックを抱える。
「忘れたくなくて絵に残したんだけど……見返したのは久しぶりだわ……。思い出すのがつらくて、最初のページは開かないようにしてたから。……このスケッチブック自体、特に心に残った景色を描く時にしか使わないのよ」
この島の穏やかな景色は、そんな悲しい記憶も包み込んでくれるような気がした。だから、あの山にはどうしても登りたかった。
「そっか……。そんなに温かくて優しい景色なのに、つらい思い出が詰まってるんだな……」
「でも、たまには思い出してやれよ。天国で寂しいって泣いてるぜ、ママさんも……」
痛みを噛み殺すように笑ったオスヤマ。その言葉に、怪訝と眉をひそめる。
「……ママ、まだ生きてるんだけど」
「え」
うまく突けた意表に、抑えた笑いが鼻先から漏れた。
「術後は後遺症で車椅子生活になっちゃったけど、元気にパパと世界一周旅行に行ってるわ。今頃南米辺りにいると思う」
「ちょっと待て! 母親のことを思い出すのがつらいって言っただろ!」
「病気で弱ってたママを思い出すからってことよ。もう会えないからって意味じゃないわ」
「なんじゃそりゃ!!」
娘を一人置いて旅行に行っちゃうなんて酷い話だけど、健康なうちにいろんな国を見てみたい、なんて言われたら、止められるわけないじゃない。
「お前、置いていかれたんだな」
「ええ、置いていかれたわ」
まあ、高校生だし仕方ないわよ。──って!
「笑ったら怒るわよっ!」
「!」
口を大きく開けて今にも噴き出そうとしていた和智田を、寸でのところで制す。
「おお~、俺たちのことがわかってきたな!」
「置いていかれた悲しみはオレたちが慰めてやるよ!」
「い・ら・な・い!」
予鈴が鳴るまで、延々と二人の軽口に付き合わされた。
正直、楽しかった。変に勘ぐらなくてもいいし、気を遣わなくてもいいし、自然体で話せることが嬉しかった。ようやく解放されたんだって、ようやく自分らしさを出せるようになったんだって、顔を上げて周りを見ることができるようになった。
――自分を守るはずの壁が壊されて、心が軽くなった。
教室に戻ると、五限目の数学が急遽自習になったことを知らされた。隣のクラスで起きた大喧嘩に巻き込まれて、数学の先生が怪我をしたらしい。この学校、大丈夫かしら……。うちのクラスは血の気が少ない人たちばかりでよかったわ。自習になれば寝ちゃう人がほとんどだし。
スケッチブックの最後のページを開き、購買室で買ってきた色鉛筆を手に取る。
ベースの草原を描き、十二色を余すところなく使って花を咲かせた。
「……おっ、うまく描けてんじゃん」
前の席のオスヤマが手元を覗いてきて、とっさにその顔の前に手を伸ばした。
「ダメ。途中の絵は見られたくないの」
「なんだよ、ケチ」
視線が離れるまで睨み続けて、再びペンを滑らせる。動物に見えないこともない雲が浮かぶ青空に、うっすらと波紋を描くように降り注ぐ光。
そして、その中に寝転がる二人の男子。人を描いたのは初めてかもしれない。
「それ、俺たちか!?」
背後から弾むような声がかかり、首筋が緊張した。
はなから自習なんてする気もない和智田を振り返りながら、慌ててスケッチブックを閉じる。
「自分の席にいなさいよ!」
「なに恥ずかしがってんだよ~。男を描くのに慣れてないのか~?」
「さては、オレたちに惚れたな!」
「そんなわけないでしょ!」
嬉しそうに悪ノリするオスヤマに向き直って、広げていた色鉛筆もしまう。
感謝はしてるけど、別に心を許したわけじゃないから!
「──えみり~ん、大丈夫~!?」
二人を適当にあしらっていると、勝手に教室から出て飲み物を買いにいっていた生徒が戻ってきた。左耳にピアスをつけて、子犬みたいな薄茶色の髪を短く躍らせた、お喋り好きの男子。いつもはくったくのない笑顔で話しかけてくるのに、今は心なしか、顔が引き攣っているように見える。
「ああ? 誰だテメェ」
オスヤマが下から突き上げるように睨むと、その顔はさらに強張った。
「だ、誰って……同じクラスの生徒くらい覚えてくれててもいいんじゃない? 特にオスヤマ君は、いつも俺っちの机を蹴飛ばしていくし……」
「あ? 知らねぇよ。なぁ、和智田」
いや、確かに蹴飛ばしてるわよ。廊下側の一番前は不良の餌食になりやすいのよね。教室に入って最初に目に入る席だから。
「俺は知ってるぜ。──六月二日生まれの原勇介。次のターゲットだ!」
「ターゲット……? 俺っち、殺されちゃうの!? 恐怖~! えみり~ん、怖いよ~!」
…………。寒っ……。
「ホントに殺っちまおうぜ……こんなチャラそうな奴の願いなんて聞くだけ無駄だ!」
「えみりんも早く逃げようよ! せっかくのエンジェルオーラがケガれちゃう!」
エンジェルオーラって……。
そういえばこの人、よく女子生徒をナンパしてたわね……。敵だわ。
「別に絡まれてるわけじゃないから、大丈夫よ」
「脅されてるの!? 無理しないで!」
聞きなさい!
「悪い人たちじゃないわ。……少なくとも、休み時間にナンパばっかりしてるあんたよりはね」
「俺っちのこと見ててくれたんだ! 嬉しい~!」
…………。なんか嫌っ……。
「でも、わっちーもオスヤマ君も、先生に目をつけられてる問題児なんだよ。どうして俺っちよりいい人なの?」
「だって、あたしのお願いを聞いてくれたもの」
あれ。今のあたし、ワガママなお嬢様みたいになってない……?
「えみりんのお願い? そんなのいくらでも聞いてあげるよ! なんでも言って!」
いや、多分あんたじゃ無理よ……途中で根を上げるでしょ。
「テメェ、さっきから〝えみりんえみりん〟ってうるせぇんだよ。オレのエミリーに手ぇ出したらぶっ飛ばすぞ!!」
あんたのものじゃない!
「あはは、エミリーって何? それじゃあ外国人みたいじゃん。えみりんのほうが可愛いし」
まあ、〝えみりん〟って呼ばれてたことはあるけど……高校生でそれはちょっと恥ずかしいかも……。
「どっちでも可愛いんだよ馬鹿野郎!!」
馬鹿野郎はあんたよ!!
「まあまあ、お前ら、教室では静かにしろよ。この和智田様が怒っちゃうぜ」
あんたがいつも一番うるさい!
「原勇介。残念ながらお前は来月誕生日だ。残念ながら俺は望みを一つ叶えてやらなきゃいけない。残念ながら何でも言ってみろ」
どんだけ残念がるのよ!
「叶えてやらなきゃいけないって……わっちーは神様なの?」
「ああ、そうだ」
堂々と嘘をつくな。
「へぇ~……。それは嬉しいけど、何でも叶えるなんて無理でしょ」
「無理かどうかは俺が決める。俺の常識範囲は結構広いぜ。一夫多妻制の義務化だってちょろいちょろい! どうせそういうものをお望みなんだろ? 任せとけ!」
なに馬鹿なこと言ってんのよ。でも、そういうごっこ遊びをするだけなら可能かもね。っていうかそうするつもりでしょ。
「俺っちのことを勘違いしてもらっちゃ困るよ~。全くもって正反対」
終始甘い撫で声で話していた原勇介は、急に声音を下げて続けた。
「……俺っちさ、女の子好きを治したいんだよね」
「は……?」
つい気が抜けてしまった。和智田とオスヤマもぽかーんと首を傾げる。
何言ってんだ? 冗談はよし子さんだろ? そんなことを言いそうな二人と初めて呼吸が合った。
――けど、彼の目は間違いなく真剣だった。