4.青山(2)
「ケータイかぁ。ホントは、それもダメなんだけどなぁ……。でも、今日は特別だ。それ持っていて良いから、一緒に教室へ行こう。それがあると、安心するんだろう?」
空は青かった。
青山の手は力強かった。
初夏の温い風が背中を押し、青山の逞しい腕が、僕を寄り掛かっていた金網フェンスから引き剥がした。そして、そのまま教室へ連れて行こうとする。
しかし、僕は数歩歩いただけで、すぐに立ち止まった。
「ん? どうした?」
青山が優しい表情で、俯く僕の顔を覗き込んだ。相変わらず、距離は近く、親しい友人のようだった。
「何も怖いモノなんてないさ。先生が一緒にいるから大丈夫。さあ、行こう」
青山の言葉は優しさに満ちていた。
普通の子供ならば、その優しさに背中を押される事だろう。きっと塞ぎ込んでいる気持ちも明るくなる事だろう。
でも、僕は違う。
僕は世界と分離している油。まともな子供ではない僕は、そんな安っぽい言葉たちに惑わされたりはしない。
「ねえ、先生……」
僕が呟くように言うと、青山は直ぐに耳を寄せた。
「なんだ? 何でも言ってごらん。先生に出来る事なら何でもするぞ」
「先生は学校の後、どこに行っているの?」
「どこにって……。うちに帰っているよ。自分の話で悪いんだけど、妻が身重でね。秋頃には、娘が生まれるんだ」
青山は頭を掻きながら、本当に嬉しそうに話した。だけど、それも嘘だと、僕には分かる。僕は全てを知っているのだ。
「今でも自分の子供が生まれるなんて信じられないけど、とても愛おしい気持ちだよ。先生もそうだったように、君も皆に愛されて生まれてきたんだよ。そして、これからもその愛は君を成長させてくれる!」
反吐が出そうだった。
よくもまあ、愛おしいとか、愛とか言えたものだ。未成年と不倫をしている癖に。
もう、いいや。
僕はもう青山の与太話を聞いているのが、嫌になった。それよりも早く、ツグミが望んでいた血の雨を降らせるべきだと思った。
「じゃあさ、先生——」
僕は、手にしていたスマホを青山に見せる。
「この写真に写っているのは、誰?」
「ん? どれどれ……」
青山は落ち着いた様子で、僕のスマホを見た。しかし、しばらくすると、動かなくなった。
口も開けたままで、まるで思考が追いついていない様子だった。でも、僕はそんな青山に追い打ちをかけるように、言葉を浴びせてやった。
「これって先生だよね? 一緒に写っているのは奥さん……じゃなさそうだね。随分と若く見えるけど。誰だろう?」
「な、何なんだい。この写真は……」
ようやく青山はわななく口で、言葉を漏らした。そして、小刻みに首を振りながら、後退る。
「せ、先生は知らないよ。こんな写真」
青山の動揺している様は、それが嘘であると物語っていて、僕は離れていく奴を追い詰めるように歩み寄っていく。
「ふうん。じゃあ、ネットにばら撒いても問題ないよね?」
「えっ……。ネットに?」
青山は足を止めて、スマホから僕へと視線を移した。その顔には、もう優しさは微塵もなく、恐怖と怒りが入り混じっていた。それが青山の本当の顔。ようやく悪魔が正体を現したのだ。
「僕は許せないんだ。嘘を吐く大人が」
「な、何を言っているんだい? 先生は嘘なんか吐いてない」
この期に及んでまだ嘘を並べる悪魔が、僕は酷く憎らしかった。しかも、奴は、僕に嘘を吐いているだけではなく、今から生まれようとしている子供にも嘘を吐いている。
やっぱり、いつも被害に遭うのは子供だ。この悪魔を絶対に許してはいけない。
そんな使命感に僕は駆られていた。
僕は青白い顔をしている青山から視線を落とし、スマホを見た。そして、画面を操作し始める。その様子を見て、青山は慌てた。
「な、何をしているんだ」
「今から、この画像をネットに流す」
「ちょ、ちょっと待て! そんな事をしたら——」
青山は咄嗟に手を伸ばし、僕の腕を掴んだ。その顔の必死さと言ったら、笑えるくらい情けなく、惨めそのものだった。
「そんな事をしたら、家族が……俺が……。頼むから、止めてくれ」
青山は泣きそうな顔で、哀願してきた。しかし、家族を貶めたのは自分だろう。同情の余地もない。
僕は冷たい目を青山に向けた。そして、見下す。
「先生。僕はあなたの事を一度も信じた事がなかった。でも、それで正解だったみたいだね。あなたは悪魔だった。さようなら」
「お、おい、待て!」
青山は乱暴に僕の腕を引いた。その力は必死故に手加減はなく、細身の僕は姿勢を崩し、奴と共に地面に倒れた。そして、その衝撃で僕のスマホは、地面の上を転がっていく。
「ああっ、ケータイ!」
叫んだのは青山だった。
奴は、僕がゆっくりと身体を起こしている間に、僕のスマホを追った。しかし、スマホを拾い上げた所で、奴はまた動きを止める。
「あ……ああ……」
青山は掠れた声を漏らした。地面に跪いて、しかし、それでは絶望を支えきれず、四つん這いになって項垂れた。
僕は青山に腕を引かれる直前、スマホの画面をタップして、例の写真をネットに投稿した。そして、奴は僕のスマホを拾い上げ、その投稿が完了している画面を見て絶望したのだった。
「なんて事をしてくれたんだ……。俺は、もう……」
大きかった青山の背中は、今は小さく、無様にも震えていた。いつもの力強さなどこれっぽちもなく、力なく項垂れ、情けなく声を漏らしていた。
ああ、何と惨めなんだろう。
しかし、同情はしない。むしろざまあみろ、と僕は思った。これは子供を騙し続けた罰だ。教師という聖職者でありながら、人の疾しさを捨てられなかった報いだ。
ただ一つだけ褒めるとすれば、潔く絶望を受け入れた事だろう。未練がましく言い訳を並べたり、低俗のように取り乱したりはせず、ただただ無様に絶望を嘆く。それが青山のなかで唯一、称すべき事だった。
でも、それで罪が軽くなったりはしない。奴は、未成年に手を出した最低の大人として、法で裁かれるだろう。
いや、それだけではない。教師という職業でありながら、しかも身重の妻がいるにも拘らず、元教え子に手を出したクズ野郎として、世間から批判を浴びせられるのだ。まるで凶器で血肉に切裂かれるように、鋭い視線と容赦ない言葉で、精神を切裂かれるのだ。
悪いのは、全て大人。
子供はいつも被害者。
それが世界の理ならば、僕がその悪を葬る。
僕は立ち上がると、項垂れている青山に歩み寄った。そして、頭上遥か高くから見下ろす。
「これで悪魔をひとり葬った」
僕が青山から視線を外し、屋上の出口へと向かおうとした時、雨粒が落ちてきた。さっきまで空は快晴だったはずなのに、急に雨が降り始めた。
僕はその雨に導かれるように顔を上げる。すると、空には赤黒い雲が広がっていた。そして、そこからは赤い雨が落ち始めていた。
「これは、血の雨?」
僕は赤い雨に打たれながら、そう言った。足元では、青山も血の雨に打たれていた。
世界はみるみる血で染められていく。
街も、人も、車も、嘘も、真実も全て。
そして、この雨を降らせているのは、青山だと思った。これは青山の精神が切り裂かれて、噴き出した血なのだ。
「ツグミ。血の雨が降ったよ」




