26.私(2)
いつか私は、妄想から目覚めるのだろうか。
あの無慈悲な現実へと戻るのだろうか。誰も私を見てくれないあの世界へ戻るのだろうか。
その不安と恐怖が、私の精神を切り刻んだ。
外では雨が降っている。
血の雨だ。
深夜の街を赤く染めあげる血の雨だ。その血は、私の血。私の精神が切り刻まれて溢れ出した血なのだ。
いつの間にか、私は頭を抱え、跪いていた。恐れに心身を折られ、血に濡れた精神が重く圧し掛かり、私を虐げていた。
私は、現実世界が怖くて、妄想世界へ逃げ込んだのだった。だから、ここでは私の思うままに時空が変化する。
だけど、精神の深層部では、私は自分自身を蔑んでいた。自分はまともじゃないと決めつけ、清い世界を汚す不純物であると思っていた。だから、私は、いつもこのような朽ちたコインランドリーにいたのだ。
薄暗くて、汚い、錆びついた空間。
ここにある全てが、汚れた私を象徴していた。まともじゃない私の精神を表現していたのだ。
何故、私はその事を忘れていたんだろう。正常でありたいと思う防衛反応が、私の感情を黒く塗り潰していたという事なのだろうか。私は、恐怖を恐怖で塗り潰し、それで自分を誤魔化していたんだ。最も憐れなのは、私だった。
世界は、もうこの汚れた空間だけを残し、全てが崩れ去っていた。それは私の意志に従ったのではなく、私の無意識化にある黒い情動が働いた結果だった。私は、このまま消えるべきなのかもしれない。目の前にいる「彼」と共に——。
彼は、跪く私を静かに見守っていた。一度も目を離さず、私を見ていた。自分だけは、君を認識できると言わんばかりに、私をその双眸で捉え、最期まで共にあろうとしていた。私は項垂れたまま、そんな彼に言う。
「世界は変わらないんだね。何をしたって、変わらないんだね。いつまでも、どこまでも、世界は私を認識してくれない」
今、私の目は何色に染まっているんだろうか。恐れの黒なのか、絶望を示す別の色なのか、それとも無の境地に至った無色なのか。
いずれにせよ、私の目に明るい色が点る事はない。私に希望はないのだ。
「ツグミ」
彼が呼んだ。私は項垂れたまま返事をする。
「何?」
すると、彼は優しい声で言った。
「世界は変わらないよ。どう足掻いたって、世界は変わらないんだよ」
それは彼の優しさだった。彼は憐れな私に同情して、慰めようとしてくれているのだ。私の無様を嘲笑する事も、悪戯に希望を抱かせることもなく、私に諦念を抱かせようとしているのだ。私にしっかりと現実を認識させる事で、消えゆく恐怖を取り除こうとしているのだ。それが彼の優しさだ。
私は目を閉じた。
目の前が真っ暗になり、不思議と心は穏やかになった。すると、これまでの様々が、その「黒」に溶けていき、無に返っていくような気がした。
大人を悪魔だと決めつけていた偏見も、人を消し去り続けた罪深さも、自分を神様だと思い込んでいた自惚れも、その全てが、私の中から溢れ出し、浄化していく。
今更、自分を許して欲しいとは思わない。だから私は、このまま消えて無くなる。唯一、私を見てくれた存在があるだけで十分。もし、その存在に名前を付けるとするならば——。
「ツグミ」
私の思考を遮るように、また彼が呼んだ。でも、私が目を開けないでいると、彼は優しく私の背中に触れた。
「ツグミ。まだ終わらないで」
それはどういう意味なのか。まだ終わらないで、とはどういう意味なのか。私には彼の思考も言動も、もう分からなくなっていた。
ただ彼が、私に現実を突きつけ、全てを諦めさせようとしているのだと思っていた。消えゆく恐怖を感じさせないように、絶望を受け入れさせようとしているのだと思っていた。
だけど、彼はまだ終わらないでと言った。それは、私にこのまま消えるのではなく、無慈悲な現実世界へと戻り、絶望を感じつつ、生き続けろという事なのだろうか。
それは、まるで罰だ。残酷で、無情な罰だ。
でも、私はそれを受け入れるしかない。何故なら、私は罪深き異常な子供なのだから。
「私は……君が戻れというのなら、罰を受け入れる。あの世界に戻るよ。まともじゃない私に選択する権利はないもん」
しかし、言葉を続ける彼の口調は相変わらず優しく、罰を言い渡すものではなかった。
「ツグミ、聞いて。確かに、世界は変わらない。現実はとても過酷なものかもしれない。だけどね、世界は君を置き去りになんかしない。世界は君を見捨てたりしない」
そんな事——と言い返そうと思ったが、声は出なかった。代わりに彼が続ける。
「世界は変わらない。でもね、人は変われる。君は変われるんだ。君が変われば、世界の見え方も変わる。見え方が変われば、今まで見えていなかった事が見えてくる。その中に、きっと君を見てくれている人がいるはずだよ」
私を見てくれている人……。
そんな人はいない、と思いつつも、真っ先に思いついたのは、母だった。
私のすぐ傍に居て、だけども最も私を見ていなかった人。
母はいつも私ではない、別の人を見ていた。それは、別れた父だったり、学校の担任だったり、新たな恋人だったりした。女として生きている母にとって、私は邪魔な存在でしかなかったのだ。
——だけど、本当にそうだろうか。
母は、大人の癖に、子供みたいに不器用な人だった。父に騙されて、でも信じて、また騙されて、また信じて、また騙されて……ようやく別れた。そのとき私は、まだ小学生だったから、母を馬鹿な女だとしか思わなかった。
だけど、母は父を信じていたのではなく、父から離れられなかったのかもしれない。私を連れて生きていく自信がなかったのかもしれない。だから、私のために母は父の傍に居続けた。騙される事を分かっていながら。
それだけではない。母は学校の担任の話を一生懸命に聞いていた。弱い頭を使って、どうにか私を学校に通わせようとしていた。私の気も知らず、どうにか学校へ行かせようとしていた。私はそれが腹立たしかった。
でも、思い起こしてみれば、母は私に一度も学校に行け、とは言わなかった。母は私に強要する事はなかったのだ。担任と話し込み、私が学校へ行ける環境を作ろうと努めていた。
母は、父と別れて、すぐに恋人を作った。裕福で、顔立ちが良く、優しい人だった。
でも、私はそんな母を軽蔑した。すぐ男を乗り換える尻軽女のような気がして、不愉快でならなかった。だから、私は母をたぶらす恋人も嫌いだった。母を奪っていったその男が憎らしかった。
でも、よくよく考えてみれば、母は疲れていたのだと思う。父に騙され、私に振り回され、何をやっても報われない母は、疲弊していたのだと思う。だから、男の優しさが心地よかったのだろう。それに、いつか母は言っていた。私に不自由な生活はさせたくないと。だから、あの男を選んだのだろう。裕福で優しい人を選んだのだ。
やはり母は馬鹿だ。父親代わりがいて、お金があれば、他は何もいらなくて、それで自由な生活が送れると思っていたのだろう。それで、私が幸せになれると思っているのだろう。つくづく母の稚拙さには呆れる。
だけども、母はずっと私を見ていた。私の見えない所で、私を見ていた。私がそれに気付けないでいただけ。
世界が私を見ていなかったのではなくて、私が世界を見ていなかったのだ。こんなにも傍に私を見ていた人がいたのに。
「私は……、私は……」
言葉にならなかった。やはり自分は罪深い子供なんだと思えた。私を見てくれていた人を蔑ろにしていた自分が悪人だと思えた。私はこのまま真っ黒の世界に堕ちていくべきなんだろう。いえ、むしろ、そのまま消えて無くなりたい。
しかし、暗闇に堕ちていく私の手を、彼が掴み、引き留めた。
「ツグミ、目を開けて」
瞼はとてもとても重たかった。その重みは、現実を見たくないという私の弱さであり、恐れだった。
しかし、彼の手は、優しく、その優しさは、私の瞼を幾らか軽くしてくれた。だから、私は目を開けることが出来た。
初めに見えたのは、顔を覆っていた自分の手だった。小さくて、色白で、華奢で頼りない手だった。その手首には、幾つも傷が並んでいて、とても痛々しい。そして、その傷こそ、私の惨めさを象徴していた。
私は、自分を傷つける事でしか、人の目を集める術を知らなかった。死にたいと言いながら死ぬ事を恐れ、私は人の注目を集めたくて、誰かに構って欲しくて、手首を切っていた。
だけど、そんな事では誰の注目も集める事は出来なかった。皆、私を異常な子供と見放し、恐れ、軽蔑した。だから、私はこの手も、この傷も、嫌いだった。
だけど、今は、そんな傷だらけの手を掴む、力強い手があった。
それは「彼」の手だ。
私の創造物であり、この妄想世界で生きる「名も無き少年」である彼は、優しくも力強く、私の手を握っていた。そして、私の手を見て言った。
「ツグミ。君の手は優しい」
「私の手が……優しい……?」
私の傷だらけの手は、憎しみと恐怖と血に濡れていて、醜くて、優しさとは程遠かった。だけど、彼は優しいと言った。この手で、優しさに触れる事も畏れ多いのに、優しいと言った。自分でも信じられなかった。でも、そんな傷だらけの手だけども、しっかりと彼の熱は伝えてくれた。
「あったかい……」
彼の優しい手は温かかった。その温かさは、この薄暗く、汚れた世界を浄化してくれるような気がした。冷え固まってしまったこの世界を、私を、優しく溶かしてくれるような気がした。
「ツグミ。君も、あったかいよ」
「私もあったかい?」
「ああ、そうだ」
彼は頷くと、私の手を握り直し、指を絡ませた。それにより、一層彼の熱が私の中に入ってきた。そして、私の熱も彼の中に入っていくような気がした。
それは、水と油が交じり合う異常な現象ではなくて、元々同質だったものが、融合し、一つに戻っていくような感覚だった。もしかしたら、彼と私は——。
そう思った時、また彼の声がした。
「ほら、周りを見てごらん」
彼に言われるまま、顔を上げて、周囲を見渡してみると、それまで朽ちたコインランドリーにいたはずなのに、周囲は真っ白の何もない空間へと変わっていた。
「ここは……?」
私が呟くと、彼はすっと私に身を寄せ、耳元で囁いた。
「もうすぐ世界は終わる。でも、何も恐れる事はないよ。僕らは一つになれたんだ。だから、もう自分を、人を、信じてもいいんだよ」
「一つになれたって……どういう事?」
彼は答えなかった。代わりに、彼が私のなかに入り込んでくるような感覚がした。
私と分離していた、もう一人の私が、私のもとへ返って来る。
そんな不思議な感覚が、私を包んだ。そして、少しだけ長く瞬きをしている間に、彼はいなくなっていた。
真っ白の世界で、私はひとりになった。何もなく、時間もなく、全てが無の世界で、私はひとりで膝をついていた。でも、項垂れる事はなく、顔は上がっていた。前を向き、その先にある何かを真っ直ぐに見ていた。
この先には、私の人生が続いている。
そんな気がした。
私はゆっくりと立ち上がった。そして、見詰める先へと歩き出す。
この先に辿り着けるのは、一体いつになるのか分からない。
でも、不思議と不安はなかった。
恐怖もなかった。
あるのは、この先にいる誰かに会いたいという願いのみ。
そう。この先には、私を見てくれる人たちが待っている。
私の歩む先で——。




