24.僕(3)
外は暑かった。昼間の日差しは容赦なく僕を照らし、それはまるで異常者を探し出すサーチライトのようで、それに照らされた僕は、もう逃げ場がなかった。
僕はまともな子供だった。そのはずだったのに、いつの間にか異常な子供になっていた。
他人を疑い、世界が歪んで見えた。
僕はどうなってしまったのだろうか。
僕は街を彷徨った。もう逃げ場はないと、分かっていながらも、どこかに僕の逃げ場があるのではないかと探していた。
でも、やはりどこにも僕の逃げ場はなかった。美しい街は、僕を淀んだ油のように分離させ、その存在を際立たせて、見世物にしていた。そして、そんな僕に、街行く人々は、容赦なく軽蔑の視線を向けた。
アイツが悪魔だ。
アイツを排除しろ。
僕は怖くなって、駆け出した。
世界は僕を排除しようとしていた。僕はそれからどうにか逃れようと、走り続けた。
そして、何かに導かれるようにとある場所に辿り着く。
そこは、かつて郵便局があった脇の細い路地で、そこには、朽ちかけたコインランドリーがあった。
僕はそのコインランドリーを知っていた。初めて訪れる場所なのに、何故か何度も足を運んだような気がして、そこが唯一、僕の居場所なんだと思った。そして、そこで彼女が僕を待っている。そんな気がした。
一歩、コインランドリーへ近づくと、僕を呼び止めるように雨が降ってきた。
赤い雨だった。
その雨粒に促されて、空を仰げば、赤黒い雲が広がっていて、そこから血の雨が降っていた。
鮮やかな赤の雨。
鉄臭さを残しつつ、美しさすら感じさせる血の雨。
しかし、これは誰の血なんだろう。そう思って、頬に付いた血を舐めてみると、ほんのりと甘さを感じた。その甘さが、誰の血であるのかを物語っていた。
僕は、しばし血の雨に打たれた。その間に、時は激流の如く進み、あっという間に深夜になった。
でも、僕は不思議には思わなかった。何故なら、僕は全てを思い出したからだ。
そう。ここは彼女の妄想の世界だった。
この世界では、彼女の意志に従い、時が進んだり、遡ったりする。また、空間も関係なく、無かったものを急に出現させたり、逆に在ったものを消滅させたりすることが出来る。
更に言えば、空間を切り離し、別の空間と繋ぎ合わせる事だって可能だ。ここでは、彼女の意志が全てなのだ。
僕はひとしきり血の雨に打たれてから、コインランドリーのなかへ入った。
コインランドリーには、白いワンピースを着た少女がいた。彼女は、華奢なサンダルを足で遊ばせながら、朽ちた洗濯機に寄り掛かっていた。そして、僕に気付いて微笑む。
「待ちくたびれちゃったよ」
彼女はいつものように楽しげで、悪戯で、幼くて、色のない目をしていた。僕は、その可憐さと残忍さの対比に圧倒され、直ぐには言葉を返せなかった。すると、何も言わない僕を見兼ねて、彼女が言った。
「もしかして、私の事忘れちゃった?」
忘れるものか。
僕は、彼女の事を忘れたくても忘れられない。例え、世界を何度やり直したって、僕は彼女の事を忘れる事が出来ない。それ程僕にとって、彼女の存在は巨大だった。
「ツグミ。久しぶりだね」
僕が言うと、ツグミは白い歯を見せた。
「久しぶり。ちゃんと覚えていたんだね」
「うん」と僕は頷き、言い加える。
「君に会いたかったんだ」
すると、ツグミはいつものように鼻梁に皺を寄せて笑った。
「私に会いたかったって……もしかして、君、私の事が好きなの?」
どうだろう、と考える間もなく、僕は頷いた。
「たぶん、そうだと思う」
ツグミは、僕の言葉を聞いて、腹を抱えた。
「にゃはは! もしかして、私、告白されてんの? ウケるー!」
それから彼女は、いつものようにコインランドリーのなかを徘徊し始める。
「ねえ。人は、どうして他人を好きになると思う?」
またツグミの意味不明な話が始まった。でも、僕は彼女のそんな話が好きだった。彼女の言葉は、いつも僕を救いへと導いてくれる。彼女の言葉は、僕にとってお告げのようなもので、まさに神の声だった。だから、僕は真面目に考えて答える。
「本能なのかな? 命を繋ぐための」
「なるほど、本能か……」とツグミは呟きながら少し進み、コインランドリーの隅にあった洗面台の前で足を止めた。
洗面台には、小さな鏡が付いて、その曇った鏡に、彼女の小さな顔が浮かび上がる。
「もし本能だとしたら、好きになる相手なんて、誰でも良いよね。ブスもイケメンも、金持ちも貧乏も、良い人も嫌な人も、経歴も、年齢も、性別も、人種も、何も関係ないよね。だから、その辺にいる人を適当に捕まえて、そのまま結婚すれば良いわ。それか、誰か偉い人に決めてもらって、適当な人と結婚すれば良いわ。それで子供も作ってさ。そうすれば、皆、幸せよ。——だけど、人は、それをしない。なるべく可愛くて、カッコ良くて、自分を理解してくれる人を求めるわ。馬鹿みたいに」
鏡に映るツグミはもう笑ってはいなかった。ずっと前だけを向いていて、鏡に映るの自分を睨んでいた。
「人ってさ、皆自分の事が嫌いなのよ。自分では自分を満たす事が出来ないの。だから、他人を求めるの。他人に自分を満たして欲しくて、誰かを好きになるの。お互いにね。でも、それって、まるで傷の舐め合いよね。ホント、他力本願も良い所だわ。人って、軟弱で、惨めよね」
それは誰に言っているのだろうか。
たぶんツグミは、僕に話をしている。でも、彼女は真っ直ぐに鏡を見詰めていて、それはまるで、自分自身に語り掛けているようだった。
「だからさ、君が私の事を好きになるのも、ただ自分を満たして欲しいからなの。自分の傷を舐めて欲しいだけなのよ。それは君が悪いんじゃなくて、人ってそういう生き物なの」
ツグミの言葉は、やはり意味不明だった。だけども、その言葉の一つひとつは、重たくて、途轍もない質量を持っていた。だから、僕の心は激しく揺さぶられる。
「僕は……君に何を求めているんだろう……」
たぶん僕は、ツグミに救いを求めていた。世界が僕を軽蔑し、受け入れてくれなくても、彼女だけは僕を理解してくれる。そう思っていた。そう確信していた。だから、僕は彼女の事が忘れられないし、彼女に会いたいと思った。そして、それは悪い事ではなく、人としての性であると、彼女は言った。
だったら——。
「ねえ、ツグミ……」
「なあに?」
「どうして君は、この世界を創ったの?」
僕が聞くと、ツグミはようやく鏡から視線を外して僕を見た。その顔は、ほんのりと笑っていて、彼女は髪を揺らし、首を傾げた。
「さあ? 気まぐれかな」
僕には何となくだけど、それは嘘だと分かった。彼女は何かを求めて、この世界を創った。この世界に、彼女は何かを求めていた。それが何なのか……。
僕が黙り込むと、ツグミはまた歩き出した。今度は無秩序に徘徊するのではなく、ゆっくりとだけど、僕に歩み寄ってきた。
「この世界ももう退屈ね。君なら、どうにかしてくれるって思ったけど、そうじゃなかったみたい。もうやめにするよ」
ツグミの幼い声と高い足音が、深夜のコインランドリーに響いた。僕はそれを耳鳴りのように聞き、かぶりを振って払う。
世界が終わる。
でも、世界はまた始まる。
新しい世界となって、また始めからやり直すのだ。だけど、その繰り返しに、一体何の意味があるのだろうか。彼女は妄想の世界を繰り返して、何を得たいのだろうか。
僕は懸命に自分の内から、その答えを探し出そうとした。でも、僕の内にその答えはなかった。だから、今度はツグミの言っていた言葉を思い出した。でも、そこにも答えはなかった。何故なら彼女は、一度も本心を口にした事がないからだ。
僕は目を閉じた。目を閉じると、何かが分かるような気がした。それは根拠のない、それこそ妄想のような考えだけど、暗闇の世界で、僕は何かが見つかるような気がした。
暗い。
黒い。
何もない。
その漆黒の世界は、無に等しい。だけども、無ではない。確かに情報量は少ないけれど、それは全てが消え去った訳ではない。この「黒」の中に、何かがある。
胸がざわついた。
ツグミが目の前に立ったのだ。でも、僕は目を閉じたまま、「黒」の意味を探した。
「ねえ、怖い?」
ツグミの声が間近で聞こえた。でも、僕は答えなかった。彼女の言う通り、確かに怖かったけれど、何も言わず、黒の意味を探す事だけに努めた。
「ねえ、怖いの?」
ツグミがもう一度聞いた。その声は、相変わらず美しい響きだけれども、残酷で、冷たい。楽しそうなのに、苦しそう。
そして、彼女の言った「怖い」という言葉は、僕の見ていた黒の世界に雫となって零れ落ち、波紋を生んだ。
しかし、その雫も「黒」であり、波紋は直ぐに収束し、溶けていってしまう。
怖い。
黒い。
僕は、胸中でそう呟き、溶けていった言葉をどうにか手で掬いあげようとしてみた。しかし、掬ったものは、全てが黒一色で、どこに彼女の言葉があるのか分からなかった。でも、僕はその黒を見て、ある事に気付いた。
「黒」に溶けていった「怖い」。
それはつまり、両者が同質であるという事だ。
黒いは、怖い。
怖いは、黒い。
ああ、そうか。そう言う事なのか。
彼女はずっと——。




