23.僕(2)
目が覚めて、リビングに下りると、母が朝の情報番組を流しながら化粧をしていた。
「あら、今日も早いわね」
キッチンに目を移せば、泰弘さんがコーヒーを淹れていた。
「おや、起きたのかい? 今日も会えて良かったよ」
いつもの朝だった。
何も変わらない、爽やかで、清々しい朝だった。
でも、何だろう。
何故か、胸騒ぎがする。
昨夜見た夢のせいだろうか。
ツグミという少女が僕を見下ろしていて、楽しげに笑っている夢だ。でも、その楽しげな表情とは裏腹に、彼女の目に色はなかった。真っ黒で、一切の感情がなく、全てを呑み込むブラックホールのようだった。
きっと、彼女の前では、感情も、空間も、時間さえもが無意味で、全ては、存在しない妄想なんだと思った。ならば、彼女に呑み込まれた諸々は、一体どこへ行っているのだろうか。
「コーヒー飲むかい?」
僕は泰弘さんの低い声とマグカップに入れられたコーヒーの豊かな香りで、妙な思考から切り離された。
「ああ、う、うん。コーヒー、ありがとう。でも、今日は、砂糖もお願いします」
「おや、珍しいね。いつもはブラックなのに」と、泰弘さんは言いながら、コーヒーに砂糖を溶かしてくれた。
泰弘さんの淹れくれたコーヒーは、それ程高価なものではないのだけど、淹れ方が上手いおかげか、とても良い香りがした。
そして、一口含めば、豊かな味わいが口の中に広がり、後から追いついてきた優しい甘みが、それを引き立ててくれる。
やはり泰弘さんの淹れてくれたコーヒーは、美味しかった。
でも、何故か今日は、素直に「美味しいね」とは言えなかった。何となくだけど、泰弘さんの顔が気取ったように見えたのだ。
コーヒーを無言で飲み終えると、今日も僕は早めに家を出た。泰弘さんに見送ってもらいたいという思いと、2人の中を邪魔したくないという気遣いだ。
でも、よくよく考えてみれば、なんで僕が2人に気を遣わなければならないのだろうか。
元々、僕と母が2人で暮らしていて、そこに泰弘さんが入ってきたのだ。後から入ってきた人が、先にいた人を気遣うのが道理だろう。
そもそも、僕は2人にとって邪魔な存在なのだろうか。大人にとって、子供は邪魔者なのだろうか。
いや、こんな事、まともな子供である僕が考える事じゃない。
僕は湧き上がってくる異常な思考を振り払ってから、爽やかな初夏の街を歩き出した。でも、今日の僕は街から浮いていた。
学校に着くと、いつもの如く、仲の良い女子生徒が歩み寄ってきた。
「おはよー。今日も早いわね」
「まあ、早く目が覚めたからね」
「ふうん、そうなんだ。もしかして、眠れてないの? 悩みでもあるとか?」
「いや、そういう訳じゃないんだけど……」
「じゃあ、何なの?」
「それは……」
答えられなかった。いや、答えたくなかった。ツグミという少女の夢を見たという話をしたくなかったのだ。
彼女とツグミは関係ない。それに、彼女が僕を気遣っているのは、自分をよく見せたいという自尊心からだ。人は誰だって、周りから良く思われたい傲慢な生き物なのだ。
「ごめん……。ちょっとトイレに行くよ」
僕は湧き上がってくる憤りに気付き、席を立った。彼女はそんな僕を心配そうに見上げたが、僕は目を合わせようとしなかった。
そういえば、彼女は、なんて名前だっただろうか。
朝のホームルームになると、青山先生がいつものように圧倒的な爽やかさを纏って、教室にやってきた。
「皆、おはようー!」
クラスメイトらも姿勢良く、青山先生を迎え入れる。
「先生、おはようございまーす!」
だけど、何故か、僕は青山先生を迎え入れようとは思えなかった。いつもは、僕も青山先生を素直に迎え入れるまともな生徒だったが、今日は気持ちが乗らなかった。
そして、そんな僕の異変に気付いた青山先生は、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「ん? どうした? 浮かない顔して」
青山先生が僕の席の前に立って、にこやかに見下ろした。その眼差しは、憂いと優しさに満ちていた。
しかし、僕を気遣うのであれば、屈んで視線を合わせるべきだろう。そうしない所が、如何にも子供を見下している大人らしい。
「何もないです」
僕が首を振ると、青山先生は、馴れ馴れしく、僕の肩に触れた。
「何もないって事はないだろう。先生や皆に相談してみな。皆、君の力になりたいんだよ。仲間だろう?」
しかし、今は青山先生のそんな馴れ馴れしい態度が鬱陶しかった。
青山先生は、僕を気遣ってくれている。それは分かる。でも、その厚意は、何となく安っぽくて、軽薄な感じがした。だから、僕は腹が立った。
「何もないって言ってるだろ!」
手を払い除ける乾いた音と僕の怒声が響き、一瞬で教室内の空気が凍り付いた。
それまで、にこやかだったクラスメイト達の表情は固まり、皆、唖然とした。
そして、その寒暖差を感じて、僕はようやく自分が怒鳴ってしまった事に気付く。
「あっ……。ごめんなさい……」
僕は慌てて謝罪した。でも、もう遅かった。皆の僕を見る目は、怯えていて、尚且つ軽蔑していた。
僕はまともな子供のはずだった。いつも穏やかで、いつも皆に愛され、皆を愛している健全な子供のはずだった。だから、僕が周囲へ怒りを向ける訳がなかった。それなのにどうしてこんなにも苛々するのだろうか。きっと、今日の僕はどうかしている。
「……保健室へ行ってきます」
僕は静かに席を立った。それを見た青山先生は、掠れた声で「そうだな」と言った。でも、僕には、「お前は、まともな子供じゃない」と言われているような気がした。
保健室には、ケイコ先生がいた。ケイコ先生は、デスクに向かって、何か仕事をしていた。でも、扉が開く音に気付くと、すぐに手を止め、振り返って微笑んだ。
「あら。どうしたの?」
ケイコ先生は、今日も色っぽかった。緩く巻かれた長い髪が艶っぽくって、隙のない化粧が大人っぽくて、組まれた脚が官能的だった。
でも、僕はそれを見ても、高揚する事はない。むしろ嫌悪感を抱いた。
ケイコ先生が色っぽいのは、健全な子供を騙すためだ。子供を騙して、「悪魔」に差し出すためだ。
ん? 悪魔ってなんだ?
僕は不意に連想された「悪魔」という言葉に思考が逸れた。
悪魔とは、一体何の事だろうか。
かつて、僕はそれを何かに定義づけ、戦っていた。誰かと悪魔を葬るために戦っていた。
でも、誰と?
僕の頭の中には、普段ならば考えないようなことが広がっていた。それはもはや妄想で、僕はそんな異常な妄想に支配されそうだった。しかし、ケイコ先生が歩み寄って、僕の肩に触れた事で、それは一旦途切れる。
「どうしたの? どこか具合悪いの?」
ケイコ先生は、何も言わずに顔を青白くさせている僕を心配していた。でも、僕には、その気遣いも嘘だと思えた。
ケイコ先生は、僕を悪魔に突き出そうとしている。
しかも、それは、単なる思い込みでなく、過去にケイコ先生に裏切られたという確信が、僕にはあった。
「先生……」
僕は、ケイコ先生が急に憎らしくなった。いや、ケイコ先生だけではない。大人——いや、それも違う。世界全てが憎らしく感じた。だから、僕は憎たらしい悪魔を罵倒しようと思った。
「あのさ——」
だけど、言いかけて思い留まる。
今、僕がケイコ先生に否定的な発言をする事は、まともな子供のやる事ではない。僕はまともな子供で、大人に従順な、清い子供なのだ。だから……。
何も言わなくなった僕を見て、ケイコ先生は優しく顔を近づけた。
「少し休んでいくと良いわ」
でも、僕は首を振った。
「いえ、いいです。大丈夫なんで……」
今、ケイコ先生と一緒にいれば、自分でも何をやってしまうのか分からなかった。もしかしたら、妄想に呑まれて、ケイコ先生を傷つけてしまうかもしれないし、最悪の場合、殺してしまうような気もした。
「教室に戻ります」
「あら、そう……。でも、無理はしちゃ駄目よ」
「……はい」
僕は、頷き、踵を返した。でも、教室には戻らず、何かから逃げるように学校を出た。
僕は自分自身が怖かった。




