22.僕(1)
目が覚めてリビングに下りると、母が朝の情報番組を見ながら化粧をしていた。
「おはよう。今日は随分と早いのね」
母は僕を見て柔らかく笑うと、また手鏡に向き直って口紅を引き始める。すると、今度はキッチンの方から声がした。
「おや? 起きたのかい。今日は会えないかと思っていたんだけど」
声の方へ視線を移すと、誰かがいた。その人物は、背が高くて、知的な顔立ちをしている男性だった。
「泰弘さん、来てたんですね」
僕が言うと、母の恋人である泰弘さんは、コーヒー豆を挽きながら低い声で笑った。
「はっはっは。随分と他人行儀だなぁ。もうすぐボク達は、親子になるんだから、気楽にして良いんだよ。——コーヒー飲むかい?」
「は……うん。飲むよ。でも、母さんには手伝わせないでね」
僕がそう言うと、口紅を引いていたはずの母が膨れっ面で割り込んでくる。
「ちょっと、それってどういう意味!?」
「母さんのコーヒーは甘過ぎるんだよ。母さんが手伝うと、泰弘さんが淹れてくれた美味しいコーヒーが台無しになるじゃないか」
「何よ、それ! 酷くない? ね、泰弘さん」
「ん? そうだねぇ。でも……言う通り、正代のコーヒーはちょっと甘いかも」
「ええー! 泰弘さんまで! もうっ!」
母が子供のように頬を膨れさせると、リビング内に笑いが湧いた。
「はっはっはー。ごめん、ごめん。冗談だよ、冗談」
泰弘さんは、知的に笑いながら、マグカップを食卓へと運び、そのまま不貞腐れている母へと近づいた。そして、母を背後から優しく抱いて、囁く。
「甘いのは、ボクらの関係だけで十分さ」
「もう……泰弘さんったら……」
母は、泰弘さんの甘い言葉に頬を染め、目を伏せた。僕はそんな二人を見て、肩を竦ませる。
「やれやれ。朝からおアツいね。見てるこっちが恥ずかしくなるよ」
そして、泰弘さんが淹れてくれたコーヒーを啜った。
「あっつ!」
泰弘さんが淹れてくれたコーヒーも、ふたりのように熱々だった。
今日は、泰弘さんに見送ってもらいたくて、早めに家を出た。
いつもより時間が早いせいか、外はまだ気温が上がりきっておらず、幾らか涼しさがあった。街を抜ける風も心地良く、真新しい街並みの美しさを、より引き立てていた。僕はそんな美しい街に溶け込み、学校へと向かう。
学校に着くと、教室には既に何人かクラスメイトが登校していた。その中でも、とりわけ仲の良い女子生徒が、僕に歩み寄ってくる。
「おはよー! 今日は随分と早いのね」
「おはよう。今日は、母さんの彼氏が来ててね、それで邪魔しちゃ悪いから、早めに家を出たんだよ」
「ふうん。あなたって、意外と気遣いが出来るのね」
「意外と、とは心外だな。僕は、相手の心情を読むのが得意なんだよ」
「どうかしら?」と彼女は、口を尖らせる。そして、「私の気持ちは、分かってない癖に」と小さな声で言い加えた。でも、僕は聞き取れず、野暮にも聞き返す。
「ん? 何? 今、何て言ったの?」
「知らなーい!」
彼女はそう言って、背を向けてしまった。鈍感な僕は、そんな彼女を見詰めながら首を傾げる。
「変なの」
少し時間が進み、生徒らが続々と登校してくると、教室内は徐々に賑わっていった。そして、朝のホームルームの時間になると、賑やかな教室に、爽やかな声が響き渡る。
「皆、おっはようー!」
それは担任の青山先生の声で、その逞しい声は、聞いているだけで力が漲った。
きっと青山先生は、生徒らを心から愛し、尊敬している。先生は、まだ若いが、人望が厚く、まさに教師の鑑のような人だった。
「よーし! 今日も、全員来ているな! 皆、偉いぞー!」
「学校に来るだけで偉いって、ちょっと大袈裟じゃないですかー?」と誰かが言うと、青山先生は、大らかに笑って答えた。
「はっはっは。そんなことないぞー。学校に来る事は、偉い事だ。でも、無理はするなよ。辛い時は、先生や仲間を頼るんだ。きっと皆が力になってくれるからな!」
青山先生の話は、いつも希望に満ちていた。それを綺麗事だと笑う者もいるが、僕の心には良く響いた。僕も大人になったら、青山先生のような立派な人格者なりたい。
僕は学校が好きだった。クラスメイトは、皆、仲良く、勿論虐めなどもない。先生たちも生徒らに優しく寄り添ってくれるし、保健室のケイコ先生なんかは、色っぽさがあって、男子生徒たちの憧れの的だった。
僕はいつも充足感に満ちていた。常に幸福を感じていて、不幸とは無縁の世界で生きていた。
しかし、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうように、瞬きをする間に、時は流れ、すぐに放課後になった。
「ばいばーい」
クラスメイトらが、それぞれの帰路に就いていく。僕も帰り支度を整えて、学校指定の鞄を背負うと、クラスメイトらと別れの言葉を交わし、教室を出た。
外は暑かった。初夏の夕方は、まだ昼間のような暑さを残していて、その暑さは、僕を冷房の利いたコンビニへと誘った。
コンビニに入った僕は、そのままアイス棚へと直行し、品定めを始める。
「今日は、抹茶の気分かな……」
すると、突然、背後から声をかけられた。
「よっ! 久しぶりだな」
振り返ってみると、昨年母と離婚した父が立っていた。
「あっ、父さん! 久しぶりだね」
僕が驚いた顔をすると、父は、顔に柔らかな皺を刻んで言った。
「ああ、いつぶりだろうな。最後に、母さんと会ったのが、春頃だから……3か月ぶりくらいかな?」
僕は父を見上げながら、首を振る。
「あの時、僕は、学校の球技大会に行ってたから、もう半年ぶり位だよ」
「もうそんなになるかー」と、父は目を丸くして、大きくなったたぬき腹を擦った。僕はその腹を訝しく見詰めて聞く。
「父さん。もしかして、また太った?」
「まあ、少しな。2,3キロくらいかな?」と父は答えたが、目は泳いでいた。だから、僕にはそれが嘘であると簡単に分かる。
「ううん、10キロは増えているよ。きっと」
僕が手厳しく指摘すると、父は豪快に笑い、今度は両手で腹を擦った。
「がっはっはー! こりゃ、参った。お前に隠し事は無理かー。たぶん、13キロは太ったな」
「やっぱりね」と、僕は呆れ顔で肩を竦める。
父は良く嘘を吐く。でも、父の吐く嘘は、どれも些細なもので、且つ、愉快な嘘だった。誰も傷つかず、誰も不利益を被らない。むしろ、父はそれで笑いを取っていた。だから、父の周りには、いつも笑いが絶えなかった。
そんな父の口癖は、「俺はビッグになる」だった。
「それで父さんは、文字通り『ビッグ』になれたんだ?」
僕が皮肉って言うと、父はまた豪快に笑った。
「がっはっは! ああ、これで体もビッグになれたという訳だ。会社の方もな、この街で新しい事業を始めようとしているんだよ」
「なるほどね。会社もまた一段とビッグになるんだね」
「ああ、そうさ。でも、まだまだ父さんはビッグになるぞー!」
父は、ここがコンビニである事を忘れているのか、意気込んでそう言った。
「でも、体の方は、ほどほどにね」
「そうだな。がっはっはー!」
幸い、コンビニ店内には、僕たち親子だけしかおらず、でも、レジに立っている店員は、少々迷惑そうな表情を浮かべていた。
その後、僕は父に高価なアイスを買ってもらい、ついでに母の分までお土産として持たされた。
家に帰ると、母と泰弘さんがキッチンに並んで、料理をしていた。僕はお土産のアイスを冷凍庫に仕舞いながら、そんな二人を、親しみを込めて茶化す。
「ただいま。——ていうか、なんでわざわざこんな狭いキッチンで、並んでいるのさ。泰弘さんの広い家で並べばいいだろう」
すると、サラダを作っていた泰弘さんが、手を止めて諭すように答えた。
「お帰り。——広ければ良いってもんじゃないんだよ。広すぎる家は、家族の距離を遠ざける。だから、これくらいが丁度良いんだよ。それに、正代とも触れ合えるしな」
「ふうん」と僕が答えて母を見ると、母は乙女のように頬を染めていた。
「もう、泰弘さん。何言ってんのよ。恥ずかしいじゃない」
「恥ずかしがる事はないさ。両親の仲が良いと、子供は健全に育つ」
「んもうっ」と恥ずかしがる母は、鍋に大量の砂糖を投下した。たぶん、母はカレーを作っている……。
出来上がったカレーは案の定、母好みの激甘だった。しかし、眉を顰める僕に対し、泰弘さんは、にこやかだった。
「うん。甘さが優しくて、美味しいね」
「そう?」
「そうさ。ボクは、正代の料理が大好きなんだよ。どれも甘くて、優しい味だよ」
泰弘さんは、優しくて、知的で、背が高く、裕福な人だった。でも、それで驕ったりはせず、むしろ謙虚で、手作り料理や庶民的なものを好んだ。だから、豪華な自身の家に、僕らをあまり呼ばず、母に用意した「普通」の家によく足を運んだ。
夕食を終え、後片付けを済ませると、泰弘さんは仕事があるからと言って帰っていった。
母は名残惜しそうに見送っていたが、泰弘さんは、また明日も来ると言ったので、僕は笑って見送った。
泰弘さんが帰ってから、すぐに母は泰弘さんへメッセージを送っていた。正直、そんな母を寂しがり屋の子供のように思うが、それだけ人を愛せるのだと思うと、少しばかり羨ましくも思った。
いつか僕も、母や泰弘さんのように、誰かを愛する事が出来るだろうか。
そんな日を夢みて、僕は風呂に入った。
湯船に浸かると、1日の疲れが溶けだしていくようだった。でも、それは、淀んだ汚水のような疲れではなく、充実した時間を過ごしたという満足感だった。
そして、今日1日を楽しく、有意義に過ごせた事に感謝する。皆、親切で、優しく、僕を愛でてくれる。僕はなんと幸せ者なのだろうか。
風呂の後は、僕ひとりの時間が始まる。牛乳を一気に飲み干し、母に「今日もありがとう」と感謝を伝えてから自室に籠るのだ。
でも、すぐに床に就くのではなく、今日、学校で学んだ事を復習したり、明日の予習をしたり、友人にメッセージを送ったり、読書をしたりと、寝るまでの時間も有意義に過ごす。そして、ストレッチなどで体を解してからベッドに入る。
柔らかなベッドに身を沈めて、目を閉じれば、決まって1分以内で眠気は訪れる。僕はその眠気に抗う事はせず、穏やかに意識を遠ざけていく。静かに、そっと、明日へ意識を送るのだ。
きっと明日も、これからも、これまでがそうだったように、僕は周囲を愛し、美しいものを美しいと感じられる「まともな子供」として、生きていくのだ。それは揺るぎない未来であり、事実だ。
でも、時々、思う事がある。
僕は、何かを忘れている。
それが何なのかは分からない。まるで、ここではない世界に、大事なものを置いてきたような、焦りのような、恐れのような、そういう不思議な感情を抱く。
そして、そういう時は決まって、あの名前が思い浮かぶ。
ツグミ。
それは誰の名前だっただろうか。




