21.悪魔(3)
「僕の名前……僕の名前は……」
思い出せなかった。
自分の生い立ちは、思い出せるのに、どうしても自分の名前だけが思い出せない。
母は、僕をなんて呼んでいただろうか……。わからない。
でも、そんな事ってあるのだろうか。記憶喪失でない限り、自分の名前が思い出せないなんてことがあるのだろうか。
いや、違う。
僕は名前が思い出せないんじゃなくて、自分の名前をそもそも知らないのだ。もっと言えば、僕には元から名前がなかった。
雨は止み始めているのに、僕の額には水滴が流れていた。それは僕の汗で、焦燥や混乱が僕を支配し、自分自身が分からない恐れが鼓動を乱していた。
「僕は……僕は……名前がない?」
「そうそう。そうなの。君だけはね、名前を付けなかったの」
彼女は、そう言って、あたかも自分が、世界の名付け親であるような顔をした。自分は、世界の創造者で、自分は全ての生命の根源であると言っているようだった。
「君はね、特別なの。顔が可愛いっていうのもあるんだけど、君ならきっと、私の求めるような面白い世界を創ってくれるんじゃないかって、期待してたの。だから、名前を付けなかったの。——ほら、名前を付けるとさ、情が湧いちゃうじゃない? そしたら、いらなくなった時に捨てにくくなるからさ」
彼女に情なんてあるのだろうか。あの色のない目には、一度も感情が宿らなかった。彼女は簡単に誰だって、まるで物のように、切り捨てる。彼女に罪悪感はない。何故なら、彼女以外のもの全てが、妄想で架空の創造物だからだ。
「君は……神なのかい?」
僕がわななく口で聞くと、彼女は噴き出した。
「ぷぷっ。そんな大それたものじゃないよ。まあ、でも、しいて言えば、それに近いのかもね。あっ、でも私は女の子だから、女神様かにゃー?」
いいや、彼女は神でも女神でもない。
きっと彼女が悪魔だったのだ。
自分の思い通りに世界を操り、人々を死に向かって走らせる悪魔だったのだ。誰も報われない世界を創造していたのは、彼女自身だった。
「さーてと。もう君にも飽きたから、次の新しい世界を創り直すよ」
彼女にとって、世界の創造とは、ゲームのような感覚で、失敗したらやり直せばいい。気に入らなかったら削除すればいい。僕らにとって、世界はここしかないけれど、彼女にとって、ここは妄想の一部でしかないのだ。
彼女は、また傘から出て行った。雨はもう止んでいた。空は漆黒で、彼女の目も漆黒で、それらはまるで、この世の終焉を示しているようだった。
僕は、どうなってしまうのだろうか——そんな事も思わなかった。世界はきっと無に返り、また新たに始まるのだ。もしかしたら、世界はそうやって何度も何度もやり直して、回ってきたのかもしれない。やはり僕は、風景の一部でしかなかった。
「ねえ、最後に教えて欲しい事があるんだけど」
「ん? 何かにゃー?」
「君の名前……君の名前を教えて欲しいんだ」
「私の名前?」
彼女は楽しげな表情のまま、首を傾げた。そして、色のない目で僕を見詰めて答える。
「私の名前は、ツグミ」
ああ、そうか。
そうだった。
彼女の名前は【ツグミ】だった。
僕のクラスメイトで、深夜に僕を呼び出した少女。
いつもぶっ飛んだ話をしていて、まともじゃない子供。
その少女が、この世界を創り、この世界を消し去る。
ツグミ——。
それは、悪魔の名前だったのだ。
「じゃあ、バイバイ」
ツグミが僕に手を振った。僕は振り返す事も出来ず、それを呆然と見ていた。
このあと、世界が終わる。
世界はどんな風に終わっていくのだろうか。そんな事を冷静に考えている自分が少しだけ恐ろしかった。
ふと、ツグミの言っていた「輪廻転生」という言葉が思い浮かんだ。
もし、もしも、僕が次に生まれ変わる事があるのならば、次こそは名前をもったまともな子供に生まれる事が出来るだろうか。
そこで、僕はツグミにまた出会う。だけど、僕は何も知らない。彼女が世界を創造している事も、この世界が彼女の妄想である事も……。
きっと何も知らないという事が、まともであるという事なんだろう。
最後にツグミが笑った。
いつもみたいに悪戯で、可憐に笑った。
しかし、いつもと違うところが一つだけあった。
それは、色のなかった彼女の目に、何かしらの感情が点ったのだ。それはほんの一瞬の瞬きのようだったが、僕にはしっかりと見えた。
だけど、彼女の目に宿った感情が何だったのかは、分からない。彼女は世界を消す時、何を思ったのだろうか。
急に視界が暗くなった。元々夜だったので、薄暗かったが、通りから届く街明かりのおかげで、真っ暗闇ではなかった。それが急に何も見えないくらいに暗くなった。それは闇そのもので、遅れて感じた胸苦が、ツグミの血を舐めた時の感覚と似ていた。そして、それが起因となって、僕はツグミの血の味を思い出す。
ほんのりと甘い彼女の血は、僅かに鉄臭さを残しつつも、まるでハチミツのような優しさがあった。もしかしたら、彼女の中には、ささやかながらも「優しさ」が眠っていたのかもしれない。
しかし、そんな事を今思ってももう遅い。僕ごときでは、彼女の優しさを目覚めさせる事は出来なかったのだから。
僕はこのまま消えてなくなるのだろう。それは死なのか、それとも別の「何か」なのか、僕には分からない。でも、それを仕方がないと、受け入れるしかない。僕は——。
それから間もなくして、僕の意識はどこかへ飛んで行った。それは天か、地か、ツグミ以外の誰にも分からない。




