19.悪魔(1)
どうして、こんな事になってしまったのだろうか。
魂が抜けた母を抱えていると、深い後悔を感じた。
やはり母は、最期まで僕の理解者だった。僕が言ったように、例え世界が敵になっても、母は僕の味方だった。僕が、狂気の谷底へ沈んだとしても、最期の最後まで手を離さない覚悟を持っていた。そして母はそれを実行した。自分の命を投げ出して、僕を谷底から引き揚げたのだ。
母は知っていたのだ。命の散る瞬間が、その儚さ故に、最も美しく、人の心を動かす事を。
「母さん……」
僕は血だらけの母と自分の手を見た。
母は安らかな顔をしていた。生気は全くないのに、とても穏やかで、優しかった。正直、惚け面をしているけれど、それはそれで母らしく、むしろ馴染みがあって、僕の精神によく染みた。
一方の僕の手は、悍ましかった。この手で幾人もの人を葬ってきたと思うと、悪魔が一体誰なのか分からなくなった。
僕は正義のはずだった。
でも、今は、それが大きく揺らいでいて、何を以て正義と見做すか、悪と見做すか、分からなくなった。
そう言えば、彼女がいつか言っていた。
——悪なのか、正義なのかは、時代やその時の状況、人の見方によって変わるんだよ。
もしそうなのであれば、今の僕は一体どっちなのだろうか。
僕はまだ覚悟を決め兼ねていた。
母は自首をしよう、と言っていた。善悪の区別がつけられない今の僕は、母のその言葉に従うべきなのだろう。この時代に合った裁きを受けるべきなのだろう。
でも、それだけでは不十分だ。もし、まだ僕にすべき事があるとすれば、彼女を連れて、自らの後悔を受け入れる事だ。彼女と共に、もう一度善悪を見直し、彼女と共に裁かれるべきなのだろう。狂気の谷底に沈んでいる彼女も、引き揚げるべきなのだ。
僕は母をそっと床に寝かせた。相変わらず、惚けた顔で寝ていやがる。でも、そんな母の顔が今は愛おしかった。
「母さん。僕は、彼女と共に、今を受け入れるよ」
僕は大きく頷き、胸中で母に別れを告げると、家を飛び出した。
いつの間にか、陽が暮れていた。
街行く人々は、愛する者の許へと帰宅を急ぎ、街灯が彼らの道標の如く、その行く先を照らしていた。
車道では、車達がひしめき合っていたが、時折、急く思いを堪え、道を譲ったり、それに対する謝意を示したり、些細な優しさを向け合っていた。
それだけではない。荷物を肩代わりする気遣い、店員に向ける「ありがとう」、肩を組み笑い合う同志、繋いだ手から感じる互いの熱、恋人、夫婦、親子……。
今まで気付かなかったけれど、街は数えきれない程の優しさや小さな幸せで溢れかえっていた。そして、僕はそれを今知り、彼女にも教えてあげたいと思った。
だから僕は駆ける。彼女と初めて会った、あのコインランドリーへと。
郵便局を目印に、角を曲がった路地にコインランドリーがある——はずだった。
「えっ——」
僕は驚愕した。角を曲がって、すぐにコインランドリーがあるはずだった。それなのに、角を曲がった路地には、何もなかった。
正確には、郵便局の室外機などが置いてあったり、飲食店の裏口などがあったりするだけで、コインランドリーは影も形もなかったのだ。当然、そこに彼女の姿もなかった。
「一体どういう事なんだ……?」
頭の中が真っ白になりそうだった。僕は彼女に街の優しさを伝え、これまでの自分たちの行いを見直し、そして、共に裁きを受けるつもりでいた。それなのに……。
しかし、よくよく考えてみれば、真新しいこの街に、あのような時代錯誤のコインランドリーは存在している方が不自然だった。
中でもこの辺りは、最近整備されたばかりで、古いコインランドリーが残っているはずがなかったのだ。
何故、僕はそんな事にも気付けなかったのだろうか……。
いや、待てよ、と僕はある事にも気付く。
そう言えば、「彼女」の名前は何だっただろうか。
目をきつく閉じても、頭を振ってみても、彼女の名前は疎か、顔も浮かんで来なかった。
そもそも彼女って、誰なんだ?
彼女は僕のクラスメイトのはず……そのはずだけど、僕は学校へ行っていなかったのに、何で彼女がクラスメイトだと知っていたのだろうか。
ふと、久世が言っていた言葉を思い出す。
——他に誰かいるのかい?
僕が久世を殺しに行った時、久世はまるで彼女が見えていないような素振りを見せていた。
そのときは、久世は彼女との繋がりを隠すために、演技をしているのかと思っていたが、もしかしたら、本当に彼女が見えていなかったのかもしれない。
それだけではない。ケイコ先生も彼女の事を知らなかったし、そもそも僕は彼女が誰かと話しをしている場面を見たことがない。彼女はいつも僕にだけ話しかけ、僕にだけ触れていた。
本当に彼女は存在していたのだろうか。
急に背中が粟立ってきた。
もしかしたら、彼女は存在しておらず、全て僕の妄想だったのかもしれない。
いいや、そんなはずはない——と思うが、彼女が全てを見透かし、全てを知り得ていた事を考えれば、やはり彼女は、僕だけに見えていた架空の存在であると考えてしまう。
「だったら僕は、一体何を見ていたのだろうか……」
急に現実味が薄れていった。
青山の悪事を暴いたのも、父が事故に遭ったのも、久世や警官を殺したのも、ケイコ先生に薬品を浴びせたのも、母を死なせてしまったのも、全て僕の妄想だったとでも言うのか。
全てが僕の夢で、本当は、皆、善人であり、誰一人として死んでいないんじゃないだろうか。
もしそうなのであれば、それはそれで幸いではあるが、僕はどの世界で生きているのだろうか。
僕は、しばらくその場から動けなかった。その間に、状況を理解しようと努めたが、考えは一向に纏まらず、結局、今が現実なのか、それとも妄想なのか、その区別はつけられなかった。
やがて、雨が降ってきた。
夏夜の雨は、湿気を含んだ空気と触れ合う事で、より「今」を曖昧にした。全てが茫々としていて、霞みがかった世界は、朧げで夢のようだった。
もしかしたら、今、僕は夢の世界——妄想の世界にいるのだろうか。いや、でも、コインランドリーがなく、彼女がいないという事は、これが現実なのだろうか。
僕はしばらく雨に打たれた。雨に打たれる事で、頭を少し冷やせるかと思ったが、差に非ず、昼間に籠った熱は、雨雲で蓋をされる事によって逃げ場を失い、湿気を伴った熱帯夜は不快そのものだった。
僕は、これからどうすればいいのだろうか……。
行き場と目的を失った僕は、途方に暮れるしかなかった。ただ雨に打たれ、いつかその雨が止むように、僕の精神が晴れるのを待つしかなかった。
でも、それがいつになるのか、僕には見当も付かない。




