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妄想少女ツグミ  作者: あおい つばさ
19/27

19.悪魔(1)

 どうして、こんな事になってしまったのだろうか。


 魂が抜けた母を抱えていると、深い後悔を感じた。


 やはり母は、最期まで僕の理解者だった。僕が言ったように、例え世界が敵になっても、母は僕の味方だった。僕が、狂気の谷底へ沈んだとしても、最期の最後まで手を離さない覚悟を持っていた。そして母はそれを実行した。自分の命を投げ出して、僕を谷底から引き揚げたのだ。


 母は知っていたのだ。命の散る瞬間が、その儚さ故に、最も美しく、人の心を動かす事を。


 「母さん……」


 僕は血だらけの母と自分の手を見た。


 母は安らかな顔をしていた。生気は全くないのに、とても穏やかで、優しかった。正直、惚け面をしているけれど、それはそれで母らしく、むしろ馴染みがあって、僕の精神によく染みた。


 一方の僕の手は、悍ましかった。この手で幾人もの人を葬ってきたと思うと、悪魔が一体誰なのか分からなくなった。


 僕は正義のはずだった。


 でも、今は、それが大きく揺らいでいて、何を以て正義と見做すか、悪と見做すか、分からなくなった。


 そう言えば、彼女がいつか言っていた。


——悪なのか、正義なのかは、時代やその時の状況、人の見方によって変わるんだよ。


 もしそうなのであれば、今の僕は一体どっちなのだろうか。





 僕はまだ覚悟を決め兼ねていた。


 母は自首をしよう、と言っていた。善悪の区別がつけられない今の僕は、母のその言葉に従うべきなのだろう。この時代に合った裁きを受けるべきなのだろう。


 でも、それだけでは不十分だ。もし、まだ僕にすべき事があるとすれば、彼女を連れて、自らの後悔を受け入れる事だ。彼女と共に、もう一度善悪を見直し、彼女と共に裁かれるべきなのだろう。狂気の谷底に沈んでいる彼女も、引き揚げるべきなのだ。


 僕は母をそっと床に寝かせた。相変わらず、惚けた顔で寝ていやがる。でも、そんな母の顔が今は愛おしかった。


 「母さん。僕は、彼女と共に、今を受け入れるよ」


 僕は大きく頷き、胸中で母に別れを告げると、家を飛び出した。






 いつの間にか、陽が暮れていた。


 街行く人々は、愛する者の許へと帰宅を急ぎ、街灯が彼らの道標みちしるべの如く、その行く先を照らしていた。


 車道では、車達がひしめき合っていたが、時折、急く思いを堪え、道を譲ったり、それに対する謝意を示したり、些細な優しさを向け合っていた。


 それだけではない。荷物を肩代わりする気遣い、店員に向ける「ありがとう」、肩を組み笑い合う同志、繋いだ手から感じる互いの熱、恋人、夫婦、親子……。


 今まで気付かなかったけれど、街は数えきれない程の優しさや小さな幸せで溢れかえっていた。そして、僕はそれを今知り、彼女にも教えてあげたいと思った。


 だから僕は駆ける。彼女と初めて会った、あのコインランドリーへと。






 郵便局を目印に、角を曲がった路地にコインランドリーがある——はずだった。


 「えっ——」


 僕は驚愕した。角を曲がって、すぐにコインランドリーがあるはずだった。それなのに、角を曲がった路地には、何もなかった。


 正確には、郵便局の室外機などが置いてあったり、飲食店の裏口などがあったりするだけで、コインランドリーは影も形もなかったのだ。当然、そこに彼女の姿もなかった。


 「一体どういう事なんだ……?」


 頭の中が真っ白になりそうだった。僕は彼女に街の優しさを伝え、これまでの自分たちの行いを見直し、そして、共に裁きを受けるつもりでいた。それなのに……。


 しかし、よくよく考えてみれば、真新しいこの街に、あのような時代錯誤のコインランドリーは存在している方が不自然だった。


 中でもこの辺りは、最近整備されたばかりで、古いコインランドリーが残っているはずがなかったのだ。


 何故、僕はそんな事にも気付けなかったのだろうか……。


 いや、待てよ、と僕はある事にも気付く。


 そう言えば、「彼女」の名前は何だっただろうか。


 目をきつく閉じても、頭を振ってみても、彼女の名前は疎か、顔も浮かんで来なかった。


 そもそも彼女って、誰なんだ?


 彼女は僕のクラスメイトのはず……そのはずだけど、僕は学校へ行っていなかったのに、何で彼女がクラスメイトだと知っていたのだろうか。


 ふと、久世が言っていた言葉を思い出す。


 ——他に誰かいるのかい?


 僕が久世を殺しに行った時、久世はまるで彼女が見えていないような素振りを見せていた。


 そのときは、久世は彼女との繋がりを隠すために、演技をしているのかと思っていたが、もしかしたら、本当に彼女が見えていなかったのかもしれない。


 それだけではない。ケイコ先生も彼女の事を知らなかったし、そもそも僕は彼女が誰かと話しをしている場面を見たことがない。彼女はいつも僕にだけ話しかけ、僕にだけ触れていた。


 本当に彼女は存在していたのだろうか。


 急に背中が粟立ってきた。


 もしかしたら、彼女は存在しておらず、全て僕の妄想だったのかもしれない。


 いいや、そんなはずはない——と思うが、彼女が全てを見透かし、全てを知り得ていた事を考えれば、やはり彼女は、僕だけに見えていた架空の存在であると考えてしまう。


 「だったら僕は、一体何を見ていたのだろうか……」


 急に現実味が薄れていった。


 青山の悪事を暴いたのも、父が事故に遭ったのも、久世や警官を殺したのも、ケイコ先生に薬品を浴びせたのも、母を死なせてしまったのも、全て僕の妄想だったとでも言うのか。


 全てが僕の夢で、本当は、皆、善人であり、誰一人として死んでいないんじゃないだろうか。


 もしそうなのであれば、それはそれで幸いではあるが、僕はどの世界で生きているのだろうか。



 僕は、しばらくその場から動けなかった。その間に、状況を理解しようと努めたが、考えは一向に纏まらず、結局、今が現実なのか、それとも妄想なのか、その区別はつけられなかった。


 やがて、雨が降ってきた。


 夏夜の雨は、湿気を含んだ空気と触れ合う事で、より「今」を曖昧にした。全てが茫々としていて、霞みがかった世界は、朧げで夢のようだった。


 もしかしたら、今、僕は夢の世界——妄想の世界にいるのだろうか。いや、でも、コインランドリーがなく、彼女がいないという事は、これが現実なのだろうか。


 僕はしばらく雨に打たれた。雨に打たれる事で、頭を少し冷やせるかと思ったが、差に非ず、昼間に籠った熱は、雨雲で蓋をされる事によって逃げ場を失い、湿気を伴った熱帯夜は不快そのものだった。


 僕は、これからどうすればいいのだろうか……。


 行き場と目的を失った僕は、途方に暮れるしかなかった。ただ雨に打たれ、いつかその雨が止むように、僕の精神が晴れるのを待つしかなかった。


 でも、それがいつになるのか、僕には見当も付かない。


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