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妄想少女ツグミ  作者: あおい つばさ
18/27

18.正代(5)

 全身に電気が走った。


 それは雷で打たれたような衝撃で、その衝撃は、頭の天辺から四肢の末梢へ広がると、今度は痛み刺激となって、脳へフィードバックされる。脳で集約されたその痛みたちは、閉ざされていた僕の記憶の扉を打ち壊し、光を失っていた記憶の断片達を蘇らせた。


 「僕は——」


 昨日、久世康弘の家に行った。


 誰と? 彼女と。


 何をしに? 久世康弘を殺すために。


 何で殺した? 奴が悪魔だから。


 悪魔とは何か? 悪魔とは、大人だ。


 「僕は——」


 全てを思い出した。


 僕はツグミと出会い、ツグミと共に悪魔と戦う事を誓った。


 悪魔とは、子供を騙し、子供を欲望の捌け口にしている下衆。


 悪魔とは、独善的で、傲慢で、見栄っ張りな嘘を吐くろくでなし。


 悪魔とは、偽善者であり、金の亡者であり、最期になってようやく大切なものに気が付く愚人。


 悪魔とは、大人だ。


 「僕は——」


 そんな悪魔が許せない。


 そんな大人が許せない。



 「母さん——」


 全てを思い出した僕は、食卓に座り、虚ろな顔で僕を見上げている母に言った。


 「久世を殺したのは、僕だよ」


 それを言った瞬間、母の顔は硬直する。顔の筋肉は全て石のように固まり、瞬きは疎か、呼吸すらも止まっていた。それはまるで死人のようだったが、瞳孔は目の前の「仇」に焦点を合わせるために絞られ、絶望と憎悪の最中にありながらも、どうにか理性は保とうとしていた。仮にも目の前にいる仇は、実子なのだ。


 「久世は、悪魔だったんだ。僕や母さんを騙そうとする悪魔だったんだよ」


 「あんた……何、言ってんの……」


 「ツグミが教えてくれたんだ。彼女が、僕に悪魔と戦う術を教えてくれたんだ」


 「やめて……」


 母は強張った顔のまま、首を振った。僕の言葉を否定するように、首を振った。でも、僕は母に理解して欲しくて、話し続ける。


 「僕が葬った悪魔は、久世だけじゃないんだ。僕を惑わしたケイコ先生、僕を捕らえ、排除しようとした警官、未成年に手を出す下衆の青山。それから、父さんも僕らが葬ってやったんだ」


 「やめて……」


 母は頭を抱えるように、耳を塞いだ。だから、僕は声量を大きくする。


 「皆、僕が狂っていると思っているけど、実はそうじゃないんだ。僕やツグミがまともで、狂っているのは皆の方なんだ。世界と分離している僕らを、ゴミのように扱い、排除しようとしているんだ。だから、僕らが逆に奴らを、世界を、浄化してやるんだ」


 「やめて! もう何も言わないで!」


 僕の声量に合わせて、母も語調を強めた。でも、僕はそれを掻き消すように更に声量を上げる。


 「母さんなら、分かってくれるよね? 僕の母親だもんね? 母さんだけは、僕の味方だよね? 世界が敵でも、母さんは僕の——」


 「もう、やめてっ!!」


 母はついに耐え兼ね、立ち上がった。そして、そのまま僕から逃げるように、台所へと駆けていく。


 「待ってよ、母さん!」


 僕は母を追った。



 台所では、母が頭を抱えて、蹲っていた。様々な感情が渦巻く精神を、どうにか崩壊しないように、身を縮こまらせ、懸命に抑え込んでいた。でも、僕はそんな母の心情を察する事も出来ずに、自分勝手に想いを吐き出す。


 「母さんは特別なんだ。母さんも大人だけど、母さんは、母さんだけは、悪魔じゃない。僕と対等な、純粋な心をもった人間なんだ」


 母は震えていた。たぶん涙も流していた。その涙は、恐らく抑えきれない感情の一部が溢れ出したものだろう。だから、母の限界は近かった。


 「母さん。僕を導いてよ」


 僕は震える母の背中に手を伸ばした。しかし、僕が母に触れる直前、何かが光った。


 それから痛みを感じ、僕の手に赤いものが滲む。


 母の手中を見れば、鈍く光る凶器があって、さっきの光は、それに反射した西日の煌めきだった。


 「こ、来ないで!」


 母は両手で包丁を握り締め、僕にその刃先を向けていた。


 「か、母さん……?」


 信じられなかった。あれほど信頼していた母が、僕に凶器を向けるなんてあり得ない。


 母は阿保ではあるが、僕と対等で、僕を理解してくれていた。世界から弾かれた僕を唯一、認めてくれている人だった。そのはずだったのに——。


 「自分が何をしたか分かってんの? あんたのしてきた事は犯罪だよ」


 包丁を持つ母の手は震えていた。力の入り具合は不器用で、不安定で、未だに躊躇いがあった。でも、歯を食いしばるその顔からは、並々ならぬ覚悟を感じた。


 「ねえ、自首しよ? 私も一緒に付いて行くからさ」


 母の目は充血していた。頬は涙で濡れ、顔は押し寄せる感情によって歪んでいた。


 でも、固く結んでいた口許が少し緩み、僕を迎え入れようとしていた。やはり母は、僕を理解しようと努めている。


 でも——。


 「自首なんてする訳ないよ。正義は僕の方で、悪いのは大人の方だよ」


 「違う。そうじゃない、そうじゃないんだよ。確かに大人は悪い事をするかもしれない。でも、それは大人だからじゃなくて、人間だからなんだよ。悪い所もあれば、良い所もある。それが人間なの!」


 母は少しだけ手を緩めた。どうにか僕を説得しようとして、包丁の刃先を下げ、柄を握る手は、凶器ではなく、抱擁を求めていた。


 「母さん……」


 「さあ、行こう。今なら未だ間に合う」


 でも、僕はもう母の抱擁を必要としない。


 「母さん……。残念だよ」


 「えっ? あんた、何を——」と母が言った時、僕は母に手を伸ばしていた。


 正確には母が握っている包丁へと手を伸ばしており、僕は素早く母から包丁を奪い取った。

 


 容易かった。


 母の動きは緩慢で、迷いがあった。


 未だに僕を説得しようとしていて、僕を迎え入れようとしていた。


 いや、そうでなくても、母はいつの間にか、「弱く」なっていた。


 僕は、母の背丈を越え、母の腕力も越えていた。僕はどんどん逞しくなっていくのに、母は徐々に衰えていく。だから、僕にはもう母が必要なくなっていた。


 「母さんだけは、特別だと思っていたのに……」


 僕は母から奪い取った包丁の柄を強く、強く、握り締めた。


 母が憎い訳ではなかった。母が悪魔側に堕ちてしまった事が、虚しいだけだった。


 「あんた……何をしようとしているの……?」


 母は僕を恐れ、僕から逃れるように、床を這って後退した。でも、家は狭いからすぐに壁に背中がついてしまう。


 「母さん。僕はね、もう完全体になったんだ。人を越えた聖人になったんだよ」


 子は親を越えた時、それはもう人として完成したという事になる。


 しかし、僕の場合、心身共に凡人が理解し得る領域を遥かに超えていて、もはや人ではなく、ほとんど神に近しい存在になっていた。何もかも、僕の思うままに世界を操れる。そんな気がしていた。


 それなのに、母は首を振る。


 「違う。あんたは、聖人なんかじゃない。狂人よ!」


 「は? 何言ってんの?」


 「こんなの、まともじゃない!」


 「まともじゃないのは、僕以外の人たちだろ? 僕が正しいんだよ」


 「違う。あなたは、まだ子供! でも、子供だからこそ、まだやり直せる!」


 母は恐怖でおののいている癖に、僕を否定し、僕を更生しようとしていた。それはいかにも「まともだった大人」が考えそうな事で、やはり母は悪魔だった。


 「もういいよ、母さん。母さんには何を言っても理解できないから」


 「良くない! 良くない! 良くない! 良くない!」


 同じ言葉を繰り返し発する母は、相変わらず幼稚だった。語彙力がなくて、阿保っぽい。だけど、僕を否定する事は、許されない事だから排除しなければならない。


 「はいはい」


 僕が適当に相槌を打ち、包丁を構えながら歩み寄ると、何を思ったのか、母はおもむろに立ち上がった。


 脚は震え、腰は抜けている癖に、母は流し台や壁に寄り掛かりながら、立ち上がった。


 「何で立つのさ?」


 僕が問うと、母は呼吸を荒げて答える。


 「あんたの母親だからよ」


 「は?」


 意味不明だった。


 母は確かに僕の親だけど、それと立ち上がる事に何の関係があるのだろうか。


 立ち上がっても、目線は僕より低く、涙や恐怖で顔は歪んでいる癖に、僕より弱く、何も出来ない癖に……。


 でも、何故か、母に見詰められると、胸が苦しくなった。


 この苦しみは、何なんだろうか。



 親の威厳?


 いや、僕の母にそんな圧力はない。頼りなくて、育児もまともにできなかった母に、親の威厳なんかある訳がない。


 じゃあ、何なのか?


 その答えは、僕には分からなかった。


 だから、その苦しみから逃れたくて、僕は包丁を母へと向ける。


 「いいよ。私が受け止めてあげる」


 母は開き直ったように、両手を広げた。


 僕の狂気も、僕の握る凶器も、恐れず、両手を広げ、無防備になった。それは、まるで自分の腹を刺せ、と言っているみたいだった。


 だから、僕は頷く。


 「分かった。今、殺してやるよ」


 僕は大きく息を吸った。そして、床を蹴り、凶器を母へぶつける。


 音はしなかった。


 包丁は、母の腹部を確かに捉えたが、刺さる際の音はしなかった。


 無音で、自身の呼吸音も、母の呼吸音も、外部の雑音も、何もかも、一切の音がしなかった。まさに静寂。


 でも、そんな静寂を母が破った。


 「ごめんね。辛かったね……」


 母の腹部からは多量の血が流れていた。たぶん、内臓や腹部の動脈を切裂いたのだろう。口からも血が流れ出てきた。でも、そんな瀕死の状態で、母は僕を抱き寄せた。


 温かかった。


 柔らかかった。


 優しかった。


 僕より小さくなってしまった母は、僕が思っていた以上に小さかった。


 華奢で、強く抱きしめ返せば、簡単に壊れてしまいそうだった。


 でも——。


 でも、そんな弱々しいのに、母の存在は、途轍もなく巨大で、到底僕が越えられるようなものではないと感じた。


 それは立ち憚る壁ではなく、共に寄り添う空気のようで、柔らかく包み込む大地のようで、温かく見守る大空のようで、静かに導く大海のようで……。


 嗚呼、僕の源は、ここなんだ。


 そんな事を悟り、僕は身体が震えた。


 「ごめんね……こんなお母さんで……。ごめんね……何もしてあげられなくて……ごめんね……ごめんね……」


 母は最期の力で僕を抱きしめ、懺悔ざんげのように謝罪を繰り返した。


 僕に許しを乞うように、何度も何度も、息が止まる瞬間まで「ごめんね」を言い続けた。


 僕は何も言えなかった。


 言いたい事も思いつかなかった。


 だから僕は、ただ徐々に熱を失っていく母を感じながら、その偉大さを理解しようとした。


 でも、僕が全てを理解する前に、母は動かなくなった。僕の背中に回していた腕は、緩んだゴムのように脱力し、崩れ落ちていく。


 そこで、僕はようやく母の背中に腕を回し、支えた。


 「ご……め……」


 それが母の最期の言葉だった。


 でも、声は出ていなかった。唇は僅かに動いていたが、音を作るだけの呼気は、もう吐けなくなっていた。


 やがて、僕をずっと見詰めていた母の目は、焦点を失い、色が抜けていく。


 完全に色が抜けて、瞳がただの黒になると、その瞬間に母が死んだのだと、僕は思った。


 たぶん悲しかった。


 自分でも自身の感情が理解できなかった。


 でも、頬を伝っていく涙が、僕は聖人でもなければ、狂人でもなく、ただの人間なんだと教えてくれた。


 僕は——ただの子供だった。


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