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妄想少女ツグミ  作者: あおい つばさ
17/27

17.正代(4)

 僕は直ぐに保健室を飛び出した。


 もう頭痛はしなかった。


 身体は至って正常で、気は逸っていたが、精神は悪魔から解放された分、研ぎ澄まされていた。今の僕ならば、何だって出来そうだった。


 勿論、悪魔の包囲網から突破する事も容易だと思われた。それに、もし悪魔に囲まれたとしても、僕のポケットには「聖水」の入った小瓶があって、それはツグミが用意してくれたもので、奴らにかければ、一網打尽に出来るに違いなかった。


 僕は窓から教師と警官らの行動を伺い、正面玄関からの脱出は避け、廊下の窓から校舎裏に出た。


 校舎裏は、日陰になっていて、昼間の暑さが幾らか和らいでいた。引きこもりの僕にとって、そこはとても居心地の良い場所だった。


 しかし、そこに長く留まる訳にもいかず、僕は周囲を警戒しつつ、学校の敷地外を目指す。なるべく日陰を選び、体育館裏や駐輪場の陰などを進んだ。


 だけど、もう少しで敷地外に出られるという所で、僕は呼び止められてしまう。


 「ちょっと、君」


 僕を呼び止めたのは、麗しい女性の声で、しかし、語調はやや粗く、呼吸も乱れていた。


 僕は足を止め、振り返ると、わざと諦念を滲ませたため息を吐く。


 「ケイコ先生。何ですか?」


 「保健室で寝てなさいって言ったじゃないの。身体の具合は、もう大丈夫なの?」


 「はい。大丈夫です」


 「そう、良かった」とケイコ先生は肩を撫で下ろして、白々しく安堵感を臭わせる。


 それは、まるで自分は子供を憂いている「健全な大人」であると主張しているみたいで、とても浅ましかった。


 そもそも大人である時点で、健全とは程遠い事を理解していないのだろう。


 「さあ、こっちに来て。一緒に保健室へ戻りましょう」


 ケイコ先生は、いつものように大人びた色気のある笑顔を僕に向け、手を差し伸べた。しかし、僕はもうそれに騙されない。僕には何が悪なのか分かっているのだ。


 「ねえ、先生」


 僕は俯き、ポケットに手を入れる。ケイコ先生は、偽りの笑顔を保ったまま聞いた。


 「何? どうしたの?」


 今まで心地良いと思っていたケイコ先生の声が、とても耳障りだった。金切り声のようで、やかましく、心身が疼いた。だから、さっさと終わらせてしまおうと思った。


 僕はポケットから小瓶を取り出す。それはツグミがくれた聖水で、それを悪魔にかければ、僕は自由になれるはずだった。


 「先生は、僕に嘘を吐いたよね。僕は、嘘を吐く大人が許せないんだ」


 「な、何の事?」


 ケイコ先生は、急に表情を変貌させた僕を見て、おののいた。


 僕から放たれているのは、異常なまでの殺意で、それは悪を律しようとする健全な思想ではあったが、悪魔からすれば、ただ理不尽に向けられる憎悪や怒りでしかなかった。


 「僕は、先生を信頼していた。それなのに、先生は僕を裏切った。——いや、先生は初めから僕の味方じゃなかったんだよね」


 「せ、先生は、いつも君の味方だよ!」


 ケイコ先生は、自分の身の潔白を示すように両手を広げた。しかし、その行動ですら、嘘臭く、余計に僕の疑心を煽る。


 「もういいよ。先生」


 僕は小瓶の蓋を開けた。蓋はペットボトルのキャップのように容易く開ける事が出来、開封と同時に刺激臭が立ち込めてくる。


 ああ、これが悪を溶かす聖水のニオイか。


 とても良いニオイとは思えなかった。だけど、悪を討つには適していると思われた。


 「じゃあね、先生」


 「ちょ、ちょっと——」とケイコ先生が言いかけた時、僕は小瓶の中身——聖水を悪魔に浴びせた。


 その途端、悪魔の皮膚が焼けただれたように、赤くなっていく。頭から被ったせいもあって、髪も艶を失い、同様に溶け始めた。


 「ぎゃあああっ!」


 ケイコ先生の悲鳴は、麗しさの欠片もなかった。痛みと恐怖を発散するかの如く、悲痛で、必死で、如何にか助けを求めようとしていた。



 しかし、それも長くは続かず、口を大きく開けて叫んだせいで、聖水が口腔内にも流れ込んでしまう。そのせいで、発声器官も焼け、声は直ぐに出なくなった。


 たぶんこの程度で、悪魔は死なない。


 僕は冷静にそう思った。しかし、敢えて絶命させる必要性も感じず、むしろこのまま生かして、大人達に自らの悪事を知らしめる広告塔になってもらえばいい。


 自由になった僕は、声が出せず、苦痛でもがくケイコ先生を見下ろした。


 「悪いのは、いつも大人。これで分かったでしょ? 誰が悪なのか」


 僕はそう言い吐くと、足元でのたうち回っているケイコ先生を置き去りにして、学校の敷地外へと逃げ出した。





 僕は、学校の敷地外へ逃げ出せれば、悪魔の包囲網を突破できると思っていた。


 しかし、甘かった。


 昼間の明るい街には、多くの悪魔がうろついていた。誰も彼も、楽しげな表情を仮面のように貼り付け、その裏では、僕を蔑む目で見ている。


 異常児だ。


 引きこもりだ。


 不登校児だ。


 憐れな子供だ。


 社会のクズだ。



 でも、街に蔓延る悪魔たちは、目で僕を蔑みはしたが、直接的に手を下そうとはしなかった。そこが悪魔の狡い所で、でも確かに、その卑劣な手段は、僕を追い詰めるには有効だった。


 次第に僕は、視線に怯えていく。冷気の籠った視線は、今が一日の内で最も暑い時間帯だとしても、悪寒を感じさせる程で、僕はどうにか安全地帯へ逃れたかった。


 でも、この街に僕が逃れられるような場所はない。この街は、安泰と溶け込めないような異常児を排除しようとしているのだ。


 秩序的な道路や建物の配置は、景観美と機能性を意識していて、まともな人々の感性をくすぐる。


 お洒落な店も優雅なマンションも、人々の欲を満たすために存在している。


 だから、僕のような異常児は、この街の廃棄物でしかないのだ。


 いや、違う。


 まともじゃないのは奴らの方だ。



 街と溶け込めない者を排除しようとする思想は、まるで民族浄化主義者のように過激で、狂っている。


 そんな街を美しいと感じる奴らは、その陰で廃棄されていく者達の苦しみを想像もしない。


 一般やまともという正気の沙汰で、全てを括り、それ以外は切り捨てる。大多数の自分達が正義であると思って疑わない。それこそが、狂気であるとも知らずに。


 僕は湧き上がってくる怒りを感じた。この街諸共、全ての悪魔を葬り去ってしまいたいと思った。


 だけど、今の僕にその力はない。悪魔の視線に怯えているようでは、まだ僕は、全ての悪を浄化するだけの正義を持ち合わせていない。



 誰か、この僕に、力を与えてくれ——。





 願いは届く。


 この世界は無情で、不条理だけど、それを牛耳ぎゅうじっている悪魔が存在するように、そこに救いの手を差し伸べる神もきっと存在している。


 全ての人々が、僕を排除しようとしていても、神だけは僕を守ってくれる。



 そんな絵空事のような、神信仰のような、偶像的で、曖昧な思想が僕のなかに芽吹いていた。そして、僕はそれを無条件に信じた。


 「ツグミ……」


 彼女の名前が思い浮かび、僕はそれを口にした。


 彼女こそが、神と僕を繋ぎ合わせてくれる天使なのかもしれない。いいや、もしかしたら、彼女こそが「神」そのものなのかもしれない。


 「ツグミ……」


 僕は、眩しく、美しさで汚れた街の真ん中で、彼女の名前を呼んだ。いや、叫んだ。


 「ツグミーー!!」


 それはある種のまじないや念仏のようで、今まさに僕の義心が試されているのだと思われた。


 「ツグミーー!!」


 街行く悪魔たちは、急に叫び出した子供を見て、眉をひそめた。


 当然それらは、冷気を伴っていて、いよいよ狂ったかという軽蔑も含まれていた。


 彼らは鋭い視線で、容赦なく僕の心身を刺し、狂人と化した僕を排除しようとしていた。


 でも、僕はもうその程度で怯えない。僕には彼女がついている。



 「ツグミーー!!」


 数回叫んだところで、2人組の警官が寄ってきた。


 「き、君。どうしたんだ!」


 「おい、あの子は……」


 一人の警官が、僕を見て、何かに気付く。その何かとは察するに、僕が異常児だという事だろう。この街に似つかわしくない存在である僕を排除したいのだろう。自分達の方が、悪であるとも知らずに。


 僕は直ぐに駆け出した。でも、僕は恐れで、逃げ出したのではない。今は未だ悪魔を葬る準備が整っていないだけだ。だから準備が整い次第、僕は全ての悪を消し去ってやる。


 「あ、コラ! 待ちなさい」


 警官は僕が駆け出すと、すぐに後を追って走り出した。でも今の僕は、未完全とは言え、もう常人ではなかった。それは頭のおかしな異常者とも異なり、人知を超えた「聖人」とでも言おうか。そんな高貴な存在に変わり始めていた。だから、幾ら彼らが俊足とは言え、それから逃れる事は、大変容易な事であった。





 自宅に着くと、もう夕方になっていた。


 正直、自分でもどこを駆け回ってきたのか覚えていない。でも、今の僕にとって、それは些細な事で、この街で唯一、悪魔に侵されていない安全地帯に辿り着けた事は、過酷な敵陣から帰還できたような喜びや安心感を与えてくれた。


 家に入ると、母がまだ寝間着のままリビングにいた。室内の灯りは点っていなかったが、窓辺に差し込む西日のおかげで、暗さはなかった。だけども、母の顔には影が落ちていて、只ならぬ予感を抱かせた。


 「ただいま」


 僕は些かの息苦しさを感じつつ、食卓で呆然と座っている母に声をかけた。母は、挨拶も返さず、俯き加減で問う。


 「あんたさ。今日、どこに行ってたの?」


 「どこって……学校だけど?」


 「そう。じゃあ、昨日は? どこに行ってたの?」


 「昨日は……」 


 母の一言一言が、重苦しかった。答えを誤れば、何かが起こるような気がした。


 でも、それが何かは分からない。いや、考えたくなかった。


 ここは、悪魔が立ち入れない不可侵領域のはずで、僕が休める場所のはずだった。


 それなのに、この息苦しさは何なのか。



 僕は水分を失っていく喉を潤そうと、唾を呑んだ。でも、口腔内も乾いていて、その嚥下はただ空気を送るだけになる。だから僕は、掠れた声しか発せられなかった。


 「昨日は……昨日の記憶は……ないんだ」


 「ふうん」


 母が気のない相槌を打つ。それから、ゆっくりと顔を上げ、僕を見上げた。


 「あんたさ、昨日、泰弘さんちに行ってたでしょ?」


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