17.正代(4)
僕は直ぐに保健室を飛び出した。
もう頭痛はしなかった。
身体は至って正常で、気は逸っていたが、精神は悪魔から解放された分、研ぎ澄まされていた。今の僕ならば、何だって出来そうだった。
勿論、悪魔の包囲網から突破する事も容易だと思われた。それに、もし悪魔に囲まれたとしても、僕のポケットには「聖水」の入った小瓶があって、それはツグミが用意してくれたもので、奴らにかければ、一網打尽に出来るに違いなかった。
僕は窓から教師と警官らの行動を伺い、正面玄関からの脱出は避け、廊下の窓から校舎裏に出た。
校舎裏は、日陰になっていて、昼間の暑さが幾らか和らいでいた。引きこもりの僕にとって、そこはとても居心地の良い場所だった。
しかし、そこに長く留まる訳にもいかず、僕は周囲を警戒しつつ、学校の敷地外を目指す。なるべく日陰を選び、体育館裏や駐輪場の陰などを進んだ。
だけど、もう少しで敷地外に出られるという所で、僕は呼び止められてしまう。
「ちょっと、君」
僕を呼び止めたのは、麗しい女性の声で、しかし、語調はやや粗く、呼吸も乱れていた。
僕は足を止め、振り返ると、わざと諦念を滲ませたため息を吐く。
「ケイコ先生。何ですか?」
「保健室で寝てなさいって言ったじゃないの。身体の具合は、もう大丈夫なの?」
「はい。大丈夫です」
「そう、良かった」とケイコ先生は肩を撫で下ろして、白々しく安堵感を臭わせる。
それは、まるで自分は子供を憂いている「健全な大人」であると主張しているみたいで、とても浅ましかった。
そもそも大人である時点で、健全とは程遠い事を理解していないのだろう。
「さあ、こっちに来て。一緒に保健室へ戻りましょう」
ケイコ先生は、いつものように大人びた色気のある笑顔を僕に向け、手を差し伸べた。しかし、僕はもうそれに騙されない。僕には何が悪なのか分かっているのだ。
「ねえ、先生」
僕は俯き、ポケットに手を入れる。ケイコ先生は、偽りの笑顔を保ったまま聞いた。
「何? どうしたの?」
今まで心地良いと思っていたケイコ先生の声が、とても耳障りだった。金切り声のようで、喧しく、心身が疼いた。だから、さっさと終わらせてしまおうと思った。
僕はポケットから小瓶を取り出す。それはツグミがくれた聖水で、それを悪魔にかければ、僕は自由になれるはずだった。
「先生は、僕に嘘を吐いたよね。僕は、嘘を吐く大人が許せないんだ」
「な、何の事?」
ケイコ先生は、急に表情を変貌させた僕を見て、戦いた。
僕から放たれているのは、異常なまでの殺意で、それは悪を律しようとする健全な思想ではあったが、悪魔からすれば、ただ理不尽に向けられる憎悪や怒りでしかなかった。
「僕は、先生を信頼していた。それなのに、先生は僕を裏切った。——いや、先生は初めから僕の味方じゃなかったんだよね」
「せ、先生は、いつも君の味方だよ!」
ケイコ先生は、自分の身の潔白を示すように両手を広げた。しかし、その行動ですら、嘘臭く、余計に僕の疑心を煽る。
「もういいよ。先生」
僕は小瓶の蓋を開けた。蓋はペットボトルのキャップのように容易く開ける事が出来、開封と同時に刺激臭が立ち込めてくる。
ああ、これが悪を溶かす聖水のニオイか。
とても良いニオイとは思えなかった。だけど、悪を討つには適していると思われた。
「じゃあね、先生」
「ちょ、ちょっと——」とケイコ先生が言いかけた時、僕は小瓶の中身——聖水を悪魔に浴びせた。
その途端、悪魔の皮膚が焼け爛れたように、赤くなっていく。頭から被ったせいもあって、髪も艶を失い、同様に溶け始めた。
「ぎゃあああっ!」
ケイコ先生の悲鳴は、麗しさの欠片もなかった。痛みと恐怖を発散するかの如く、悲痛で、必死で、如何にか助けを求めようとしていた。
しかし、それも長くは続かず、口を大きく開けて叫んだせいで、聖水が口腔内にも流れ込んでしまう。そのせいで、発声器官も焼け、声は直ぐに出なくなった。
たぶんこの程度で、悪魔は死なない。
僕は冷静にそう思った。しかし、敢えて絶命させる必要性も感じず、むしろこのまま生かして、大人達に自らの悪事を知らしめる広告塔になってもらえばいい。
自由になった僕は、声が出せず、苦痛でもがくケイコ先生を見下ろした。
「悪いのは、いつも大人。これで分かったでしょ? 誰が悪なのか」
僕はそう言い吐くと、足元でのたうち回っているケイコ先生を置き去りにして、学校の敷地外へと逃げ出した。
僕は、学校の敷地外へ逃げ出せれば、悪魔の包囲網を突破できると思っていた。
しかし、甘かった。
昼間の明るい街には、多くの悪魔がうろついていた。誰も彼も、楽しげな表情を仮面のように貼り付け、その裏では、僕を蔑む目で見ている。
異常児だ。
引きこもりだ。
不登校児だ。
憐れな子供だ。
社会のクズだ。
でも、街に蔓延る悪魔たちは、目で僕を蔑みはしたが、直接的に手を下そうとはしなかった。そこが悪魔の狡い所で、でも確かに、その卑劣な手段は、僕を追い詰めるには有効だった。
次第に僕は、視線に怯えていく。冷気の籠った視線は、今が一日の内で最も暑い時間帯だとしても、悪寒を感じさせる程で、僕はどうにか安全地帯へ逃れたかった。
でも、この街に僕が逃れられるような場所はない。この街は、安泰と溶け込めないような異常児を排除しようとしているのだ。
秩序的な道路や建物の配置は、景観美と機能性を意識していて、まともな人々の感性を擽る。
お洒落な店も優雅なマンションも、人々の欲を満たすために存在している。
だから、僕のような異常児は、この街の廃棄物でしかないのだ。
いや、違う。
まともじゃないのは奴らの方だ。
街と溶け込めない者を排除しようとする思想は、まるで民族浄化主義者のように過激で、狂っている。
そんな街を美しいと感じる奴らは、その陰で廃棄されていく者達の苦しみを想像もしない。
一般やまともという正気の沙汰で、全てを括り、それ以外は切り捨てる。大多数の自分達が正義であると思って疑わない。それこそが、狂気であるとも知らずに。
僕は湧き上がってくる怒りを感じた。この街諸共、全ての悪魔を葬り去ってしまいたいと思った。
だけど、今の僕にその力はない。悪魔の視線に怯えているようでは、まだ僕は、全ての悪を浄化するだけの正義を持ち合わせていない。
誰か、この僕に、力を与えてくれ——。
願いは届く。
この世界は無情で、不条理だけど、それを牛耳っている悪魔が存在するように、そこに救いの手を差し伸べる神もきっと存在している。
全ての人々が、僕を排除しようとしていても、神だけは僕を守ってくれる。
そんな絵空事のような、神信仰のような、偶像的で、曖昧な思想が僕のなかに芽吹いていた。そして、僕はそれを無条件に信じた。
「ツグミ……」
彼女の名前が思い浮かび、僕はそれを口にした。
彼女こそが、神と僕を繋ぎ合わせてくれる天使なのかもしれない。いいや、もしかしたら、彼女こそが「神」そのものなのかもしれない。
「ツグミ……」
僕は、眩しく、美しさで汚れた街の真ん中で、彼女の名前を呼んだ。いや、叫んだ。
「ツグミーー!!」
それはある種の呪いや念仏のようで、今まさに僕の義心が試されているのだと思われた。
「ツグミーー!!」
街行く悪魔たちは、急に叫び出した子供を見て、眉をひそめた。
当然それらは、冷気を伴っていて、いよいよ狂ったかという軽蔑も含まれていた。
彼らは鋭い視線で、容赦なく僕の心身を刺し、狂人と化した僕を排除しようとしていた。
でも、僕はもうその程度で怯えない。僕には彼女がついている。
「ツグミーー!!」
数回叫んだところで、2人組の警官が寄ってきた。
「き、君。どうしたんだ!」
「おい、あの子は……」
一人の警官が、僕を見て、何かに気付く。その何かとは察するに、僕が異常児だという事だろう。この街に似つかわしくない存在である僕を排除したいのだろう。自分達の方が、悪であるとも知らずに。
僕は直ぐに駆け出した。でも、僕は恐れで、逃げ出したのではない。今は未だ悪魔を葬る準備が整っていないだけだ。だから準備が整い次第、僕は全ての悪を消し去ってやる。
「あ、コラ! 待ちなさい」
警官は僕が駆け出すと、すぐに後を追って走り出した。でも今の僕は、未完全とは言え、もう常人ではなかった。それは頭のおかしな異常者とも異なり、人知を超えた「聖人」とでも言おうか。そんな高貴な存在に変わり始めていた。だから、幾ら彼らが俊足とは言え、それから逃れる事は、大変容易な事であった。
自宅に着くと、もう夕方になっていた。
正直、自分でもどこを駆け回ってきたのか覚えていない。でも、今の僕にとって、それは些細な事で、この街で唯一、悪魔に侵されていない安全地帯に辿り着けた事は、過酷な敵陣から帰還できたような喜びや安心感を与えてくれた。
家に入ると、母がまだ寝間着のままリビングにいた。室内の灯りは点っていなかったが、窓辺に差し込む西日のおかげで、暗さはなかった。だけども、母の顔には影が落ちていて、只ならぬ予感を抱かせた。
「ただいま」
僕は些かの息苦しさを感じつつ、食卓で呆然と座っている母に声をかけた。母は、挨拶も返さず、俯き加減で問う。
「あんたさ。今日、どこに行ってたの?」
「どこって……学校だけど?」
「そう。じゃあ、昨日は? どこに行ってたの?」
「昨日は……」
母の一言一言が、重苦しかった。答えを誤れば、何かが起こるような気がした。
でも、それが何かは分からない。いや、考えたくなかった。
ここは、悪魔が立ち入れない不可侵領域のはずで、僕が休める場所のはずだった。
それなのに、この息苦しさは何なのか。
僕は水分を失っていく喉を潤そうと、唾を呑んだ。でも、口腔内も乾いていて、その嚥下はただ空気を送るだけになる。だから僕は、掠れた声しか発せられなかった。
「昨日は……昨日の記憶は……ないんだ」
「ふうん」
母が気のない相槌を打つ。それから、ゆっくりと顔を上げ、僕を見上げた。
「あんたさ、昨日、泰弘さんちに行ってたでしょ?」




