16.正代(3)
僕は未だ絶望に苛まれている母を家に残し、学校へと向かった。
別に学校へ行きたい訳ではなかったが、精魂が抜けた母を見ているのが辛かったのだ。
しかし、学校へ行ったものの、そこに僕の居場所はなかった。教室には恐怖が勝り、足を運べなかったし、避難所の保健室には、何故か鍵がかかっていた。だから、しばらく僕は校内を彷徨い、最終的に立入禁止となっている屋上へ辿り着いた。
屋外は暑かった。
空には薄雲がかかっていて、容赦のない日光を幾らか弱めてくれていたが、それでも気温は高く、夏の訪れを感じた。
そう言えば、もうすぐ夏休みだ。でも、僕は不登校児だから、毎日が休みみたいなもので、今日が何月何日の何曜日かなんて関係ない。ただ、暑いのは苦手だから、夏は嫌いだった。
僕は暑さに挫け、やはり引き返そうと思った。でも、何故か足は逆方向へと進み、僕は金網フェンスに寄り掛かった。
そして、僕は、無意識的に「彼女」の名前を呟く。
「ツグミ……」
自身でも何故、その名前を口にしたのか、分からなかった。でも、ポケットに手を入れると、昨夜の紙切れがあって、メモを記した人物の名前が目に留まり、また呟いてしまう。
「ツグミ……」
それは誰の名前だっただろうか。
しかし、思い出そうとすると、頭痛が再燃し、僕の思考を遮る。
ツグミ。君は一体……。
頭が割れそうだった。
ツグミという名前が、僕を「救い」へと導いてくれるような気がする一方で、「破滅」へ導くような気もする。その矛盾がより一層頭痛を強めていく。
「ツグミ……僕は君とここで……」
彼女を思い出そうとすればするほど、頭痛は増し、脈動に応じた痛みは、僕の思考を鈍らせ、記憶を消そうとする。彼女の存在をなかったものにしようとする。
だけど、それでも、僕は——。
そう思った時、湿気と熱気を伴った夏の風が、僕の握り締めていた「ツグミのメモ」を攫った。
その瞬間、思考は完全に停止する。
見えそうだった記憶の断片も完全に光を失い、結局、僕は彼女に辿り着けなかった。
代わりに、頭痛は直ぐに治まって、僕は金網フェンスから身体を起こした。
ここにいてはいけない。
そんな気がして、僕は屋上を後にした。
もう一度保健室へ行ってみると、先程施錠されていたドアは開いていて、中では保健室の先生であるケイコ先生が、デスクに向かって仕事をしていた。
「失礼します」
僕が背中に声を掛けると、ケイコ先生は直ぐに振り返って、大人びた表情で、僕を出迎えた。
「あら、久しぶりね」
それから立ち上がり、歩み寄ってくる。
「最近、見なかったけど、元気にしてたの?」
「ええ、まあ……」
たぶん僕の体は健康だった。でも、そこに宿る精神は、異常だった。
僕は少しばかり錯乱していた。
母の一件もあったし、未だに記憶が失われている不安もあった。それが僕の精神を掻き乱していたのだ。
そして、流石、保健室の先生。ケイコ先生は、そんな僕の異常にすぐ気が付く。
「なんか顔色が良くないみたいだけど……。中に入って、休んでいったら?」
僕が頷くと、ケイコ先生は、優しく僕の背中を押して、中に招き入れてくれた。そして、そのまま仕切りカーテンを開け、僕をベッドに座らせる。
「一応、君が来た事は、担任の先生に伝えておくわね。君はここで休んでいて」
ケイコ先生はそう言って、僕に背中を向けた。
ケイコ先生はいつも優しかった。たぶん僕の母と年齢は同じくらいだけど、母とは違い、年齢に見合った落ち着きがあって、いつも僕を安心させてくれた。
大人の余裕という奴だろうか。だから僕は、ついその背中を頼ってしまう。
「あの、先生。ツグミって……知りませんか?」
きっとケイコ先生ならば、僕のこの不安も癒してくれるはずだ。そう願った。だけど、振り返ったケイコ先生は、首を傾げた。
「ツグミ……? 鳥の名前?」
「いや、たぶんなんですけど、人の名前です」
「うーん、ツグミちゃんって子なら、学校に何人かいそうだけど……。苗字は分からないの?」
「はい……。そもそも、この学校の生徒かどうかも分かりません」
「そっか……」
ケイコ先生は、困った顔をした。僕はその顔を見て、悪い事をしてしまったと、少し後悔した。大人を困らせる子供など、ただ煩わしいだけだ。でも、優しいケイコ先生は、そんな僕を邪険にはしない。
「職員室へ行ってくるから、ついでに生徒名簿も見てくるわね」
微笑むケイコ先生は、綺麗だった。大人びた化粧が、白衣の白さとよく見合っていて、細長い体躯は、女性らしく、官能的だった。
だから僕は見惚れて、全てを受け入れようとする。ケイコ先生に任せておけば大丈夫。
「じゃあ、先生は席を外すけど、君はしっかりそこで休んでいてね。絶対よ、絶対」
ケイコ先生は、僕の身を案じてか、最後にそう念押しして、仕切りカーテンを閉めると、保健室を出て行った。
僕は、ケイコ先生に言われた通り、上履きを脱ぎ、ベッドに横になる。
流石に眠気は訪れなかった。でも、心身は徐々に落ち着き始め、さっきまで感じていた不安が、少しだけ安堵に変わろうとしていた。
そして、そっと目を閉じ、念じる。僕は大丈夫。僕は——。
しかし、そんな僕の安心感をぶち壊すように、急に保健室のドアが開けられた。その乱暴さから、ケイコ先生ではないと思ったが、あまりの音の大きさに、僕は直ぐに上体を起こした。
「だ、誰?」
僕が聞くと、仕切りカーテンの向こうから、少女の声が返ってきた。
「にゃははー! 誰でしょーか?」
少女の声は、とても楽しげで、底抜けに明るかった。でも、少しだけ残忍さがあって、そして、僕はその声に聞き覚えがあった。
「き、君は——」
名前は出てこなかった。だから、僕はベッドから下りて、仕切りカーテンに手を伸ばす。少女の姿を見れば、名前を思い出せる様な気がしたからだ。しかし、僕がカーテンを開ける前に、少女が言った。
「君は、こんな所で何をしてるのかにゃー? 私と一緒に、悪魔と戦うんじゃなかったのー? 何で、悪魔の言いなりになってんのさ。呆れちゃうなー」
悪魔……? 何の話だ?
しかし、僕が訝しく思っている間に、少女は話し続ける。
「君は悪魔を葬る正義の執行人なんでしょ? 悪魔に騙されちゃ駄目だよ。悪魔は絶対、君を滅ぼすから。——ほら、窓の外を見てごらん。悪魔が君を捕まえに来たよ」
「悪魔って何?」
「それは自分の目で確かめてみてよ。ばいばーい」
「ちょ、ちょっと待って、君は——!」
僕は少女の気配が遠ざかっていくのを感じて、慌てて仕切りカーテンを開けた。でも、既にそこには誰もいなかった。
彼女は……一体、誰だったんだろう。
僕は誰もいなくなった保健室で、誰かがいたかもしれない痕跡を感じようとした。でも、何も感じなかった。少女の匂いも、遠ざかっていく足音も、声の残響も、何もなく、始めから誰もいなかったかの如く、保健室は静かだった。
それでも、僕の頭の中には、少女の言葉が残っていた。
——悪魔。
それが何を指しているのか、僕には分からなかった。でも、確かにそれを葬らなければいけないという使命感が湧いた。
僕は何かと戦っていた。
いや、僕は悪魔と戦っていた。
でも、何で?
というか、悪魔とは一体何なのだろうか。
僕は誰もいない静かな保健室で、独り呆然としていた。
すると、視界の隅で、赤く光る何かが見えた。視線を向けると、校門前にはパトカーが停まっていた。
何故パトカーが学校に来たのだろうか。
そう思っていると、パトカーへ向かっていく教師らが目に留まった。その中には、先程保健室を出て行ったケイコ先生もいて、不意に少女の言葉が思い出される。
ほら、窓の外を見てごらん。
悪魔が君を捕まえに来たよ。
そうか……。
パトカーは僕を捕まえに来たのか。
という事は、悪魔とは、警官の事——否、違う。悪魔とは、僕を差し出そうとしている教師の事——否、それも違う。悪魔とは、大人の事だ。大人は、悪魔なのだ。
ケイコ先生は、言っていた。僕にここにいるように、と。しかし、それは僕の身を案じて言ったのではない。僕をこの場に留めておき、警官に僕を突き出すために言ったのだ。
ケイコ先生の優しさも、大人びた笑顔も、官能的な体つきも、全ては僕を——子供を騙すための嘘だったのだ。初めから、僕の事など憂いてはいなかった。そもそも、僕とは敵対していたのだ。子供を騙すとは、なんと忌々しい事か。
でも、良かった。
僕はあの少女の助言のおかげで、悪魔の画策に気付けた。それは不幸中の幸いだ。
あっ、そうか。分かったぞ。
もしかしたら、彼女が「ツグミ」なのかもしれない。




