15.正代(2)
気付けば、僕は暗闇のなかで倒れていた。
背中からは、昼間の熱を失った冷たいコンクリートの感触が伝わってきて、そこが外であると気付く。更に目を開け、身体を起こしてみると、自宅の前だった。
「あれ……僕は一体……」
記憶がなかった。僕はさっきまで何をしていたのだろうか。わからない……。無理に思い出そうとすると、頭痛がした。
僕は自身の状況が理解できないまま、とりあえず立ち上がって、自宅へとあがる。
リビングには、母がいた。母はいつものように缶チューハイを飲みながら、深夜番組を観ていた。
「あんた、またどっか行っていたの?」
「ああ、うん……」
僕は自分でもどこへ行っていたのか分からず、曖昧に頷き、台所へと進む。
「あんま夜に出歩かないでよ。お巡りさんに補導されたら、どうすんのよ」
「うん……」
お巡りさん——何となく、その言葉が引っ掛かった。僕は過去に警官に声を掛けられた事がある。そんな気がした。
でも、思い出そうとすると、頭痛がするので、何も考えず、冷蔵庫を開けた。冷蔵庫には、チーズケーキが入っていた。
「あー、それさ。あんたのだよ。泰弘さんに貰ったの」
「泰弘さん?」
「あれ、言ってなかったっけ? 私の彼氏だけど?」
そう言えば、母はその泰弘という男と交際しているのだった。とても穏やかな人らしいが、僕は好かない。だから、牛乳だけを取って冷蔵庫を閉めた。
「いらない」
「あっそ。なら、明日、私食べるわ」
コップに牛乳を注いでいると、ふと思った。
そう言えば、泰弘、という男の苗字は何だっただろうか……。いや、何でも良いか。
牛乳を一気飲みすると、母も丁度缶チューハイを飲み終えて、席を立った。そして、台所へ来て、僕を見るなり、目を大きく見開いた。
「あんた、何してきたの?」
「何って? 別に」
「別にって、あんた。服がやばい事になってるんだけど」
「やばい事?」
僕は母に言われて、自分の衣服を見下ろした。僕は学校の帰りに、そのままどこかをふらついていたらしく、白い夏服を着ていた。
しかし、その夏服には、無数の赤い染みが出来ていて、それはまるで何かが飛び散ったように広がっていた。例えるならば、返り血のようだった。
「うっわ、何これ?」
「あんた、まさか……」と母が眉をひそめたので、僕は慌てて首を振る。
「ば、馬鹿な事言うなよ。何もしてねぇから」
「まあ、そうよね。なんか甘いニオイもするし、食べ物かしら?」
「た、たぶんな」
しかし、僕は甘い物があまり好きではないから、食べ物であるとしても、それはそれで不自然だった。
とりあえず僕は、母が「洗濯するから」と言うので、服を脱いだ。母は、汚れた制服を持って、ほろ酔い加減でリビングを出て行く。しかし、すぐに戻ってきて、ドアから顔だけを出した。
「ついでに、ズボンも洗うから、脱いで洗濯機に入れといて」
「ああ、うん」
僕が頷くと、母は直ぐに顔を引っ込めた。
僕は仕方なく、洗濯機のある脱衣所へと向かい、ズボンを脱いだ。でも、洗濯機に入れる前に、ポケットに何か入っていることに気付く。
出してみると、それは「小瓶」と「紙切れ」だった。
紙切れには、可愛らしい丸文字でメモが書き記してあった。
『やばくなったら、悪魔にコレをかけて。ツグミ』
ツグミ……?
僕はその名を知っていた。知っていたけど、頭痛がして思い出せなかった。
次に小瓶を見てみる。手に収まる小瓶には「聖水」と書いたラベルが貼ってあった。その中身が何なのか、僕には見当も付かなかったが、何故か今は確認すべきではないと思った。
自室へとあがり、寝間着に着替えると、すぐに眠気が襲ってきた。たぶん僕は酷く疲れていた。どこか遠い世界を旅してきたような疲労が溜まっていて、ベッドに横になると、布団を被る事も出来ないまま、眠ってしまった。
夢は見なかった。
朝、目覚めると、昨夜の頭痛は僅かに残っていたが、疲労の方はほとんど癒えていて、身体を起こすとすぐにリビングへ下りた。
リビングでは、母が寝間着姿のまま、食パンを頬張っていた。
「おはよー。あんたもパン食べる?」
「いらない。——ていうか、今、何時?」
僕が首を振ってから聞くと、母はリモコンに手を伸ばして、テレビの電源を入れた。テレビでは、朝の情報番組をやっていて、画面の隅の方には、時刻が表示されていた。
「7時5分。あんたにしたら、随分と早起きじゃん」
母はそう言って、最後の一片を口に放り込んだ。
いつもの朝だった。何も変わりなく、平凡で、とても現実的だった。
しかし、だからこそ、記憶がなくなっている事に違和感を抱く。平凡な日々ならば、何故僕は記憶をなくしているのだろうか。昨日……いやここ数日、僕は何をしていたのだろうか。どうしても思い出せなかった。
僕がリビングの入口で立ち尽くしていると、母が席を立った。
「どうしたのよ。ぼーっとしちゃって」
「いや、別に……」
僕はどう説明すれば良いのか分からず、一旦は首を振った。しかし、他に頼れる人もおらず、結局、僕は食器を片付け始めた母の背中に聞いた。
「あのさ、記憶が飛んじゃう事ってある?」
「え? 何? もしかして、昨日お酒飲んだの?」
母は重ねた皿を抱え、訝しげに僕を見た。
「いや、そんな訳——」と僕は言いかけて、もしかしたら、母の言う通り、昨日飲酒をしてしまったのではないかと思った。
それで記憶が飛んでいるのも、頭痛がしていたのも頷ける。でも、そうだとして、それ以前の記憶が飛んでいる事はやはりおかしく思え、僕は、確信はなかったけれど、かぶりを振って否定した。
「たぶん違う……と思う」
「ふうん」と母は口をへの字にした。それから少し考えて、長い髪をかき上げる。
「わっかんなーい。なんか、嫌な事でもあったんじゃないのー」
息子の相談を無下にする薄情な母は、そのまま抱えていた皿を持って台所へと行ってしまった。僕はそんな母の背中を一睨みしてから食卓につく。
食卓につくと、母が牛乳を持ってきた。
「牛乳くらい飲んでいきなさい」
命令口調が些か気になったが、僕は気のない返事をして牛乳を受け取った。
「ああ、うん……」
それから何気なくテレビを見遣る。テレビでは、丁度、気象情報が終わり、アナウンサーが昨日の出来事を読み上げ始めていた。
「昨夜、○○市で男性の遺体が発見されました。亡くなったのは、この家に住む『久世康弘』さん、43歳。死因は、頚動脈を鋭利な刃物で切られた事による出血死です——」
その瞬間、何かが崩れ落ちる音が聞こえた。それはまるで、ガラスが粉々に砕け散ったような音だったが、振り返ってみても、室内に乱れた様子はなかった。
それから幾許かして、母が掠れた声を漏らした事で、音の正体が判明する。
「そ、そんな……や、泰弘さん……」
音の正体は、母の精神が崩れ落ちる音だった。
久世康弘——。
それは、母の恋人の名前だった。
母は恋人の死を知り、驚愕していた。顔の色は抜け、口を閉ざす事も出来ず、瞬きも忘れて絶望していた。
僕には、その精神状態を察することは出来ない。ただ、大人は憎らしいけれど、僕は母に同情したし、久世康弘という男の死を、少しばかり無念に感じた。
確かに僕は、久世が嫌いだった。
でも、だからと言って、死に値すべき人物ではないと思っていた。悔しいけれど、彼の存在は、母を支えていた。それは子供の僕では出来ない事で、それは男女の仲だから成し得る相互関係だった。
「母さん……」
僕は母に何と声を掛ければ良いのか、分からなかった。むしろ、今は何も声を掛けるべきではないような気がした。
そっと静かに見守る。
絶望を咀嚼し、現実を受け入れる。
その時間が今の母には必要な気がして、僕は席を外した。




