14.正代(1)
「あーあ、なんだか拍子抜けだね。最期の言葉が、『家族』だなんてさ」
ツグミは、血溜まりの中で亡骸となっている久世を見下ろし、肩をすくめた。彼女は人が死んだというのに、全くその重さを感じていないようだ。まるで、遊び飽きた玩具が壊れてしまったかのように軽薄だった。
「もう帰ろっかなー」
飽きてしまったツグミは、久世の亡骸から目を離し、先に寝室を出て行った。残った僕は、しばらく久世を見詰めた。見下ろすのではなく、膝を曲げ、なるべく目線を下げて久世を見詰めた。
まだ液体のままの血は生々しかった。見ていると、今になって、手が震えてきて、悪寒を感じた。
もしかして、僕は後悔しているのだろうか。
そんな事を思うと、久世が最期に言っていた言葉が思い出された。
ボクらは家族に——。
その先は何を言おうとしていたのだろうか。
手をかける時は、話など聞く必要はないと思っていたが、今更になって何故か気になった。もう聞けないと思うと、やはり聞くべきだったと思った。何だか、嫌な気分だ。
僕はさっさとこの場から離れようと思った。久世の亡骸の前にいると、自分の正義が霞んでしまう様な気がしたからだ。しかし、立ち上がろうとしても、一旦曲げてしまった膝は簡単には伸びなかった。脚も震えている。やはり僕は後悔しているのかもしれない。
僕が久世の前で動けないでいると、先に出て行ったはずのツグミが戻ってきた。
「ねえねえ!」
ツグミは、さっきまでの退屈そうな表情ではなく、もう顔を明るくさせていて、何か面白い事を閃いたようだった。
「良い事思いついたの! というか、忘れていたのを思い出したの!」
「何を?」
「今回さ、君、私の血を舐めてないよね!」
そう言えば、そうだ。
僕は、青山の悪事を暴いた時も、父が交通事故に遭った時も、ツグミの血を舐めていた。そして、彼らの半生を疑似体験していた。それが今回、久世の半生を知る前に、僕は奴を殺した。
「今からでも舐めてよ。きっと面白い事が分かると思うの!」
今更だけど、僕はツグミの言う通り、彼女の血を舐めて、久世の半生を知るべきだと思った。
そうする事で、奴の悪事を再確認でき、やはり殺して良かったと思えるだろう。そして、この訳の分からない後悔からも解放されるだろう。
「わかった。舐める」
僕は頷いた。でも、まだ脚には力が入らず、立ち上がることは出来なかった。
「ごめん、脚に力が入らないんだ」
僕が言うと、ツグミは「楽し過ぎて、腰が抜けるって事よくあるよね」と笑いながら言ったが、そんな事よくあるのだろうか。そもそも、人殺しは楽しくない。やはり彼女は狂人だ。
「じゃあ、ちょっと待ってね」
ツグミはそう言うと、またスカートのポケットからカッターナイフを取り出した。そして、何の躊躇いもなく、まるで歯磨きや洗顔をするように、習慣化された手付きで、自分の手首を切った。細腕に血が滲み、見ているだけで寒気が強くなる。
「はーい。じゃあ、舐めてー」
ツグミは血が滲む腕を僕に近づけた。僕は少しの躊躇いを感じつつも、彼女の腕をとって、その血を舐めた。
甘い……?
自分でも信じられなかった。でも、不思議な事に、鉄臭かったツグミの血は、ほんのりと甘くなっていた。
いつか彼女が言っていたように、僕は益々まともじゃなくなっているのだろうか。
きっと僕は、もう戻れない所まで来ている。
そして、それを歓迎するように、ツグミが笑った。
「どう? 甘かった?」
「うん。少しだけだけど、甘かった」
「にゃはは! 血が甘いとか、もう君は変人だね」
いいや、僕はもう狂人だろう。
まともじゃない所か、狂って、狂って、狂いまくっている。その証拠に、遅れて感じてきた胸苦が心地よいと思ってしまう。このまま死んでしまってもいいとすら思う。
だけど、僕はこの程度で死なない。久世の半生を知り、きっとまた目覚める。だから、目覚めた時、後悔していない事を願う。
病室の前に、背の高い男がいた。
久世だ。
久世の脇には、幼い少女がいて、ふたりは手を繋ぎ、呆然としていた。
久世の妻であり、少女の母親が死んだのだ。
しかし、まだ幼い少女は訳も分からず、泣いている父親を見上げる。
「パパ。なんで泣いているの?」
久世は涙を拭って答える。
「パパは悔しいんだ。ママが死んで、パパは悔しいんだよ」
娘は理解出来ず、首を傾げた。でも、泣いている父を見て、自分も悲しくなって、一緒に泣いた。
久世の妻は自殺だった。でも、久世には何故、妻が死んだのか分からなかった。
妻には贅沢をさせてきた。ブランド品を買い与え、高級車やマンションなども買った。妻が欲しいと言わなくても、久世は女性の欲しがるような物を何でも買った。
それだけではなく、家事も一切しなくていいように、家政婦を雇い、妻には楽をさせてきた。妻が遊んで暮らせるように久世は尽くしてきた。でも、妻は「疲れました」と書き残し、死んだ。それの意味が分からず、久世は苦悩した。
娘が10歳になった。久世は妻が死んでから、今度は娘に贅沢をさせてきた。子供は素直で、欲しい物を次々に挙げてくれるから、久世も買い与え易かった。
しかし、ある日を境に娘は、欲しい物を言わなくなった。何を聞いても、「いらない」と言う。具合が悪いのかと思って、医者に診せた事もあったが、娘の身体は至って健康だった。
娘は中学にあがると、久世と口を利かなくなった。久世はショックで、若い女性が好きそうな物を何でも買った。しかし、娘は全て受け取らず、そのうちに目も合わせなくなった。
久世には理解できなかった。これだけ尽くしているのに、何故自分に振り向いてくれないのか、考えても、考えても、分からなかった。お金があれば、何でも解決できるはずなのに、何も解決できなかった。
そして、久世はどうしても娘を振り向かせたくて、娘の友達を金で買った。
それも一人ではなく、娘とほとんど口を利いた事がないようなクラスメイトも金で買った。ついでに、担任の教師も買った。だから、娘の周りには、久世が金で用意した人間ばかりになった。
勿論、そこには友情もなければ、情熱もない。ただ彼らを繋げているのは、金だけだった。
しかし、娘はそれでも久世に振り向かなかった。それどころか、周りが父親と繋がっている事を知り、娘の精神は崩壊した。
娘は15歳の誕生日を前にして、自らで命を絶った。
久世はまた泣いた。
悔しくて泣いた。
自分は懸命に、娘に尽くしてきたはずなのに、何故娘が死んでしまったのか分からず、泣いた。
独りになった久世は、もう自暴自棄になった。孤独を癒すため、色んな女性に手を出した。
勿論、皆、金で買った。簡単だった。金を払えば、皆、裸になったし、従順だった。ただ一人の女性を除いては——。




