11.久世(4)
僕はどこかを彷徨っていた。今が何時なのか、ここがどこなのか、そんな事はどうでも良かった。とにかく僕は、大人が許せなかった。
「ちょっと君」
彷徨っていると、ふたりの警官に呼び止められた。ひとりは年配の警官で、もうひとりは新米なのか、幼い顔立ちの警官だった。
「こんな時間に何してるの?」
警官が僕の行く手を阻む。見上げると、警官の眉間には皺が寄っていて、とても険しい顔をしていた。まるで子供を叱る親のようだ。いかにも、傲慢な大人らしい。
「君、今が何時なのか分かってんの?」
「今……?」
周囲を見渡してみる。すると、いつの間にか、街には灯かりが点っていて、青かった空は漆黒になっていた。
「深夜1時だよ。靴も履かないで、こんな所で何しているの?」
足元を見てみると、確かに僕は靴を履いていなかった。今になって足底が痛む。
「僕は……何をしているんだろう……」
今日一日、自分が何をしていたのか思い出せなかった。母と共に家を出て、学校へ行って、ツグミに会って、その後は……。
僕が回想していると、警官らは互いに顔を見合わせて小声で会話を始めた。
「この子、何かヤバくないっすか? クスリですかね?」
「さあ、どうだろう。虐待の可能性もあるけど、目は虚ろだし、まともではないだろうな」
「そうッスね。とりあえず、連れて行きますか?」
「ああ。そうだな」
まともではない……。
その言葉だけが僕の頭の中に残った。
僕はまともじゃない。
僕は、大丈夫……じゃない?
僕は薄汚い油……。
そんな言葉が連想されていくと、途轍もない焦燥感と怒りが込み上げてきた。
大人は皆、僕を蔑む。まともじゃないと見下し、嘲笑う。それは誰一人として、例外はなく、大人は皆、悪なのだ。
悪を討つ事は正義だよ。
それは誰が言っていたのだろうか。
——そうだ、ツグミだ。
ツグミが僕に教えてくれたのだ。悪と正義の違い。それは即ち、大人か子供か、ということ。大人が悪で、それを討つ子供は正義。
やっぱりツグミは正しかった。彼女を少しでも疑った僕が間違っていた。
だったら、悪を討たなきゃ。悪を殺さなければいけない。
僕は警官らが会話をしている間に、そっとポケットに手を入れてみた。すると、そこには、硬質で冷たい何かが入っていて、僕はそれがすぐにカッターナイフであると分かった。
もしかして、ツグミが用意してくれたのかもしれない。
僕は勝手にそう思い、彼女にお礼をしなければならないと思った。そのお礼とは目の前の悪魔を葬る事。僕は態度で彼女への忠誠を示さねばならない。
僕はポケットからカッターナイフを取り出した。そして、ゆっくりと刃を伸ばしていく。しかし、途中で新米の警官が異変に気付いて、僕を見た。
「ん? ちょ、ちょっと君。何をしているんだ!」
警官はすぐさま姿勢を低く構えた。もう一人の年配の警官も異常事態を察知して、僕を見る。
「き、君! それを仕舞いなさい!」
だけど僕は無視した。大人が子供の言う事を聞かないように、子供も大人の言う事を聞く必要はない。
「お巡りさんたち、悪い人だね」
「やっぱり、君、クスリを——」と新米警官が言いかけた所で、僕はもう動き出していた。
僕はこれまでにない動きを見せた。まるで電光石火の如く、素早く相手の懐に潜り込むと、カッターナイフで内腿を切裂いた。
鮮血が迸り、新米警官は切られた腿を抑えて地面に崩れる。
「ああッ! 脚が——!」
「おい、大丈夫か!」と年配警官は倒れた仲間を見たが、僕は既に次の構えに入っていて、年配警官が僕を視認した時には、既に首元にカッターナイフの刃を押し当てていた。
「や、やめなさい……」
命令口調が如何にも大人らしい。子供を見下している証拠だ。対等であり、尚且つ、助けて欲しいのであれば、敬語を遣うべきだろう。尤も、それが出来ないから悪魔なのだけど。
「や、やめ——」
年配警官が言いかけた所で、僕はもう喋れなくしてやった。先程よりも大量に血が溢れ出し、それは優しい月光に照られた。
でも、液体に反射する光は赤くて、優しさなど微塵もなかった。まさに残酷。しかし、そうさせたのは大人だ。僕は悪を討ったまで。僕は正義なのだ。
「クソぉ! 許さねぇ!」
地面に倒れていた新米警官が、痛みに顔を歪めながら立ち上がった。でも、その動力源が単なる怒りであるならば、やはり悪だ。子供のように清い心を持てなければ、如何なる善人だとしても死するべきだろう。いや、それは単なる偽善者か。
僕はカッターナイフを振り、刃に付いていた血を振り払った。そして、よろけながらも腰元に手を伸ばす新米警官に歩み寄る。
「子供だからって、容赦はしない!」
新米警官は、腰元から拳銃を取り出した。だけど、僕がその指を切りつける方が早かった。
「があああっ!」
新米警官は拳銃を構える前に、落としてしまう。そして、憎悪に塗れた目で僕を睨んだ。
「お、お前は一体何なんだ!」
まだ、怖気づいて小便を漏らさないだけマシか。流石、警官と言った所だ。でも、僕が悪魔の質問に答える義理はない。散々、僕をまともじゃないと見下し、耳を貸さなかった報いだ。
僕はそっと右手を振り上げた。そして、その手に収まる凶器で、悪魔をもう一人葬った。
嗚呼、良かった。
結局、僕は深夜のコインランドリーに流れ着いた。そして、そこには宣言通り、ツグミが僕を待っていた。
「やっぱり来たね。私の思った通り」
そう言って微笑む彼女の目に色はなかった。けれど、僕はもうそれを恐れる事はない。
「今朝は悪かったね。全部君の言う通りだったよ」
「んん? 何の事?」
惚けてみせるところが、如何にもツグミらしい。でも、その顔に張り付いている含み笑いは、「そうだったでしょ?」と得意気で、悪魔を葬った僕を、天使のように称えていた。
「ツグミ。僕はもう迷う事を止めたよ。全部、君の言う通りにする」
「えー。どうしちゃったの? 大袈裟だなぁ。でも、ありがとう。なんか嬉しい」
僕は、初めて恥ずかし気に頬を染めるツグミを見た。その顔はやはり可憐で、彼女がまともではないのならば、世界は破滅的におかしい。彼女がまともで、狂っているのは世界の方なのだ。
「ツグミ。次は誰を殺せばいい?」
「えー、別に殺さなくたっていいけど……。次の悪魔はね、私のパパだよ」
「パパ?」
僕が聞くと、ツグミは大きく頷き、歩を進める。
「そう。何番目のパパか忘れちゃったけど、とにかく私のパパ。名前はね——」
そして、僕の目の前に立って、大きく色のない目で僕を見上げた。
「久世康弘」
「久世……」
僕は呟き、両拳を握り締めた。
その名の人物は、今宵、僕の母と共に居る男の名前だった。
そう。僕から母を奪った憎らしい男の名前だ。僕の家庭に土足で踏み入れた、図々しい悪魔の名前だ。
「分かったよ。今から久世を葬りに行こう」
僕がそう言うと、ツグミはいつものように笑った。それは、まるで遠足へ行くかのように楽しげで、純粋だった。
「うん! ワクワクしてきたね! 行こう、行こう!」
彼女にとって人殺しとは、日常の延長線上にある些細な非日常に過ぎないのだ。




