10.久世(3)
学校に着くと、真っ先に屋上へと上がった。
少しばかり教室に行こうかと思ったのだけど、廊下を歩いていると、脚が震えたのだ。情けない事に、僕は教室へ行くのが怖かった。
それでも、少しだけ前に進んでいる様な気はした。いや、誰かに背中を押されている様な気がした。それも優しく。
——そう思っていると、急に背中に強い衝撃を感じ、次いで、底抜けに明るい声が飛んできた。
「おっはよー! 朝から学校に来るなんて珍しいじゃーん!」
振り返ってみると、ツグミがいつもみたいに鼻梁に皺を寄せて笑っていた。
「ツ、ツグミ」
「ねえ、今日なんで学校に来たの? なんか良い事あった?」
「いや、別に何もないけど……」
僕が答えると、ツグミは直ぐに「ふうん」と目を細めた。
「素直じゃないなー。ママに言われたからでしょー」
何故、彼女には僕の心意が分かってしまうのだろうか。やはり超能力者か、狂人を極めて超人になったのか。
僕はもうこれ以上ツグミに心を見透かされないように、金網フェンスに寄り掛かり、空を見上げた。
今日も天気は良かった。
空が青くて、少しだけ暑くて、でもその暑さが心地良い。
空はもう僕を見下してはいなかった。僕をまともな子供のように、眩く照らしていた。
「ねえ、知ってる? 悪人と善人の違い」
空を見上げていると、ツグミがまた訳の分からない話を始めた。彼女と関わると、きっとロクなことがない。そう思いながらも、僕は何故か彼女を無視できなかった。
「どうだろう。両者に明確な違いがあるとしたら、悪か正義か、くらいじゃない?」
「半分正解だね」とツグミは色のない目を細めて笑う。
それから彼女は少し歩き、いつかのように金網フェンスに手をかけた。それはまるで、フェンスにしがみ付いている様だったが、もしかしたら眼下に広がる街を見下しているのかもしれない。天空にいる神の如く。
「じゃあ、悪と正義を区別するのは何だと思う?」
「それは……」
問われると分からなくなった。いや、そもそも、そんな哲学的な事が僕に分かるはずがなかった。
だから、「気持ち?」と僕が当てずっぽうに答えると、ツグミは少し笑っただけで、何も言わなかった。
しばし初夏の温い風が流れた。風上にはツグミがいたが、彼女からは何の香りも漂ってこなかった。まるで彼女は存在していないみたいだった。
風が止むと、ようやくツグミが口を開いた。
「ほら、見て。あそこのマンション。今、人が殺されたよ」
「えっ?」
僕が慌てて彼女の指す方を見遣ると、そこにはマンションが幾棟か並んでいた。しかし、この距離では、殺人が起こったのかどうかは、分からない。
僕が困惑した顔をしていると、ツグミは指を立てて、得意気に言った。
「さて問題です。殺人者は、悪人か善人か」
「……あ、悪人」
唐突な問いに僕が首を傾げながら答えると、ツグミは大きく頷いた。
「そう。正解! 人を殺しちゃいけないって、誰でも知っているよね。だったら——」と言って、今度は顔を引き締める。
「大昔の武将とかサムライとかは、どうかな? たくさん人を殺しているよね?」
「悪人かな……?」
「ふうん。だったら、殺された人が、チョー悪い人で、誰かを守るために、人を殺しちゃったら? 今が戦争中で、敵をたくさん殺すのは? 皆、悪人かな?」
「……どうだろう」
次第に僕は自信がなくなっていった。やはり、僕には哲学的な事は分からない。でも、ツグミは自分には分かると言わんばかりに話を続ける。
「悪なのか、正義なのかは、時代やその時の状況、人の見方によって変わるんだよ。だから、もし仮に、君が誰かを殺したとしても、必ずしもそれは『悪』ではないんだよ。むしろ、悪を討つ事は正義だよ」
ツグミの言い草は、まるで僕がこれから殺人を犯すみたいだった。
そんなはずがないだろう、と思ったが、視線を落とすと、自分の手が血に染まっていく光景が思い浮かんだ。
真っ赤な血に塗れ、手には凶器が収まっている。僕はそれを、憎しみを握り潰すかの如く、強く強く握っている。僕は——。
「なんてね!」
「えっ?」
僕はハッと我に返る。視線を上げれば、またいつものように彼女が悪戯に笑っていた。
可憐で、純粋で、やはり目に色はない。
その色のない目は、まるで全てを吸い込む闇のようで、まともであろうとする僕の精神を奪っていく。彼女に関わっていれば、僕もいずれ狂人に成り果ててしまう。
君もまともじゃないね。
いつかツグミの言っていた言葉が思い出された。そして、その言葉をすんなり受け入れようとしている自分がいる事に気付いて、僕はかぶりを振る。
たぶん僕は、まともな子供になりたかった。普通に学校に行って、トモダチがいて、母と仲睦まじく過ごす。そんなまともな子供に憧れていた。そして、ツグミはそんな僕を狂人へと引き込もうとしている。
「か、帰るよ」
僕は寄り掛かっていた金網フェンスから身体を起こした。しかし、僕を見上げていたツグミは、幼い子供のように僕を引き留めようとする。
「えー? もう帰っちゃうの? 折角学校に来たんだから、もう少し遊んでいけばいいのに」
「いや、いい……」
僕は小さく首を振って、屋上の出口に向かって歩き出した。
彼女と関わってはいけない。今なら未だ、僕はまともに戻れるかもしれない。
僕が扉に手をかけた時、ツグミが言った。
「今夜もコインランドリーで待ってるよ」
行くはずないだろう。僕はもうあのコインランドリーにはいかない。
そう思ったが、ツグミは僕の思いなど気にもせず、付け加えた。
「君は必ず来る。必ずね」
ツグミが悍ましく笑っているような気がした。可憐な表情ながらも、色のない目を細め、狂人らしく笑っている。だから僕は怖くて、彼女を見られなかった。
「さよなら」
僕は背中を向けたまま、そう言い置き、屋上を後にした。
家に帰ると、まだ昼前だった。
陽は高く、眩しかった。だから、僕は自分に言い聞かせる。
大丈夫。空は僕を見守ってくれる。日光は僕を優しく愛でてくれる。
とは言え、引きこもりの僕にとって昼間の日光は刺激が強過ぎて、自室に籠ると、すぐにカーテンを閉めた。
「大丈夫。僕は、大丈夫。僕は、大丈夫……」
いつの間にか、僕はそんな言葉を呪文のように繰り返していた。でも、自分では気付けず、不意にスマホが鳴って、ようやく僕の呪文は止まる。
母からのメッセージだった。でも、何故か見る前から、胸がざわついた。
さっきまでツグミと会っていたせいだろうか。良くない事が思い浮かび、スマホがダンベルのように重く感じた。でも僕は画面を開き、メッセージを確認する。
『今夜、泰弘さんに呼ばれちゃった。やっぱり、やり直したいんだって。だから、ご飯はまた今度行こうね』
大人はすぐに嘘を吐く。




