9 楽屋裏の彼女
どちらともなく、雅雄とツボミは歩き出す。早くこいつと別れたいと、双方が思っていた。
「昼休みは本当にごめんね。破かれた手紙見たら、いてもたってもいられなくなって……」
「僕の方こそ本当にごめん。事故とはいえ、あんなことしちゃって……」
雅雄とツボミは改めて謝罪を交す。ツボミは堂々とない胸を張って笑みを浮かべていたが、なぜだろう、どこか無理している感があった。
「それじゃあ、この件はこれで終わりね。これからは仲良くしようじゃないか」
そう言ってツボミは握手を求め、手を差し出してくる。雅雄は遠慮がちながらも応じ、ツボミとガッチリ握手をする。
ツボミは馬鹿な男子のように握力で雅雄の手を握りつぶすとかいう蛮行をしなかった。ツボミは白くて細い指でしっかりと雅雄の手を包んだ。すべすべで、ひんやりとした、女の子の手。ドキドキしてしまった自分がちょっと嫌である。
「そういや君、小学校はどこ出身? ボクは南なんだけど……」
「僕は東だよ」
「そうなんだ! ボクの家は○○団地の東の端でね、小学校は南小と東小を選べたんだ。兄さんが南だったから南にしたんだけど、東はどんな感じだったのかな……?」
雅雄とツボミは雑談しながら教室の方に戻った。冷静になって見てみると、ツボミの表情はわずかに強ばっているし、動きも節々にぎこちなさがある。そんなに嫌なら雅雄と話さなければいいのに、ツボミの基準だとここは普通に会話するのがジャスティスなのだろう。偽物ピエロの大根演技。でも、雅雄だって本物ではないという意味では同じである。ツボミを馬鹿にする気にはなれなかった。
やがて夕方になり、学校は終わる。雅雄は部活も委員会もやっていない直帰コースだ。何やら靴箱の前が騒がしいと思ったら、ツボミと数人の女子がたむろしていた。
「キャー! 王子、私にもやって!」
「これくらいなら、いくらでもお安いご用さ!」
そんなことを言ってツボミはその女子に女オタ的な意味で壁ドンする。
「この剣に誓って、君を守るよ……!」
ツボミは木刀を握りながら自信ありげに微笑む。それは王子というより騎士ではないのか……。キャラがブレブレである。
とはいえ背が高く美形なツボミの壁ドンは、なかなか様になっていた。少女漫画のワンシーンといわれても信じてしまいそうだ。木刀で脅しているようにも見えるが、そこからは目を逸らす。一瞬周囲が静まりかえった後、女子たちの嬌声が響いた。
「私、王子だけを見るわ!」
「王子、かっこいい!」
「朝、藤井さんのために戦ってくれたのも凄かった!」
「やっぱり王子は私たちの王子よ!」
雅雄は異世界の出来事のようにその光景を眺める。どうして風紀委員は何も言わないのだろう。先生も注意した方がいいのではないか。
雅雄がぼんやりしていると、静香が隣にやってきて言う。
「『私たち』っていうのがポイントね。面白がってるだけで、誰も本気で慕ってなんかないのよ。裏では結構嫌われてるし」
「そ、そうなんだ……」
少なくとも静香は嫌っているらしい。雅雄だって、トイレにこそこそ一人で行っているところを目撃している。好かれている人間の行動ではあるまい。
「だいたい、本当に人望があるなら部活とか委員会とか生徒会とかで、何かしらやってるはずなのよ。あの子は今、そういうこと一切してないからね。一回風紀委員に入ってるけど、やめさせられてるし。私の方が上だわ」
確かに、生徒による自治組織の力が強いこの学校で何もしていない者というのは、雅雄のようなはぐれ者くらいだ。静香によるとツボミは、いくつかの女子グループに所属しているような、していないような状態らしい。完全に一人ではないが、どこに行ってもお客様扱い。「浮いている」というのが適確なポジションである。
「静香ちゃんは美化委員長だもんね……」
雅雄は否定することなく適当に相槌を打ち、静香はニッコリと微笑む。
「そうね。ああいうのを叩きのめして校内を美化しないと。だから雅雄、もし香我美さんなんかに惚れたら……」
言いながら静香は雅雄を壁際に追い詰め、ドンと壁を叩く。
「殺すわよ?」
同じ壁ドンでもツボミと違って無茶苦茶に乱暴で、正直怖い。恐怖で青ざめながら、雅雄は首を振って必死に叫ぶ。
「惚れない! 絶対惚れないよ!」
言われなくてもありえないだろう。だって雅雄が好きなのは、特別な本物の彼女なのだから。
雅雄から言質を取った静香はニッコリと笑い、軽く抱きついてくる。
「やっぱり私の雅雄はいい子ね。大好きよ」
静香も一応は女子なので、柔らかいしいい臭いがする。雅雄はドキッとするが、多分に心臓に悪いという意味が含まれてしまう。当たり前だ。このまま流されていたら、何をされるかわからない。
「ちょ、静香ちゃん、離してよ……」
若干顔を引きつらせながら雅雄は静香から離れようとする。静香はなぜか上機嫌で、とんでもないことを言い出す。
「雅雄、私のことなら好きになってくれてもいいのよ?」
「いや、それはないかな」
思わず即答してしまった雅雄の耳元に、ドスの利いた声が響く。
「ハァ!?」
「な、なんでもない! なんでもないです!」
雅雄は激しく首を振りつつ、這々の体で逃げ出すしかなかった。