9 道場
「へぇ、姉さんに誘われたんですか。是非、行ってあげてください」
終業のチャイムと同時に教室から出た雅雄は、冷司とばったり会った。雅雄は冷司と雑談し、そのうちにツボミも加わる。
「雅雄がボク以外の女の子と過ごすなんて、ほんと妬けちゃうなぁ」
ツボミはそんなことを言って、いたずらっぽく笑う。冷司は苦笑いを浮かべつつ、真面目に応じる。
「まぁまぁ、そう言わずに。姉さん、自分がやりたくなってるんですよ。だから、いいきっかけになってあげてください。弟としての私のお願いです」
「うん、今さら行かないなんて言わないよ」
雅雄も、少しやる気になってきていた。ネット対戦ではそこそこ勝っているし、火綱が相手でもいい勝負にはなる。リアルでも結構勝てるのではないだろうか。
そうして待っているうちに、火綱はやってきた。昼休みとは打って変わって上機嫌だ。そのまま空を飛んでしまいそうなくらいウキウキした様子である。
「雅雄、待たせたわね。さぁ、行くわよ」
「うん」
雅雄は火綱の後ろについて、新しい世界への一歩を踏み出す。期待と不安は半々といったところか。冷静に自分の精神状態を把握しつつ、雅雄は火綱に連れられて歩く。
駅で電車に乗り込み、東京方面に向かう。東京までは行かずに途中の地方都市で降りて、またしばらく歩く。そして雅雄は古びたビルにたどり着いた。すでに日は暮れて、いい時間になっている。
中は改装済みのようで、そんなに汚くはない。火綱はすいすい歩いていき、エレベーターに乗って四階まで上がる。そうして学習塾のような雰囲気のフロアに出た。
火綱は迷いなく廊下を進んでいき、ある部屋の前で立ち止まる。一度火綱は部屋の前で深呼吸をしてから、勢いよくドアを開けた。
「失礼します!」
中では何組もの人が、将棋盤を挟んで向かい合っていた。その傍らにあるのは時間を計るためのチェスクロックだ。誰も彼もが対局の真っ最中である。
見たところ、来ているのはせいぜい高校生くらいまでで、対局者に大人はいない。今の時間は子どもしかいないということのようだ。もちろん、監督役というか指導者の大人はいて、雅雄と火綱を出迎える。
「火綱ちゃん、久しぶり!」
何人かいる大人のうち、スーツ姿でメガネの中年男性が声を掛けてくる。火綱の知り合いのようだ。火綱は笑顔で応じる。
「こちらこそ、お久しぶりです、井口先生!」
いつもムスッとしている印象の火綱が、尻尾を振る子犬のように嬉しそうにしていた。非常に新鮮だ。
「もう卒業して、来てくれないものだと思ってたけど、嬉しいよ。……こちらの彼は?」
「最近始めて、強くなってきている子なんです。多分、もう一級を超えるくらいの実力はありますよ」
井口先生は、雅雄の方を見る。雅雄はぺこりと頭を下げた。
「平間雅雄と申します。よろしくお願いします」
「こちらは井口先生。プロでタイトル通算十期の、凄い先生よ! 振り飛車なら、現役で最強なのよ!」
井口先生のことを紹介し、火綱は自分のことのように胸を張る。井口先生は苦笑した。
「おいおい、褒めすぎだよ。今は若い子に押されてて、振り飛車でも最強だなんてとても言えないさ。ずっとタイトルにも縁がないしね」
「そんなことないです! 私は、今だって井口先生が一番強いんだって信じてます!」
「ハハハ、期待に応えられるようにがんばるよ。じゃあ雅雄君、さっそくやってみようか! 火綱ちゃん、もちろん君もやるよね?」
「ええ。久しぶりなので、お手柔らかにお願いします」
井口先生は雅雄と火綱の対戦相手を見繕い、それぞれの席に案内する。雅雄の相手は、小学校高学年くらいと思しき少年だった。少年は雅雄を見ておどおどしている。とても強そうには見えない。
(初戦だから……弱そうな相手を選んでくれたのかな?)
(お兄様、油断しすぎよ。どんな相手でも緊張感を持たないと、足元をすくわれるわよ?)
ミヤビの声が頭の中に響く。ミヤビの言うとおりだ。普段通り、しっかりやらなくては。持ち時間はお互い十分だけ。即断を重ねる厳しい勝負になる。
雅雄は気合を入れ直す。しかし最初に抱いた印象のとおり、少年はそこまで強くはなかった。雅雄が前に火綱と指したときのようにガードを固めると見せかけつつ攻めかかると、あっという間に崩れる。どうも、定跡通りに進めようとしたらしい。雅雄の攻めに全く対応できず、少年は程なくして投了した。
あまり間を置かず、次の相手との対局が始まる。今度は雅雄と同い年くらいの小太りの男子だ。落ち着いていて、腕に覚えがありそうな感じである。
今度の相手は、雅雄があえて定跡をはずすような手を指しても動じない。少し怪訝な顔をしながらも、淡々と応じる。こちらに対応しようとして、勝手に崩れたりはしない。しっかりと囲いを作り、自分の将棋を貫こうとする。
ただ、だからといって怖いかというと、そうではなかった。確かに実戦慣れしていて堅実だが、それだけだ。攻めが甘すぎて全くプレッシャーを感じなかった。こちらのミスを待っているに過ぎない。
(こんな感じでどうかな……?)
雅雄が困っている風を装って罠を張ると、嬉々として乗ってきた。雅雄の王も危なくなるが、リスクを冒さずに勝てる勝負などない。
うまく飛車を吊り上げて角で王手飛車両取りの形を作ると、小太りは青ざめた。そこからは一方的である。小太りは途端に逃げ腰になって崩れ、雅雄が一気に勝利した。
(ふぅ……。なかなかきついなぁ……)
雅雄が息をついて勝利の余韻に浸っていると、井口先生がやってくる。
「さすが火綱ちゃんが連れてきただけあって強いね! じゃあ次は、彼とやってもらおうか!」
「……はい、わかりました」
まだまだ雅雄を休ませる気はないらしい。雅雄は井口先生に従い、また席を移動する。




