11 魔法が解けた王子様
「王子、また明日ね~! 明日こそ、私とデートしてよ!」
「うん、また明日!」
「約束よ! 私たちにはツボミしかいないんだからね!」
香我美ツボミは帰り道、交差点で友人と別れる。友人は冗談めかしてツボミにハグしてから帰っていった。もちろん、ツボミも友人も本当に女の子しか興味がないわけではない。ああはいっているが、明日にはまた別の男の話をしているだろう。皆で喫茶店デートでもして、話を聞こう。
ツボミは一人になる。思い返すのは今日の出来事だ。朝、藤井さんのために平間雅雄のところに行って、誤解を解いた。一日一善。自分、がんばった。
(でも昔の兄さんなら、もっともっと輝いてたはずだ。もっとがんばらないと……!)
ツボミは前向きに考えようとするが、朝のことを思い返すならあの件についても思考が及んでしまう。ツボミは雅雄の手によってスカートと短パンをずり降ろされ、みんなに下着姿を見られるという屈辱を味わっていた。
(……彼もわざとやったわけじゃないはずだ。だから怒っちゃダメなんだ……。平間君もちゃんと謝ってくれたし……)
ツボミは自分に言い聞かせるが、ツボミだって女の子である。あのときは恥ずかしくて、泣きそうになって、逃げ出したくなった。しかしみんなが見ている中で、普通の女の子のように逃げ出して隠れるなんて絶対にできない。昔の兄ならパンツを降ろされても関係なく、毅然と対応したはずだ。……コントのような状況にはなってしまうが。
なのでツボミはスカートと短パンを完全に脱ぎ捨てて雅雄を追いかけたが、本当は羞恥心で顔から火が出そうだった。メガミに取り押さえられて彼女の上着で下半身を隠されたときには、正直ホッとしたものである。
(でも、そんなこと考えちゃいけない……。ボクがボクであるために……)
本当は、女の子として泣き叫びたかった。ゲスなお下劣男を糾弾したかった。謝られたけど、雅雄を許したくなかった。握手するときは思わず手が震えたくらいだった。
でも、心のままに行動するとツボミはみんなの王子様ではなくなってしまう。全然かっこよくない、感情のままに泣きわめくただの汚い女になってしまう。それだけは絶対に嫌だった。
そう考えながら歩いていると、自宅に到着した。自宅の車庫スペースには珍しくこの時間に車が止まっていて、玄関の鍵が開いていた。
少し緊張しながら、ツボミはドアを開けて中に入る。
「ただいま……」
返事はない。ツボミは靴を脱いで上がる。
リビングに行くと、兄がいた。兄は携帯電話で仕事の話をしている。
「……はぁ、すみません。フクダコーポレーションの件については後で謝りに行きます……。え? 笠原商事の件? その話には決着がついているはずですが? え、話を聞いた斉藤さんがお怒りで抗議の電話が? はい、申し訳ない。後で謝りに行ってきます……。……ああ、新人の松本君ですか? 彼には高木不動産の件を……。はぁ、全く何もできてない? ……今日私が泊まり込みで片付けますんで、どうか許してくださいと先方に……」
なんだか、謝ってばかりだ。受話機越しには上司と思われる人物の怒号さえ響いてくる。怒鳴られるたびに兄は虚空に向かって何度も頭を下げていた。もう新人でもないのに、銀行員の仕事はそんなものなのだろうか。世間一般でいうところの勝ち組であるはずなのに、全くそんな感じがしない。
電話が終わるのを待って、ツボミは兄に話しかける。
「帰ってたんだね、兄さん! ご飯作るよ! 新しいレシピを試してみたいんだ!」
香我美家には夕食は各自でとるというルールがあった。父は地元企業の重役、母は看護師で兄も忙しい。帰る時間は全員深夜でバラバラ、泊まり込みも珍しくないため、そうなるのだ。
いつもツボミは自分の夕食を自分の分だけ作って、一人で食べていたが正直味気ない。どうせなら誰かに食べてもらうとやりがいがある。家に居るときでもツボミの料理は華がないなどと言って、母はあまりツボミを台所に立たせたがらない。今日はチャンスだ。
「いや、いいよ。すぐに出るから」
ツボミは張り切っていたのに、兄はそっけなく断った。兄はどうやらまた職場に泊まり込みになるようだ。バッグに着替えを詰め込んでいる。
バッグのチャックを閉めて、兄はバッグを担ぐ。帰ってきたばかりだろうに、もう職場に帰るのか。兄はツボミの姿をまじまじと眺めてから、言った。
「……その格好、まだ続けてるのかい?」
金色の飾り紐で装飾された学ラン。ため込んでいたお年玉をはたいて、呉服店を営む親戚に無理を言って用意してもらったものだ。
「もちろん。ボクはみんなの王子様にならなきゃいけないからね」
そう、かつての兄さんのように。ツボミは胸を張るが、兄はツボミに死んだ魚のような目を向けるばかりだ。
「そうか……」
「ボクは昔の兄さんみたいに、かっこいい生き方をしたいんだ」
かつて兄は、今のツボミと同じ格好でうちの中学校・高校に通っていた。生徒会長として学内の問題を大岡捌きで公明正大にばっさばっさと解決し、今も語り継がれているほどだ。現在まで続く、各種委員会による学内自治体制を整備したのも兄である。
当時の兄は皆に慕われるヒーローだった。当時まだ幼かったツボミから見て、大きくて、強くて、かっこいい存在だった。冗談抜きに世界は兄を中心に回っていて、兄は世界を変えていた。あのときの兄のようになりたい。今もツボミはそう思っている。だから苦手な勉強もがんばって、同じ中学に滑り込んだ。
「ああ、もう時間だ……。行かないと……」
ツボミの話に上の空だった兄は、ふらふらと歩き出し、足下のカラーボックスにつまずく。引き出しが落下して、中身が飛び出た。
「ああっ、兄さん、気をつけてよ!」
慌ててツボミは、兄の方に駆け寄る。床に古びた据置ゲーム機が転がっていた。大丈夫。壊れてはいない。
「ああ、済まない」
「本当に悪いと思ってるの?」
ツボミは頬を膨らませるが、兄はぼんやりしているばかりで答えない。
「悪かったよ。もう俺は行くから……」
兄はちっとも済まなさそうな顔をしたまま、ツボミが抱えているゲーム機を一顧だにせず、リビングを出て行った。一人残されたツボミは寂しくつぶやく。
「もう、どうでもいいんだろうな……」
このゲーム機は、ツボミが幼い頃によく兄と一緒に遊んだ、思い出の品だ。当時の兄はテレビゲームが好きで、仲間とゲームを作るなんてこともやっていた。今もツボミは昔を懐かしんでこのゲーム機でたまに遊ぶ。
しかし今の兄は家に帰っても寝ているばかりで、何もしようとはしない。今の兄は、ただの仕事に疲れたサラリーマンだった。かつて見せていたオーラは欠片ほども残っていない。
「……いつか人は変わってしまう。仕方のないことだよね」
ツボミが思い出を美化しているという側面もあるのだろうが、兄は昔とは変わってしまったと思う。十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人というけれど、兄にはぴったり当てはまっていた。かつての兄は一緒に遊んだRPGに出てくる勇者のような存在だったのに、今やしょぼくれた村人Aだ。
仕方がないことだと思う。兄に責任はない。これが現実だ。
「でも、ボクは……」
ああなりたいと思わない。いつまでも輝いていたい。厳しい現実を前に兄が失った全能感や無限の可能性を、ずっと持ち続けていたい。軋みをあげる社会の歯車になんて、なりたくない。
けれども、それはきっと無理だろう。シンデレラの魔法は十二時で解けてしまう。大人になってしまえばネバーランドにはいられない。ツボミがツボミでいられる時間は有限だ。いつまでも「ボク」なんて一人称は使えないし、さすがに高等部では大学受験もあるので普通の制服を着ることになると思う。
永遠がほしい。今のかっこいい自分のままでいられる永遠が。
「ならば、神になる気はないかな?」
突然、背後から声が掛けられる。振り向けば、知らないおじさんが部屋の中に立っていた。いったい何者だ。
おじさんはツボミが驚くのも構わず喋り続ける。
「せっかく旧い友人に会いに来たのだが、もう行ってしまったようだね……。彼はすでにゲームオーバーしているから関係ないんだけれど……。まぁいい。私は君を神を決めるゲームに招待しようと思っているんだ。受けてくれるかな?」




