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落とし物、忘れて

作者: 矢車喜久


  「おかしなこと、言っていると思うかもしれないけど」

 高峰誠司がそう切り出した時、ちょうどファミリーレストランで流れていた音楽が、次の曲に差し掛かった。

「昨日、葵を見た」

 ストローからコーヒーを吸いながら、襟足徹は流れている洋楽のタイトルは何だったかと思った。高嶺誠司は続けて、

「昨日、市立美術館に行ったんだ。そこに葵がいた」

 襟足徹は、大勢の人が集まる場所なら、ある人間に似た顔の人がいても不思議なことではないと思った。世界中には、少なくても三人は同じ顔の人間がいるというではないか。だから襟足は、特に驚いた様子も見せないでいると、高峰誠司の携帯電話が鳴った。黒い紐で金の長方形のプレートにロゴが入っているストラップがついている。折りたたみ式の機種は最近買い換えたばかりだ。電話に出ると、

「悪い。用事が出来た」

「飛び込みか」

「ああ」

 スーツケースを持ちながら、レジのシートを掴む。高峰は新聞記者をしている。何か事件が起きたのかもしれない。襟足も残りのコーヒーを飲み終えると立ち上がる。それぞれ、別々に料金を払うと、そこで分かれる。


 襟足徹は運転をしながら、先程の高峰誠司の言葉を思い出していた。葵を見た、と言った時の彼の表情は、まだどこか夢心地だった。無理もない。簡単に忘れてしまえる筈などないのだから。襟足徹と高峰誠司とは、大学時代からの友人である。そして、先程高峰が見たと言っている真壁葵とは、その高峰と大学時代からの恋人だった人物である。サーフィンが得意な高峰誠司は、当時、割合女性にもてていた。真壁葵も活発で、スポーツ好きの女性だった。女友達と渚に来た時、意気投合し、二人は付き合うようになった。卒業した後も関係は続いていた。だが卒業後の翌年、電車の脱線事故に巻き込まれ、彼女は帰らぬ人になった。余りにも突然で、余りにも早すぎる死。彼女を知っている人間は皆、悲嘆に暮れた。高峰誠司もまた、そうである。一時期は精神不安に陥り、カウンセリングに通っていた。だが、新聞記者という職業が、彼をある程度支えた。高峰は、真壁が巻き込まれた事故を徹底的に調べ上げ、会社の体質や、時刻表厳守主義、線路の定期検査の杜撰さなど、社会問題に鋭く切り込んだ記事を書き上げた。三十人以上が亡くなった大きな事件であった。高峰が勤めている新聞は地方紙ではあったが、その深い洞察力と、愛するものを亡くした執念によって書き上げられたその記事は多くの人の心を動かし、賛同や激励の手紙がいくつも届いた。それが彼にやる気を与え、少しずつ精神不安から脱していった。今では、ほとんど安定剤を飲むこともなくなったほど回復していた。しかし、傷が全く癒えた訳ではない。そうであろう。真壁葵は利発で美しく、最高の女性だった。すれ違いがあったとか、倦怠期を迎えていたとか、そんなことではなしに、唐突に最愛の女性を亡くしたのだ。簡単に立ち直れるわけはない。実際、彼の過去のことをあまり知らないものから見れば、有能な新聞記者としてこれからを有望視されていて、顔もまあまあで、スポーツマンで、社内の女性からの人気も高い高峰は、何もかもがうまくいっている、人生この上なしの男性に見えるであろう。だが、ずっと彼のことを知っている襟足徹などは、高峰がまだわだかまるものを持っていることに気が付く。実際、女性からの人気があれだけある彼が、未だに新しい恋人を作っていないのだ。「葵を見た」そう言った高峰の目は、まだ思い出を彷徨っている人間のものだ。もしもこれがドラマのワンシーンか、ドキュメンタリー式恋愛ヴァラエティー番組なら、襟足徹はあそこで切ないラブバラードを流したいところだ。



 車から降りた。やはりいつの間にかここに来ていた。襟足徹は線路沿いに建てられている、小学生くらいの身長の祠の前に立つ。色取り取りの花が飾られている。ここは真壁葵が亡くなった事故現場である。犠牲になった遺族達を中心に、現場付近の線路脇にこの慰霊碑が作られた。襟足は別にこの場所でなくてもいいのだが、今日は何だかここで会いたいという気持ちがしていた。祠の前にじっとしていると、右隣にうっすらと人影が見える。襟足は、

「葵さん」

 ショートカットで目がパッチリとした、爽やかそうな美しい女性が立っていた。襟足は、

「今、誠司と会ってきた」

 真壁葵は黙っている。

「昨日、あなたを見たと言っていたよ」

 いたずらっぽく、真壁は笑う。

「あいつもまだ、あなたの面影を探しているままだ。葵さんも当分、浮かばれないね」

 じっと真壁は襟足を見据える。悲哀と慈愛を感じさせるような瞳。襟足も周りを見ながら、

「僕もここに来ると、やっぱり思い出してしまう」

 線路は完全に修復されている。脱線した時にぶつかった公園のフェンスも、あの惨状の痕が全く感じられないくらいきちんと直されている。この慰霊碑が無ければ、ここは特に変わったところのないありふれた線路沿いの道だろう。そんなことを思いながら襟足は祠に目を戻すと、いつの間にか真壁葵の姿は無くなっていた。



 襟足徹がこの能力のことを意識したのは、彼が幼稚園の頃だ。入院している母方の祖母を見舞った帰り、襟足徹は何気なく母親に、

「おばあちゃん、真っ黒だったね」

 それを聞くと徹の母親は、

「何言っているの。おばあちゃん、元気がなくて、顔色が悪くて白かったじゃない。どこが黒かったのよ」

 だが徹には、祖母の体全体が黒い影のようなもので覆われているのが見えた。その意味までは分からなかったが、何となくそれが怖かった。だから母に話したのだ。だが、母親の反応を見て、それが人に話してはいけないことだと感じた。しばらくして、祖母は息を引き取った。後から知ったことだが、死期の近い人間の霊魂は黒っぽくなる。病気の人間も、悪い部分などはやはり黒っぽく見える。そのことがあってから、襟足徹は不思議なものを見るようになった。いや、それまでも見ていたのかもしれないが、それを不思議なことだとは思っていなかっただけなのかもしれない。襟足が通っている小学校には、近くに入院施設がある大病院がある。当然、毎日のように亡くなる患者さんがいる。小学校はちょうど、その霊魂が霊界へ行くための通り道に当たるため、襟足はしょっちゅう、学校で霊魂を見た。それらが見えるということが、ある程度特殊な能力だと知ってからは、このことを誰にも言わなくなった。授業中に、今、目の前に火の玉が通ったよ、などと言ったところで何になるのか。霊界へ向かっている霊魂は、ただ通り過ぎるだけなので、何の害もないことが多い。言うならば、道を歩いていて蝶が飛んでいるのを見たのと同じこと。取り立てて騒ぐようなことではない。それよりも、クラスメイトや教師から、変な子と思われる方が怖い。爪弾きにされたり、遠巻きにされたりして孤立するのは寂しい。死んだものより、生きている人間との付き合いが大事だ。だって襟足徹はこの社会に生きているのだから。そんな子供の頃の能力は、大人になっていくと薄れるか、消えることが多いというが、襟足徹の場合は、大人になった今でも霊が見える。格別修行をしたとか、訓練を行ったとか、そんなことはしていないため、自分の思い通りに霊を見たり、呼び寄せたりすることはできない。だから、襟足にとってはこの力は鬱陶しいものだ。自分でコントロールできない半端さが、却って自分を苦しめている。襟足徹が特にそれを思い知ったのは、真壁葵が死んだあの事故の時だ。現場には、余りにも唐突過ぎて、自分が死んだことが理解できていない霊で溢れていた。更に担架等で病院に運ばれている人間にも、襟足にはその人が助かるか助からないということが分かってしまう。それをただ見ているだけしかできないことは辛かった。幽霊達は、遺族の手厚い弔いなどで、自然と自分の死を理解していき、やがて霊界へと旅立っていった。だが、未だに彷徨っている霊魂もある。当時四歳の男の子などがそうだ。彼はあまりにも幼すぎて、死ということ自体が分からない。彼が成仏するには、まだ当分時間が掛かるだろう。その他なら、やはりこの世にやりたいことや未練がある者は、執着心が強く成仏できない。俗に言う幽霊とはこういった成仏できずにこの世に残っている霊魂の事である。これは、死者その人の未練もあるが、周囲の人が、その人の死を諦めきれずに拘っていると、それが足枷になり、霊界へ行けない事がある。どちらかと言えば真壁葵は後者の例になるかもしれない。彼女は今では自分の死を理解していた。だが、若く、美しく、就職したばかりのこれからという彼女が、この世に未練が無い筈はない。両親や親友、そして恋人の高峰誠司の嘆き、悔しさは相当のものだった。真壁は、自分が死んだと分かった時、心残りの場所に行ってみた。幽霊は死んだ場所やお墓にいるものだと思っている人がいるみたいだが、そんなことはない。地縛霊等は除いて幽霊はちゃんと動くことができる。物質でない分、宙に浮かぶこともできるし、物質に遮られる事がないのだから、生きている人間より自由かもしれない。真壁葵は高峰誠司の所へ行ってみた。しかし彼は霊感が強い人間ではない。彼女の姿が見える訳がない。真壁は何度も何度も高峰に呼び掛けた。だが結局諦めた。それで違う場所へと歩き始めた。そこで襟足徹と出会った。かつて友人だった彼と。

「徹君が、霊感が強い人間だったなんて知らなかった」

 お互いの姿が見え、交信できるようになると、真壁葵は襟足に言った。それから時々、こうして二人で話をする。襟足の部屋であったり、今日のように祠であったり、よく行った海岸であったり。それが彼女の気晴らしになり、成仏に繋がれば。襟足徹はそんな気持ちから彼女と会っている。

「死んだら、全てのことが見通せる、分かるようになると言っていた人がいるけれど、嘘ね」

 ある時真壁が言った。

「多少は、生きている時には見えなかった霊体が見えるようになって、相手のことが分かることもあるけど、全部は分からない」

 そうだ。襟足徹だって、訓練しているわけではないので、相手の心理が全て透視できる訳ではない。相手が必死に隠そうとしていることの奥深くまで入っていくのは難しい。相当の訓練や技能が要る。襟足にはそこまでの力は無い。

「徹君もそう。あなたの本心はよく分からない。いつも何かガードしている」

 意識しているのではないが、襟足は、霊の中には乗り移ったり、悪さをしたりするものがある。そんな霊から身を守るために、気を張っているうちに、襟足にはそんな癖が出来てしまったのだろう。勿論、彼女にあまり知られたくない、彼女と話をしている時に触れられたくない話題だってある。それを悟られないように気を引き締めているせいもある。そう。例えばあの事故のこと。



 あの日。真壁葵が急遽故郷に帰ることになったと話をした日。高峰誠司は、

「何かあったの」

「うん。おじいちゃんが亡くなって。子供の頃からよく遊んでくれていた人で、葬式にはぜひ出たいのよ」

「へえ、それはお気の毒に」

 それから日付と、彼女の故郷の位置を聞いたとき、襟足徹は何か嫌なものが胸をよぎった。それで思わず、

「それって、その日じゃないと駄目なの」

「そりゃそうでしょう。葬式の日取りって、予め事前に決められているものでしょう」

 どういう意味でそんなことを言ったのか分からないというように真壁が答える。襟足も強いてそれ以上突っ込む理由も無く、話はそこで終わった。だが、漠然と嫌なものだけが何故かしら胸につかえていた。何なのだろう。それは、真壁が故郷へ向かうために電車に乗り込んだときに、もっと強いイメージとなって襟足に現れた。襟足は高峰とプラットフォームに立っていた。そして、車内に入った真壁が手を振った。振り返そうとした時、襟足は行くな、と大声で叫びそうになった。大きくレールからはみ出し、横付けにされ投げ出された車両。火と煙の中、下敷きにされ蠢いている乗客。そして頭を押し潰され横たわっている真壁の顔。だが、かろうじで襟足は言葉を抑えた。こんな所で、大声で喚いたら変に見られる。だがそれはすごく鮮明で不吉な映像。それから襟足は落ち着かずに過ごしていた。そして見ていたテレビのニュースで飛び込んできた映像。それは紛れも無く、あの時見えた情勢そのものの風景。慌てて襟足は事故現場として報道されている場所に向かった。流石に新聞記者だけあって、高峰誠司は既に来ていた。彼を見つけると、襟足は彼と合流した。知人が電車に乗っている心当たりがある人々と、近所の野次馬と、救助に来た警察や消防団やボランティアの人々とでごった返す中、襟足には、既に息を引き取った人々の霊魂までもごちゃまぜに見えていた。そしてようやく見つけた。担架で運ばれている途中だった。ハンカチが既に顔にかけてあった。

「葵」

 顔を確認した後、そう一言呟くと、高峰誠司はその場にしゃがみこんだ。その時の彼は、新聞記者ではなく、一人の、愛する恋人を失った悲しい被害者だった。同じく悲しみに打ちひしがれながらも、襟足は跪いている高峰の肩を支えた。それから、一緒に取材に来ていた同じ新聞社の記者が、歩み寄ってきて、

「真壁さんだったのか」

 労わるように高峰を起こす。

 予知のようなものは、本当に稀ではあったが、時々襲っていた。だが、いつ来るかとか、どこで起こるとか、はっきりとわかることは少ない。実際に起こるかどうかも確信が無い。だったらいっそ、そんな能力など無くていいのに。襟足徹は何度そう思っただろう。だがこの時ほど強くそれを感じたことは無い。もう少しはっきりと日にちが分かっていたら。もう少しはっきりと時間が分かっていたら。もっと強く真壁を止めることができただろう。電車の時間を一本ずらしていれば、彼女は死ぬことは無かった。それなのに何て無力なのだろう。これなら、霊能力などあっても無くても同じではないか。いや。余計なものが見える分、辛い。この世に未練を残し、彷徨っている霊魂の姿はとても哀しい。襟足は見えるだけで、彼らを霊道まで導いてやる力は無い。困っている人が側にいるのに、何もしてやれないことほど、歯がゆいことは無い。その意味では、幽霊が見えないだけ、高峰の方が幸せかもしれない。彼は死んだ真壁のことだけを考えていればいい。しかし、襟足はその他の被害者達の姿も見えてしまうのだ。何もして上げられなくて御免。謝りながら襟足は現場を後にした。

 それから真壁葵の霊魂と出会った。霊が見えるといっても、襟足徹の場合、霊を呼び寄せたり、除霊したりすることはできない。だが、真壁葵とは、友人だったからか、彼女の方から会いたいと思って出てくれるからか、割と好きな時に交流ができる。その意味では、襟足にとって、特別な幽霊だった。



 テレビには、現在放送しているテレビドラマに出ている人気上昇中の男優がサ-フボードを片手に海に飛び込むコマーシャルが流れている。どちらかと言うと運動が苦手な襟足徹が、高峰誠司とこれだけ仲良く付き合っていられるのは、高峰が、出来ない事を無理に薦めたりしない人間だったし、出来ないからといって莫迦にした態度を取ったりしなかったからだ。こちらの趣味に合わせるような人間ではなかったが、それでも不思議と、襟足は高峰と一緒なら、苦手な場所にいても楽しかった。普通、泳ぎが苦手なら、海やプールなどは居心地のいい場所ではない。実際、子供の頃はそうだった。だが、高峰誠司となら、自分は泳がないにしても、砂浜で彼のサーフィンを見ているだけで、それなりに愉快だった。時には襟足も、ボートで沖に出て泳いだり、高峰のサーフボードを借りてサーフィンに挑戦したりした。結局、波に乗るタイミングがつかめずひっくり返るばかりで、一度も成功したことは無かったが。だが、失敗したら、失敗したで、高峰と笑い合ったりして楽しく過ごせた。テニスが得意だった真壁葵も、高峰にサーフィンを教えてもらうと、すぐにその魅力の虜になった。元来運動神経が良かったので、みるみる上達していった。高峰のサーフ仲間達が沖に出ている時、襟足は大抵一人で、ビニルシートで場所取りをしながら、彼らが楽しんでいるのを眺めていた。ある時、パラソルの下、思わず転寝していると、首筋に冷たいものが触れて目が覚めた。真壁がはい、とかき氷のカップを出す。ストロベリーの赤が炎天下に反射しながら映る。真壁はミルクセーキが入った宇治金時が好物だった。高峰はメロンかレモンシロップを注文することが多かった。夏が過ぎると、今度は真壁の好きなテニスが中心である。大学の運動場や、無料で借りられる公共のスポーツ施設などによく行った。真壁と高峰の実力は五分五分だった。勝っても、負けても、どちらもお互い気にしているようでなく、ただ、テニスができるのが嬉しいというような感じのプレイだった。二人が対戦する時、襟足はよく審判になった。襟足は、テニスは苦手だが、ルールは知っていた。遊びに行く時も、デートする時も、二人は主に外で動き回るのが好きだった。自然公園に行ったり、遊園地だったり。

 そう言えば。ここでふと、襟足徹はあることに思い当たる。今日、高峰誠司と話していた時は聞き流していたが、彼は葵を見たと言っていたが、無論、霊感が無い高峰が見たというのは真壁葵の霊ではない。それではなくて、問題は場所である。確か市立美術館にいたと話していた。市立美術館。正直、アウトドア派の高峰にはそぐわない場所である。絵画の趣味など彼には無かった。何かの取材で用事があったのだろうか。だが主に事件担当の行動派記者である彼は、芸術欄や批評、コラムの類は書かない。事件関係者の待ち合わせ場所としてもあまり適当だとは思えない。何故、美術館などに行ったのだろう。真壁葵だって、デートで映画を観ることはあっても、美術関係にはそんなに興味がある方ではなかった筈だ。二人でデートするのに、美術館や博物館の類に行ったという話は聞いたことが無い。真壁がいる場所としても、そこはそぐわない。それなのに何故、高峰はそんな場所にわざわざ行ったのだろうか。大したことではないが、少し気になり、特に用事があるでもなし、襟足はインターネットを見てみることにした。市立美術館のホームページを検索する。現在、久野柾谷という画家の作品集を展示中らしい。襟足もあまり美術には詳しくない。しかし、特集を組まれているくらいだから、それなりに有名な画家なのだろう。だが、とてもじゃないが、高峰誠司が興味を持つようには思えなかった。襟足はホームページの別のページにジャンプしてみる。この画家の絵が一部写真で公開されている。主に抽象画が多い。襟足には絵の出来栄えが良いのか悪いのか判断できない。だが、何点か公開されている画像には、発表年代が載っているのだが、ここ数年は少し作風が変わってきているようだ。初期にははっきりとした形を書いていなかった彼だが、ここ数年は写実性が濃くなっている。その組み合わせで、さまざまなメッセージなどを込めるようになってきている。今回の展示で最も注目されているのが、この間の展覧会で発表された最新作である。彼の幅広い技巧の全てが駆使され、彼の社会批判精神や思想の髄が結集した集体的力作として、批評家から最高傑作の呼び声も高いらしい。この絵が今回の目玉らしいので、絵の説明の文章はあっても、画像は無かった。だが、襟足の記憶の中では先程から、水がふつふつと沸騰するときに出る泡のような感触を感じていた。久野柾谷。真壁と画家。そうだ。あの頃は画家の名前など大して気にも留めていなかったが、確かに真壁葵には画家と少し繋がりがある。果たして久野という名前だっただろうか。ページを戻り、彼のプロフィールが紹介されているところへ行く。そこには、久野柾谷はある新人コンテストで戦慄なデビューを飾り、初めは抽象的で実験的な絵で馴らしていた。しかし、何作かの後、しばらく活動が止まり、その後写実的な要素を取り入れたリアリズム絵画に作風が変わっていった。その活動休止の時期に、徹は着目する。



 真壁葵のサーフィンの腕もずいぶん上達したある夏休み。その頃は連日のように海へ通っていた。最初は安物のボートを使っていた真壁も、うまくなると、やはりもっといいものに乗りたくなるのか、新しいサーフボードを欲しがっていた。スポーツ用品店などに行くと、

「葵の腕前なら、あれか、こっちの奴なんかが乗りやすいと思うよ」

 高峰と真壁はしょっちゅう、そんな風に新しいサーフボードを物色していた。その辺りの専門的な知識がからっきし分からない襟足徹は、いつも黙って聞いているだけだった。だが、サーフボードは高価で、大学生の小遣いなどでそう簡単に買える代物ではない。真壁はアルバイトで貯めたお金を足しても、欲しいサーフボードに手が届かず、早くしないと夏が終わっちゃうな。今年はこれで我慢するしかないのかな。そんなことを愚痴っていた。だが、ある日、襟足と高峰と三人でいた時に、真壁は、

「ちょっといいバイト、見つけたんだ」

「へえ」

「短期なんだけど、結構お金になるんだよ。それと今までの貯金を合わせたらあのボードが買えるんだ」

「良かったじゃん」

 襟足が言う。

「どんなバイトなの?」

「うん。何か絵のモデルをするんだ」

「モデル?モデルでそんなにくれるの」

「何かわたしはよく知らないけれど、プロの画家よ。新聞でモデル募集の広告が出ていて応募したら、わたしが採用されたの」

「一人なの?」

 高峰が訊く。少し不安そうな響きを感じ取ったのか、真壁は、

「ああ、何か勘違いしているでしょう?絵のモデルって言ったらすぐそっちに行くんだから。ただ椅子に腰掛けるだけでいいって。勿論、服は着たままで」

 ちょっと嫌味っぽく最後を強調する。

「だけどそいつ男なんだろう。お前、女子大生と男が二人きりになるんだぞ。用心するに越したことは無いぜ」

 高峰の言葉に、

「分かっているって。わたしもそんなことを許すような女じゃありません」

「それは分かっているけれど」

「それに、わたしは知らないけれど、芸文科の友達に聞いたら、結構名前が知られた人らしいよ。何か最近は新作が出てなくて、スランプなんじゃないかとか噂されているみたいだけど。ある程度有名な人で、お金を払って正式に依頼する限り、めったなことはしないでしょう」

 それから一週間くらいだったか。そのバイトが終わると、早速新しいサーフボードを購入し、真壁は残りの夏、目一杯それで楽しんでいた。


「大人一枚」

 翌日。襟足徹は市立美術館に出掛けていた。館内は平日でもあり、さほど客は来ていない。革のハンドバッグに、羽根のついた帽子を被っている六十前後のおばあさんが熱心に見ている他は、ぽつりぽつりと点在しているだけだ。襟足は取り敢えず順路通りに見て回ることにする。割合発表順に並べてあるので、初めの方にあるのではなかろうか。壁の中程、襟足は足を止める。絵の題名は「窓際の女性」日が差している窓辺に、椅子に腰掛けているシンプルな構図の絵だ。説明には、これは作者が新人賞を獲ってしばらく作品の間隔が空いた後、久し振りに発表されたものであり、それまでの抽象画の手法とはがらりとイメージを変え、大きな転換期となった重要な作品である。応募したコンテストでは、惜しくも賞を逃したが、その後の彼の作風を示唆する特色に溢れている。まずは生き生きと書かれている女性。写実的であるが、その表情は楽しそうにも見え、憂いを帯びても見え、何か思案しているようにも見える。そして窓の外にさり気なくかかれている雲間から見える航空機。そのイニシャルからある国の戦争を示唆し、社会情勢を映している。単なる写実画ではなく、この作者の技巧が至る所に見られる。

 左斜めに足を組み、窓際に少し首を傾けた姿勢でこちらを向いている女性。説明には、楽しそうにも、憂いを帯びているようにも、色んな表情に見えると書かれているその女性の顔は、しかし、紛れも無い。襟足は思わず食い入るように見入ってしまう。これが昨日、高峰誠司が、葵を見たと言ったことの意味か。それは大学時代の真壁葵そのものだった。よく似ている。光の陰影や奥行きの描き方で、とても立体的に見え、まるで本当にそこに座っているかのような迫力に満ちている。しばらく観ていると、

「今にも立ち上がって、こっちに来るようだろう」

 いつの間に来たのか、襟足の隣に男性客がいた。襟足は一瞬身じろぐが、客の顔を見て、

「誠司じゃないか」

「昨日も来たんだが。仕事の空きが少しできたのでね、つい今日も来てしまった」

 絵を見ながら高峰が言う。

「そっくりだろう。始めてみた時、息を呑んだよ」

「ああ。僕も驚いた」

 それから二人、黙ったまま絵に見入る。

 襟足徹は絵から目を離さずに、

「お前も意味深なことを言って。絵なら絵だと、始めから言えばいいのに」

「勘のいいお前なら、きっとあのヒントでここに辿り着くと思った。実際、そうだったろう」

「意地悪だな」

 そして再び、口を噤む。高峰が、

「葵が死んでもう三年経つ。まさかこんな所で再会するとは思わなかった」

「そうだな」

 襟足も頷く。

「これを観ていたら、何だか暖かい気持ちになった。そしてこの絵を見ている人達を眺めていたら、ああ、こうして葵は永遠になったんだなって、ふっと感じたんだ。俺はあいつに何もしてやれなかった。それを悔やんでばかりだったけど、あいつはこうやって今でも色んな人から愛されていく。死んだ葵がこうやって頑張っているのに、生きている俺は何をしているんだって。自分ももっと頑張らなきゃなって思った」

 襟足徹は目頭に熱くなるものを感じた。やばい。高峰に気付かれないように、そっと離れる。次の絵に移るような格好をする。高峰はまだその場に留まっている。葵の霊と交信していた自分。死んだものがこの世に留まっているのには、近親者が足を引っ張っていることがあると、分かっていた自分。そして、葵の霊と直接交信できることで、他の人間よりも死に対して落ち着いて対処できると思っていた自分。葵の未練は、高峰の思いだとずっと思っていた。いや、それもある。だが、彼女の足を引っ張っていたのは、襟足自身でもあったのではないか。真壁にしてやれなかったこと。真壁にしたかったこと。今でも引きずっているのは僕だってそうだ。襟足は込み上げてくるものを抑えられなかった。他の絵も、もう視界に入ってこない。一番の注目と言われているこの画家の最新作も、全く目に入らず、襟足徹は美術館の外に出た。振り返ると、高峰も出口に立っている。襟足の姿を見つけると、こちらに寄ってきた。襟足も少し落ち着いたので、高峰誠司と並ぶ。高峰は、

「期間中、時間の合間ができたら、毎日見に来るつもりだ」

 そうか。襟足徹は答える。



 線路脇を中心に人が集まっていく。今日は、あの列車の脱線事故から丸三年目の日に当たる。被害者へ冥福を捧げる為に、遺族関係者が集まってくる。高峰誠司と襟足徹も当然来ていた。黙祷を終えると、順次、花束や千羽鶴などを手向ける。まだ彷徨っている霊達も、人々の集いに寄ってくる。当時四歳だったあの男の子も両親の側へ行く。遺族達はそれぞれ亡くなった人の写真を胸に掲げている。男の子は今年も両親に話し掛ける。だが、当然返事は得られない。自分の写真を持っている父親。涙ぐみそうになっている母親。その様子に、ようやく何かに気が付いたのか、男の子はじっと両親を見つめている。襟足は人ごみを見渡す。真壁葵の姿を探す。いつもはどんなにたくさんの人がいてもすぐに彼女が分かったのに。今日は来ていないのか。襟足がそう思ったとき、少し厳かな表情でこちらを見ている真壁に気付いた。それはまるであの絵のように、嬉しいような、悲しいような、哀れんでいるような、何とも言えない顔。襟足は、

「一つ、言えなかった事がある」

 そんな真壁を見ていると、自然に口について出てきた。

「僕は真壁葵の事が好きだった。親友として。親友の友人として。そして、それ以上の人間として」

 そこで一旦、言葉を区切る。

「内向的で大人しい僕と活発な葵。不釣合いだと思った。だからすぐに諦めた。でも葵の事が好きだった。誠司と葵が付き合い始めて、二人がお似合いだと認めていたけれど、それでも僕は変わらず、葵の事を愛していた」

 高峰は真壁の写真を持ったまま、他の遺族が参拝するのを見ていた。今年は、真壁の両親の都合がつかず、写真は高峰が持つことになった。高峰は、

「知っていたよ」

 襟足徹は隣を見る。だが高峰は真っ直ぐ前を向いたままだ。

「俺も葵も気付いていた。それを承知でお前を、俺達の友情ごっこに付き合わせているのを、悪いことをしていると思ったこともある。だけど、葵が死んで、一番に俺を支えてくれたのは徹、お前だった。葵のことでショックを受けたのは、お前だって同じだろうに、お前は懸命に俺を支えてくれた。葵に対して同じ思いを持っていた者どうしだからこそ、気持ちが分かったのかもしれない。そのことでは、俺は徹にすごく感謝している」

 知っていた。二人共、自分の気持ちに気が付いていた。襟足は真壁を見る。高峰の言葉を受けるように、静かに微笑む。柔らかい笑顔。そうか。だから君は僕の所に来てくれていたんだね。ただ僕が霊を見ることができるというだけではなくて。僕は君の相談相手になっているつもりだったけど、誠司と葵の両方を支えているつもりだったけれど、実は葵に支えられていたんだな。三人が三人とも、今までお互いがお互いを支えあってきていたんだな。微笑している真壁葵に襟足は心の中で呼びかける。もう、いいよな。もう、生きている者は生きている世界で、死んだ者は死んだ者の世界で、それぞれやっていこう。やっていけるだろう。その言葉が終わると、真壁の体が少しずつ上がっていく。そっと手を上げる。襟足も心の中で手を振るようなイメージを思い描く。雲に突入する少し手前の上空で、真壁葵の姿が消えていった。

 一通りの行事が終わると、遺族らもちりぢりになっていく。被害者の会などで顔見知りの人も多く、これから思い出を語ったり、食事などを約束していたりする人たちもいる。高峰は、

「今日も美術館に行ってきた。特集も今日で終わりらしい」

「そうだったな」

 襟足が答える。

「あの絵を見て、俺は誓ったんだ。俺は葵のことを忘れないと。同時に、過去に縛られて生きることも止めようと。あの葵の表情。あれは大学時代のものだけど、絵になって、じっと見ていると、何だか語りかけている気がしたんだ。いつまでも自分のことに拘らないで、前を見てと。自分はこうして絵になって、新たな自分の務めを果たしている。誠司にも、あなたのやるべきことがあるでしょうと」

 ゆっくりと二人は並んで歩いている。

「そうだ。俺はあいつのことを引きずって、しっかり生きてこられなかった。そんなことじゃ駄目だと。俺はあいつのことを忘れない。だからジャーナリストして、この事件を風化させないように、毎年、片隅でもいいからこの事件のことを記事に書くつもりだ。葵だけでなく、あの事故で亡くなった人、遺族になってしまった俺達のような全ての人のために。それが新聞記者としての自分の務めなのだと思う」

思い出に引きずられていたのは襟足も同じだった。先程昇天した葵のことを思いながら、

「そうだな。覚えていることと引きずっていることとは違う。葵があんな事になったからといって、残された者が幸せになってはいけないということはない。きっと引きずるということは、死者に拘って、前向きに生きられずに、いつまでも苦しみを抱えている人間のことで、そういう人は、相手のことを思っているようで、実は死んだ人間のことを傷つけている。愛する人が苦しんでいるのを見るのは辛い事だ。亡くなった人も、きっと残ったものがそうやって苦しんでいたら、やっぱり辛いんじゃないか。それはきっと、本当の愛じゃないんだよ。僕はそのことが分かっているつもりだったけれど、やっぱりなかなか受け入れることができていなかった」

「ああ、そうだ。俺達は、仕事とか、友人とか、色んな楽しみを味わってもいいし、新しい恋をしてもいい。それは葵のことを裏切ったということでも、葵を忘れたということでもないのだと思う。うまく言えないけれど、きっと、そうなんじゃないかと、やっと思えるようになった」

 空には天に上るような入道雲。少し離れた場所にある臨時駐車場に着く。

「じゃあ、またな」

「ああ」

 高峰誠司と襟足徹は、それぞれの車に乗り込む。恋は実らなかったけれど、高峰のことも、真壁のことも、これからもずっと僕の最大の親友だ。運転しながら、窓からもう一度空を見る。真壁葵の霊魂が消えた辺り。それは他の色と溶け込むように、何ら変わらない普通の青い空。それはありふれた、だけど素晴らしい自然がもらす、美しい青だった。


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