『闇の中へ』
薄い緑色の光に照らされた廊下を歩く。不気味な雰囲気だ。一番近い自販機はこの建物から出て、少し歩いたところにある。そう遠くはない。潔白を主張するように真っ白な壁を伝って廊下を曲がり階段を降りる。
ひらけた場所に出た。ガラス張りの扉と窓。観葉植物が点々と置いてあり、他には机と椅子が並べられている。カウンターにドリンクバーがあり隣には紙コップも設置されている。利用者がいないためかコンセントが抜かれ、稼働していなかった。ここまできて横着してもな、と外へと足を向ける。
ス、と自動ドアが開く。シン、とした寒さが肌を刺す。病衣のような寝巻きではなくこちらを着てきて正解だったようだ。さらけた手がどうも冷たくて両手をポケットに突っ込んだ。来ている箇所の防寒は完璧のようで寒さを感じることもない。
「──────」
しかし、暗い、暗い。ガラス越しで見る世界とはまるで違う。背筋に走るものがある。いやによく見える異色の黒に惑わされているようにも感じる。
すぅ、と鼻が痛くなるほど新鮮な空気を取り入れ、ほぅ、と息を吐く。自販機はもうすぐそこのはずだ。
特に迷うこともなく、少し歩いたところに街灯に照らされ、ぼんやりと存在を主張する箱があった。
「つめた〜い」が上の一段を占めて、残りは全て「あったか〜い」が占めている。単純に寒いからあったまりたいので、上の段を視界から外した。
無難にお茶か、コーヒーだろうか。背を伸ばせばブラックでも飲めるが、個人的には微糖のほうが好ましい。ザ・苦いブラックはケーキといった甘いものと一緒に食べるくらいでないと、ちょっとキツイ。
うんと考えて、寝る前なのだからカフェインの摂取はやめたほうがいいか、と視線をもう少し下にズラした。
おしるこ、コーンポタージュ、午◯の紅茶、ゆずレモンに味噌汁。
結構な種類が揃えられていた。味噌汁に至っては初めて見たまである。
物は試し……? いや、ここは妥当に……と悩んだ結果、結局缶コーヒーにしておいた。
缶一つ分くらいならあまり影響しないだろうし、正直なところ、先までの眠気が嘘だったかのように眠くないのだ。ならばいっそのこと飲みたいものを飲んでしまっても構わないだろう。
ガコン、と落ちて来た缶を拾って両手で暖まる。
「あったかい……」
ドコォン!
静かな街並みに轟音が鳴り響く。
「───ぁ?」
次いで地鳴りがし、地震かと思えるほどの振動に、気を抜いていたのもあってか立っていられなくなり、思わず自販機に手をついてしまう。ころころと落ちた缶コーヒーが転がっていく。待て、と手を伸ばそうとするも再び起こった振動に目を離してしまう。
あぁもう、本当に、
絞り出すようにして毒づく。もしかしたら、もしかしたら何も起こっていないかもしれない、という希望が裏切られてしまった。いや、本当に、勘弁してほしい。
音は止んでいないが、強い振動が来なくなったために支えから離れて、自分の足で立ち上がる。
ころころと転がっていく缶コーヒーを歩いて追いながら、彼らの言葉を思い出す。
【そういや、あれだ。お前もこっちに来たばっかで体に異常起きるかもしんねぇからあんま勝手に出歩くなよ。特に夜なんかはな】
【あはは。うん、まぁ、気をつけてね】
これが彼らの忠告なのだとしたら。
この振動がそのナニカによって起こされているのならば。
そのナニカと彼らに何かが起こっているとしたら。
「…………っ」
自分だけ何もしなくていいのだろうか。いや、良いわけがない。良いはずがない。あぁ、本当に、勘弁してほしい。こちとら一般人で、どこにでもいる矮小な人間で、ちっぽけな勇気を持つのにも苦労するくらいに狭小な人間なんだ。手足が見ずとも震えているのがよくわかる。それを情けない、と叱責する。けれども、ここで真っ直ぐ立てるほうがどうにかしているとも思う。
闇が怖いんだ。闇が怖いんだ。闇が怖いんだ。それは人間が闇を忌避して光を求めたように、人として正常な感情なんだ。
だから、逃げてしまってもいい。そんな声が聞こえる。今なら誰も見ていないし何の問題もない。むしろ、そっちが正解だ、と。行ったところでお前に何ができる。何が起こっているかも知らないくせに。
頭が痛いほどにその通りだった。
───けれど。
ようやく追いついた缶コーヒーを握りしめた。落とした衝撃か少しへこんでいるスチール缶はそれでもあったかく、胸の熱に薪を焚べてくれるようだった。ぎこちなくも、口角を吊り上げた。
───ここで逃げてしまうよりも、ここで死んでしまうよりも、ここで何もしなかったら俺がどうにかなってしまいそうだ。
ちっぽけな勇気をメッキ加工するくらいはできるだろうか。全ては自分の為に、彼らの為という大義名分で脆い勇気を覆い隠す。
あぁ、本当に。情けない。それでも、過程がどうであれここで動くのと動かないとでは大きく違う、と信じて。
くい、と缶を仰ぐ。
「うげ……」
選択を間違えたなと言いたげにとてつもない苦さが舌を襲った。けど、それでいい。それでいいのだ。例え足が砕けようと、前が見えずとも、行く末がわからなくとも、───この身は前に進まなければならない。
何処かで呆れたように息を吐く音がした。しかし、匠海はそれに気づくことなく足を進める。
しばらく歩いたそこは既に敷地の外のようで、見慣れないビル群が並んでいた。東京を思わせる都会のような街並みだ。最も、並ぶビルに明かりは一切付いておらず、人っ気がカケラもない。この世界にブラック企業はないようだ、と楽観的な思考に走りながらゴミ箱を探しつつ慎重に歩く。物々しい轟音はどんどん大きくなっていく。
ふぅ、と詰まってきた空気を外に吐き出した。流石に違和感が大きすぎる。
「人がいなさすぎる……」
これほど音と振動が起きているのに、騒ぎになっていないのはおかしいだろう。それに時刻も体感で10時から15分経った程度だ。人が全くいないのはおかしすぎる。底知れぬ怪しさに、心臓が圧迫されるようだった。いっそ、出るなら出てこい、という気分だ。
ぐっ、と缶を仰いだ。ちろちろと残りわずかなコーヒーが喉に流れる。緊張に舌が枯れそうだった。
すると、目先にある大きな交差点の曲がり角に自販機に連なってゴミ箱が置いてあることに気付いた。丁度いい、と歩みを早めると同時に、───交差点に白い何かが飛んで入ってきた。
「ぁぁぁぁぁああああああああ───!!」
街灯にも照らされていない暗い交差点の真ん中。そこに絶叫をあげながら飛ばされてきたのは後ろで束ねた髪が尾のように引いている少女───椎名だった。
ただ、彼女のとある一点に目を惹かれる。あまりにも見慣れない、現実離れした物だった。そして同時に、匠海は自分が着けている制服がやたら機能性に優れている理由に、なんとなくであれど察しを付けることができていた。
ナニカに吹き飛ばされてきた彼女は空中で姿勢を立て直すと、ズザザザザ、とよろけながらも地面を滑り、体の前で盾のようにしていた大剣で地面を引っ掻くことでその勢いを落とし、減速してきた頃合いに地面から剣を離して、体を軸に一回転することで余分なエネルギーを逃がし構え直す。
「目標座標に到達! 名護さん!」
瞬間、椎名の前に黒い羽が舞ったかと思えば、そこに成り代わったかのように二つの大きな箱を伴って、修斗が現れた。金属特有の光沢を持つそれの前面部がカパ、と開くと、そこにはいくつかの弾頭が覗いていた。
「オラ飛んでけェ!」
轟音。十数ものミサイルが硝煙と共に放たれ、金属の箱は反動で凄まじい勢いで後ろへと飛んでいく。あらぬ方向へ飛んでいったものはまるで意志を持つかのように、ある一定の向きに修正され未だビルで隠れるナニカに向かって襲いかかる。
「ダメだ! 『心臓』がみえねぇ!」
『─────!』
「了解!ラインを下げるよ!」
黒い羽が舞うと同時に、彼の姿が消える。あまりにも非現実的な光景に呆然とする。常識を逸するナニカが行われていることは予想していたが、いざ目にすると衝撃がすごい。ついでに耳もやばい。あまりの音でキーン、という耳鳴りが止まないのだ。最も、咄嗟に耳を塞いでコレなのは不幸中の幸いというか、少し不自然なまであるのだろうけども。あー、あー、と声を出して耳の調子を整えていると、
『───? ────!?』
「えっ、もう一つ動体反応?」
くるり、とこちらを見た椎名と目があった。
「───っ、嘘でしょ!? 先生!」
『────!』
ぐん、と椎名が匠海に向かって跳ぶようにして走り出した。それはおよそ常人が出せる速度ではなく、蹴りに耐えられなかったアスファルトが砕けた。
「はぁっ!?」
「────っ!」
片手に大剣を持っているとは思えない動きで接近してきた彼女は匠海の懐に入ると胴体を掴み、そのままビルを駆け上った。目まぐるしく景色が入れ替わる。とてつもない浮遊感の後に下ろされたのはビルの屋上だった。顔を上げると正に怒り心頭、といった様子の椎名が匠海を睨むようにしてみていた。
「どうしてこんなとこにいるの!?」
「っ、それは───」
「───と、その前に配達物だ。あまり時間もねぇから手っ取り早く、な?」
再び、黒い羽と共に修斗があらわれポン、と落ち着けとでも言いたげに匠海の頭に手を置く。そして、小さな機械を渡され耳につけるようにと言われる。その間に毒気を抜かれたようにはぁ、と椎名がため息をつき、
「全部おわったら聞かせてもらうからね?」
「あ、あぁ」
キッ、と射貫く視線に思わずたじろく。
「ははは、まぁ、なんだ。気持ちはよくわかるし、オレらがお前を見くびっていたってのもある」
「……?」
「こっちにも責があるってこった。とりま、そのインカムのボタン……そう、それだ。それを押してくれ」
「はぁ……もう、男の人って本当にこれだから困るよ……」
笑う修斗と眉をよせる椎名にやはり迷惑すぎたよな、と猛省しつつ、耳にはめた小さな機械をカチ、とならす。
『あぁぁぁぁぁやっと繋がったあぁぁぁぁぁぁぁぁ! 大丈夫かい!?怪我してない!?』
恐ろしいほどの無機質ボイスは紛れもなくPCだった。少し驚きながら彼らが誰かに話していたことは知っていたので冷静にはい、大丈夫です、と答える。はあぁぁぁぁ、とため息のような発言をすると
『もう! これからはこんな単独行動は控えておくれよ!? 今回の件については私たちがキミを甘く見ていたことが原因でもあるから、後で軽い処置をとる程度に押さえてあげるけども!』
「は、はいっ」
『あぁもう、ほんとに無事でよかった。ということで帰ってほしいところだけど……それで納得してくれたらこんなところにまで来てないよね……』
「ちょっと待って先生! もしかして今日このまま戦線に参加させるっていうの!?」
ぎょっとした様子で虚空に向かって椎名が叫ぶ。それにPCは音を冷淡にしてに返す。
『Exactly. 遅かれ早かれここには連れてきて聞くところだった。これはその予定が早まるだけにすぎない』
「無茶だ!」
『私は彼の意見を尊重しよう。それに、彼にはその資格がある! ここに来ることができたのがその証左だ!』
そこでパンパン、と手を叩く音が空気を割った。今度はあなたか、と修斗を彼女が睨むようにしてみるが落ち着け、と鋭い視線を返されぐぐぐ、とうなった後に絞り出すようにして空気を肺からだして「頭冷やしてくる」といって背中を向けて歩いて行った。
「一応聞いておくが、椎名の言い分は理解しているな?」
こくり、と頷く。正直、驚いている。彼女たちが自分のことをこんなにも心配してくれるとは思わなかったのだ。ありがとう、と後でしっかり伝えておこうと思った。けれども、その戦線───聞くからに危険そうな場所に参加しないという選択肢は匠海の中には無かった。ソレのためにここまできたのだから。
「よし。ならオレと椎名は戦闘を再開してくる。その間に先生から説明を受けといてくれ。オレらのこととか、な」
「りょ、了解!」
「はははっ。あんまり浮ついて来るんじゃねぇぞ?」
そんな言葉と共に黒い羽が舞ったかと思えば、その姿を消していた。会話を聞いていたのか椎名が恨めしい視線を送りながら近づいてきて、
「絶対に無茶しないでね……? 死んだら許さないからっ」
屋上から飛び降り、壁を伝うようにして走って行った。すごい、と見惚れているとPCが話かけてくる。
『では、簡単に説明をしていこうか』
「あぁ」
一言一句を聞き逃さない、とインカムに耳を澄ましながら、自然と背筋が伸びるのを感じていた。