現実と現状と、
握手を終えたあと、椎名は頰をぽりぽりと掻きながら小首を傾げるとおずおずと口を開いた。
「えーと、じゃあ匠海さん? でいいですか?」
「好きなように呼んでくれって言ったのは俺だぞ。 あー、けど、敬語は外してくれると気が楽だな」
そういうと、パァ、と硬かった表情が和らぐ。
「じゃあ匠海くんで! いやー、敬語苦手なんだよね」
俺も、と匠海が同意すると彼女が一緒だねー、と笑う。そうしていると、少し肩の力が抜けてきたように感じる。多少は苦笑いではなく、自然に笑うことができるようになっているのだろうか。
彼の気持ちの余裕ができたところを見計らってか、彼女は顔に真剣な色を差して
「じゃあ、説明を再開するね」
と切り出した。
ゴクリ、と思わず息を飲む。心配してくれたのか、彼女がワンクッション入れてくれたお陰でそれとなく気持ちの準備はできた。しかし、先の話の流れからしていま、彼が置かれている状況はどうせ突拍子も無いほどに
「まず、ここは日本ではないんだ」
──ロクでもない。
冗談のような言葉に、地から足が離れる感覚を覚える。ドッキリだ、と一笑に付してしまいたかった。しかし、彼女の表情がそれを許さない。
彼女のお陰で少しは心構えはできていた。その言葉に茫然自失とするほどの衝撃は与えられていない。それに、同郷のものがいて言葉が通じる。それだけで多少の不安はとり除けるというものだ。問題はどうやって帰るとかそういうものになってくる。
「そして、地球でもない」
「────は?」
───が、そんな考えもしない完全に視野の外からの襲撃に思わず威圧的な声が漏れる。嘘だろう、と思いながらまじまじと彼女をみるが、その真剣な表情と、どこか心配しているかのような顔に変化はない。
あまりにも、冗談のように思えない。
「っ────」
ふざけるな、と叫び散らしたい感情を必死に抑え込んだ。
手の込んだドッキリだ、とは思えない。なんせ俺のような男にそれをする理由が見つからないし、そもそもそんなドッキリの趣旨がまるでわからない。流石にこんなもの誰も信じないからだ。
あぁその通り。こんな寝て目が覚めたら地球の外でした、のような馬鹿げた話、誰も信じない。
そう思っていながらも、匠海は激しく脈打つ心臓に手を当てた。
不可解だ、意味がわからない。なぜか、その言葉を聞いた時、心にストンと落ちるものがあったのだ。
いまだ、その理屈も聞いてないしそもそも彼女が信用に足りるかもわからないのに、それでもどこかで納得している自分がいる。
本当に馬鹿げている。
けど───その不可解な現象が、不可解な現状の裏付けをしているように思えて、自分の感情に理解ができない。
きっとわめき散らしたら楽なんだろう。
感情の奔流に逆らいながら、努めて冷静に頭を動かす。
そのような話を知っている。
例えば神隠し、もしくは天狗隠し。これは日本の伝承。
そして異世界転移。こちらは小説のジャンルの一種だ。
この二つは『なんらかの力によって見知らぬ土地に連れて行かれる』という点では同じ。
彼女の話が本当だとしたら、そのどちらかに該当するのだろうか。
もしそうだとしたら、──最悪だ。
白くなるほど拳を握る。爪が手のひらに刺さって痛い、がそれだけだ。
夢なら覚めてほしい。そう願うが、彼に思考を止める怠惰は許されていない。
伝承に関しては、よく戒めの意味を伴っていると聞くのでともかくとして、小説のジャンルとしての転移は記憶にある。見知らぬ土地に飛ばされて右往左往しながらも知らない文化文明、人と巡り合い、そして成長していく───そんなストーリーだ。
あぁ、そう生きていけたらどれだけいいだろうか。浮かぶ感情は憧れと嫉妬。決して高揚ではなかった。ここにいるのは氷上匠海で、ここにあるのは現実なのだ。フィクションではなくノンフィクション。実際になった、と言われたら俺には無理だ、と言うしかない。
───今はそんな話はどうでもいいか。
切って捨てる。どうにせよ匠海の気分は最悪だった。感情のままに窓をかち割って飛び降りてしまいたくなるほどの衝動が湧き出てくるが、それではなにも発展しないし、──まず、仮にも年下の子にそんなとこ見せられないだろう、と思わず拳に入る力が強くなる。
この話が本当なら、自分と同じくらい、いや、それ以上に不安なはずなんだから。
匠海はずっと入れていた拳の力を抜くと、顔色は悪くさせながらもこくり、と小さく頷き彼女に続きを促した。
「………じゃあ続けるよ。ハッキリとわかってることから説明するね」
心配そうな顔で彼女は話を進める。
「まず、私たちはここを『異世界』と結論付けているんだ。その根拠として、記録があってね」
目を見開いて驚く匠海を放ってえーと、と何かを探すような手振りをする椎名。あれ? っと疑問符を浮かべるや否やあっ、と立ち上がりちょっと待っててね、といい、たったった、と後ろ髪を跳ねさせてドアを開ける。
そこには車椅子が壁にぶつかった状態で放置してあり、しくしくしくしくしくしく────と壁に向かって朗読し続ける機械ボイスが匠海のいるベッドまで聞こえてくる。椎名はその車椅子をくるりと回し、パソコンの隣に置いてあった複数枚の紙を手に取ると車椅子の向きを変えて、
『ハッハッハーァ! 私が泣いてると思ったかね? 残念! 嘘泣─────…………』
廊下の先へと流した。反響してあー、あー、あー、と聞こえるもそれは椎名がピシャ、とドアを閉める音で遮られた。
「お待たせー」
と何事も無かったかのように椅子に座ると少し厚めの書類を渡してくる。雑だな、と引きつりながらも苦笑いするとなにが? と真顔で返される。もしかすると長い付き合いなのかもしれない。それはそれとしてあの謎の物体の正体が激しく気になるのだが。
「参考までに、えーと、このページのそれがこの世界の地図だね」
椎名が『調査結果 斎藤弘和』と手書きで乱雑に書かれた表紙から数枚めくり、匠海にそれを渡した。そこには印刷された地図が描かれていた。これが世界地図とのこと、なのだが。
「…………これが?」
思わず聞き返してしまう。
「そう。驚いた?」
「それは…………そうだろ」
なんせ、その地図には小さい大陸の一つしか載ってないのだ。それも地と海の割合が1:9くらいなのではないかと思えるほどに小さい大陸、というよりももはや島。やはり、世界地図としては余りに小さすぎる。
「……まだ未発見の地があるとか」
「ないね。そもそもこの世界は恐らく、匠海くんが思ってるよりも遥かに小さい」
椎名がちっちっち、と指を振る。未知への興味のほうが勝ってきたのか、少し色を取り戻した顔で匠海は続きを促した。
「およそ、縦が1万kmで横に2万km、そして高さが約50km」
「…………?」
なんの話だ、と疑問符を浮かべる。彼女はもったいぶるように少しの間を置くと、こう言葉を紡いだ。
「それが、この世界の全容だよ」
「────」
言葉をよく噛み砕き、理解を勤めさせる。1万×2万で2億km^2ほど。地球が確か5億km^2くらいだと匠海は記憶していた。これがあっているとすれば大体地球の面積の半分……元々が球体であるせいかイメージに全く結びつかない。そもそもスケールが大きすぎるのだ。
頭の回転の悪さに唸りつつ、少しアプローチを変えてみることにした。と、いってもすることは簡単で、ええいままよとただイメージするだけだった───が、それは意図せずして、線と線が繋がったかのように一つの答えを導き出した。
「いやまさか、天……動……?」
思わず呟いたそれにそんなはずは無い、と考えながらもそれに辿り着いては他の考えが他に浮かばず、表情を固めていると
「そう! そのまさかだよ!」
ずっ、と思わずといった様子で視界に椎名が飛び込んでくる。
焼けすぎず白すぎず、ほどよい肌色をした肌と快活そうで大きな瞳に、スッと引かれたように小さな弧を描く柔らかそうな唇。日本人特有の黒髪は艶やかさを保っており背に伸びる髪が白いリボンで纏められていて、肩にかかって前に垂れるそれは動物の尻尾を彷彿とさせ可愛いらしい───
───違う、と強い意志をもって考えを放り投げた。ここは真剣な場面であって相手に見惚れている場合ではない。真剣な時に申し訳なく思いながらも、椎名の瞳をじ、と見つめ返す。
そこに他意はなくこれからの言葉に嘘は許さない、という意思表示だった、のだが、目先の彼女はその瞳を動揺に揺らしている。なんで、と匠海は思考を巡らせる。
もしここまできて冗談だというのなら今度こそ窓をかち割って外にフライアウェイしてしまうところなのだ。主に羞恥的な意味で。ドッキリにもかかわらず予想以上に真剣になっていて「マジでこいつ?」などと思われていたら即死級の黒歴史だ。
もんもんと悩んでいると、
「流石にそんなに見られちゃ恥ずかしいんだけど……」
ぼそり、と呟かれた音に思考の海から浮上させる。なんて? と聞き返すとなんでもないっ、と顔を少し赤らめて背けられる。む、となりつつも言わないということは現状必要ないのだろう、と結論づけて、す、と身を引き元の位置に戻った椎名に自らの答えに対する正否を待つ。
逡巡し、彼女はあー、とぽりぽりと頰をかくと少し目線をずらしながら答えた。
「ほとんど正解だよ。けど先生がいうには"箱庭"のほうが適切なんだって。私にはよくわからないけど」
「箱庭、か」
箱の中の庭。言葉通りの物だったと匠海は記憶していた。
それに空という天井を付けるようなものだろうか。
なぜ箱庭のほうが適しているのかわからないが、この世界がどんなところなのかを知るのにはそこまで必要ないだろう、と判断して放っておくことにした。
「とりあえず、なんとなくでもここについて理解できた?」
「まぁ、大体は」
天動説で成り立っている世界が同じ世界の筈がなかった。ちらりと他のページをみるとこの世界の大きさについてまとめた文章があった。それはこの地図がキチンとした測定等による結果という証左に他ならない。ドッキリでない以上、ここまでしておいて嘘だということはないだろう。
匠海が深く頷くとよし、と満足気に頷き、書類を彼から回収し両手に抱えて立ち上がった。
「じゃあとりあえずここまで! 色々あって頭ぱんぱんだろうから数時間くらいは一人で整理整頓する時間をあげて、って先生がいってたし」
「あの人……人……? ………あの人が?」
「うん。あの人が」
AIなのか通信していたのかはわからないが、あれは先生と慕われるような人格者というのはたしかなようだ。未知の物体に安堵を覚える。
「ということで、ゆっくりしていて。多分、八時前くらいになったらまた呼びに来るから」
そういうと後頭部からたらした髪を揺らしながら部屋から出ていった。
ふぅ、と匠海は一人になった小さな部屋でため息を吐く。
賑やかだったせいもあってか異様なほどに静かに感じる。日も落ちつつあり、どこか幻想的で刺激的な赤色が白い壁を照らしていた。手を伸ばしてみると、ガラスのひやりとした熱が伝わってくる。
恐らく、元の世界と比べても差して変わらない光景なのだろう。
いつだったか同じような光景も見たことある気がする。それがどこだったか、いつだったか。見知らぬ世界に来た彼を慰めるかのような暖かい光に触発されて、ふと懐古しようとする。
何も思い出せない。
「─────」
ズキン、と痛みが頭を割る。背筋に冷や水を垂らされたようなどこかで知った感覚もする。顔から色が落ちる。手足が震え、呼吸がし辛い。名状しがたい感情が内から溢れてくる。
震えた手で、ゴミ箱を探す。それは思いのほか遠く、ベッドから崩れ落ち、這うようにして丸い筒を手に取った。
「──────ぉぇぇ」
吐き出す。胃には何も入っていなかったのかそれに色はなく、透明の液体が口から逆流し敷かれたビニール袋にがさがさと水たまりが広がる。酸が喉を焼き、ジンジンとした痛みが脳を締め付ける。呼吸のし辛さも相俟って苦痛が全身を襲う。涙が視界を濁し顔を鼻水が伝っていく不快感を味わいながら、そういえばとベッドに這い寄り枕元にあった『呼出』と書かれたボタンを押した。
『オマタセ イタシ マシタ』
数分して現れたのは白い、人の形をした機械だった。丸みを帯びたフォームで装飾は特にないシンプルなデザインだ。どうしてかはわからないが虚ろな瞳で話しかけてこない人を見つめているそれの姿が彼の頭をよぎった。名前と年齢くらいしか思い出せない欠陥だらけの記憶に引っかかるものがあったのだろうか、少し興味深い。
しかしいまはそれどころでは無く、水を、と言おうとするも喉が痛く声がかすれてしまう。あぁ面倒臭い、と立ち上がろうとすると、入り口で止まっていたそれがこちらに近づいてきた。
『オテヲ ドウゾ』
紳士かよ。彼は内心で突っ込みながらもそれを支えに立ち上がった。