アバンタイトル
ふわり、ゆらり、と何処か浮遊感を覚える。
目を開けどもなにも見えない。
耳をすませどなにも聞こえない。
息を吸えどもなにも感じない。
ただ浮遊感だけがそこにある。
ここはどこだろうか。ぐる、と360°に視界を回す。見えるのは無だけだ。むむ、と眉を寄せて足を進める。ここで止まっているよりもどこかに進んだ方がいい気がしたのだ。
平衡感覚も方向感覚もない状態で少しふらつきながら前に進む。普通なら目を瞑って歩くだけでもまともに歩けないはずなのに。そう思いつつも、彼は前に進んだ。
どれだけ歩いたことだろう。何分、いや、何時間。そんなレベルの話かもしれない。時間感覚は既に無く、ただ黙々と、気が狂いそうになりながらも歩き続けていた。
しかし、そう、過去形だ。
いまは浮遊感に身を任せて大の字に倒れている。
なぜそんなことをしているかというと、一つの結論を出したからだ。
───夢だな。
こんなオカルトチックな場所、夢くらいじゃないとありえない。というよりもありえて欲しくない。彼が夢と結論付けた感情の過半数はそんな懇願が占めてしまっていたりする。
ならば、なぜこんな夢を見ているのだろう。
そう考える。目的なく歩くよりも考えた方が有意義だと思ったのだ。
まず、夢を夢だと認識できた時点でこれは明晰夢と言われるものだろう。中学のころに拾い集めたであろう知識の中から当てはまるものを挙げる。
しかしながら、んん、と頭を抱える。
明晰夢ならば自分の思い通りに夢を動かせるはずなんだけど。そう考えて手のひらに適当なものをイメージする。重みはこない。まぁ例外もあるか、と納得させて力を抜く。
あぁ、だめだ。
そんな思考をどこかに追いやりつつ、だらり、と寝転がる。目を閉じても開けても真っ黒で寝る気も起きやしない。ただ正気が蝕まれていくのがわかるだけだ。
あぁ、なんでこんなところにいるのだろう。
どうしてもそんな方向に頭が回ってしまう。
夢の実態は解明されておらず、色んなことが言われていることは知っている。
例えば、その人の潜在的な願い。
例えば、神のお告げ。
例えば、人の集団的無意識。
例えば、その日の出来事の整理整頓。
記憶に違いがなければ、軽くあげたところでもこんなところだ。順に追って当てはめてみる。
まず一つめ。潜在的な願い。
自らが苦痛に感じてる時点でおそらくこれはないだろう。自分がドMである可能性は、ちょっと考えたくない。
二つめ。神のお告げ。
これは少し特殊だが、本当に来るなら早く来てほしい。来ないなら帰るぞ、帰れないけど。
意味のないことを叫びつつ思考を放り投げる。申し訳ないがあまり神様は信じてないんだ。
三つめ。人の集団的無意識。
名前だけで内容を覚えていない。小難しい話だったという記憶だけ。んん、と頭を抱える。文字通りに考えるならば人々に共通している無意識のことだろうか。ふ、と自分でも何言ってるかわからないと一笑に付した。
悩みつつわからないものを考えても仕方ないか、と次の思考へと向かう。
四つめ。その日の出来事の整理整頓。
論外。この何もがない空間で、一体全体なにを整理したいんだこんなところで。
どうしたことか。選択肢が無くなってしまった。思わず頭を抱える。
そこまで余裕がないというのに。
頭をぶんぶんと振るいその思考を頭の片隅に放り込む。
あぁくそ、と地面──みえないがそこにあるものを叩く。苛立ちげに、居ても立っても居られなくなったのかばっと立ち上がるや否や、彼は走り出した。
どこまで行こうと黒、黒、黒。
集中してみてしまうとそこに引き込まれてしまいそうになる、蠱惑的な黒。
逃げようとして目を閉じようとそこにいるのは黒。
こみ上げてくるものがある。必死に抑え込む。足がもつれ黒に衝突する。痛みはない。口の端からしょっぱいなにかが滲み出た。
はっはっは、転んでしまった、と笑う。
足が擦り切れてきた。
止まってはいる暇はない、となんとなく思った。
そうだ、なにか楽しかったことを思い出そう。
それがいいと一人相槌を打ちながら寝る前の出来事を思い出そうとする。
なにも思い出せない。
その日の出来事を思い出そうとする。
なにも思い出せない。
明日しようとしていたことを思い出そうとする。
なにも思い出せない。
夕食はなにを食べたか思い出そうとする。
なにも思い出せない。
なにも思い出せない。
背筋に冷水が差されたかのような感覚に陥った。さっ、と顔の色が落ちるのが見えずともわかる。呼吸もおかしい。はぁ、はぁ、と脳が酸素を要求する。手足の震えも止まらない。苦しみを抑えるようにして身を丸め込む。
逃避してきたツケが回ってきた。直視した◼️が身を蝕んでくる。
いやだ、いやだ、いやだ! 死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない。あぁ! どうしてこんな目に合わなきゃいけないんだ!
その者にとってもはやそこが夢か現実か、ましてや生きているのか死んでいるかなど、定かではなかった。どうでもよかった。
そんなことよりもただこの『わからない』という未知が、理不尽がとても悍ましかった。
本当にいままでの世界が正しかったのか/間違っていたのか
本当に己は生きているのか/死んでいるのか
もう何もかもがわからない。己の世界の証明はどうすればいい。それだけがその者の懸念だった。
頭も手も足も胴も臓も何も見えない、在るのかすらわからない。何もかもが足りない。
ならばどうすればいい。考える。
簡単な話だった。足して、足して、足して、足す。その者は致命的欠陥を埋めるナニカを足さなければならない。他のところから持ってこなければならない。それだけの話。
───もし、そのナニカが分からずとも、
まるで火を宿したかのような、強い感情のこもった声が聞こえる。それは、熱くも、淡々という。
───どこにあるわからない足を動かし、どこに繋がっているかもわからない地を這いずり、なにも見えない前へと進み、その末路を高々と掲げるんだ。
まるで恋しがれる乙女のように熱のこもった声が聞こえる。当然のように聞き覚えはない。けど、どうしてもその声は胸を焚きつける。
───それこそが『生』の証明となるだろう。
原初の火が闇を照らす。黒を殺し白に染め上げる。けれども、相変わらず『ここ』には何もない。
───ようこそ、箱の中へ。