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漆器の中身

作者: 久野陽子

「お母さん、もうこれ捨ててや、いくら昔のもんでもここまで来たらもうゴミやざ」

 廊下の先、物置と化した棚の前から若い娘の声が響き渡る。そして、若い娘の横には棚の中をあさる赤ん坊がいた。

「駄目よ、もう少し静かにして。お婆ちゃんが寝てるんだから」

 中年の女性は娘をたしなめ、ついでに赤ん坊――孫の頭をよしよしとなでた。

「あ~、そや、私が母さんで、もうお母さんが婆ちゃんで、寝てるのはひい婆ちゃんや」

 つい最近変わってしまった家族構成をからかい半分に反復してみた。

「そやけど、もう明坊がはいはいして、いつ歩き出すかもわからんのに、棚ん中をこんなごちゃごちゃにはしておけんわ」

 視線を赤ん坊から棚へ戻すと、何とかしなくてはと気合を入れた。

 赤ん坊のため整理整頓、大掃除――

 廊下の先では賑やかな音が繰り広げられていても、障子を挟んで閉じられた部屋にはどこか遠くの場所の話。

 廊下の音は聞こえても、それは、部屋の主の耳には届かない。

 寝たきりになって、もう何年経つのだろうか、洪水があったことは覚えていても、それがいつだったかは覚えていない。

 あれから何が起きたのかも、寝たきりの頭では分からない。

 今は何時でここは何処で私は誰なのか、


 ――誰か分かる人はいますか?――


 ちりん、ちりん、ちりん、


 どこからか、甲高い金属音が聞こえてきた。

(…………)

 その音に向かって、憔悴した、開かない目のまま首だけを動かす。


 ちりん、ちりん、ちりん、


(……ああ、そうね、この音は――)

 布団の中、高い天井目がけて瞼がうっすらと開かれていく。

(あの人との約束の音――)

 世界が濁り、ぼやけた頭の中にでも、映し出されるのは鮮明な、あの人との大事な約束。


「万喜子さん、どうか僕と一緒に、この漆器店を切り盛りしてはくれませんか」

 申し訳なさそうな、今にも潰れそうなあの人の顔、辛気臭くて、後が無い、無粋な職人。

「困ります。突然言われても、私はまだあなたという人が分かっていません」

 河和田の田舎――そこに嫁ぐことがどういう意味を持つのか――

 分からないことだらけで、上手くいきかけてたお見合いなのに、私の不安一つで壊れそうになってしまった――

「これを、万喜子さんに託します」

「これは?」

「もう一度会う時までに、その鈴は沢山の音を鳴らすでしょう。その時まで、この鈴が鳴ったら、僕が来たと思って下さい」

 言葉と共に去ったあの人、手に残った小さな鈴。

 鈴は幾度と鳴って、その度に私はあの人の顔を思い浮かべて――居ても立っても居られない気持ちが吹き上がって――約束の日よりも早く訪ねてきてしまったおっちょこちょいな私――

 そのままここに嫁いで、もう鈴を鳴らす必要が無くなって――何処にしまったのかしら。


 ちりん、ちりん、ちりん、


 閉じられていた障子がわずかに開いた。

 人が入るには足りない隙間、だけども、小さなお椀が入るのには、十分な隙間だった。

 泥まみれの黒い漆器。

 椀と蓋がひっついて、離れることのない、使い物にならないガラクタ。

 あの人が作ったお椀から聞こえる、小さくて細い音。

(ああ、そうね、そうだったわね)

 見えない目でも涙は溜まる――

 漆器にこびりついて離れない泥――それは、洪水の中を、全てが流された日にも流されまいと――ここに残ると、そのお椀が言った証――

 あの人がまだここにいると、そう言っているのだ。

 でも、あの人は何処?

 もう何年も前にあの人は何処かへ逝ってしまった。

 私は待つだけの人になってしまった――


 ちりん、ちりん、ちりん、


 濁って、色も何もない虚ろな瞳――

 寝たきりで起き上がれない身体――

 首だけ動かした先にある黒い椀――

 そして、お椀の更に先、うっすらと開いた障子の間には、確かに顔がある。

 少し剥げた髪、薄くなってしまった眉毛に、たるんだほっぺた――

 わずかなしわが懐かしさを掻き立てる。


「そこにいらしたんですか? 仙吉さん」

 驚いた万喜子は体を起こした。

「あんな昔の約束、まだ覚えていてくれたんですね」

 嬉しさのまま布団から抜け出すと、今度はそそと黒いお椀を掴み、耳元で鳴らしてみた。

「酷いですよ。何年も待たせるなんて」

 劣化していない音に思わず口元が綻んでしまう。

「今度は置いていかないで下さいね。私はあの時と違って、もう迷っていませんから」

 長年連れ添って、離れ離れになってしまった思い人――

 今度こそ最後まで一緒に居よう。

 万喜子は歩いた。

 わずかに開いた、障子の隙間を通って――


「あーー、あぁ~、うぅ~」

 楽しそうにお椀を転がし、笑う赤ん坊の声が万喜子の部屋から聞こえてきた。

「明坊! もう障子開けれるようになってもたんけな!」

 声を聞き、慌てて入ってきた若い母親は急いで赤ん坊を抱き上げた。

「あ~、言っても無駄やわ。何とかせなあかんなぁ」

 日々成長して、やんちゃといたずらを繰り返す我が子には疲れ果ててしまう。しかし、日々の成長の喜びも出てくる。

「心配してたけど――髪も生えてきたし、眉はお爺ちゃんに似てきりっとしてきたし、立派な赤ちゃんになってきたなぁ~」

 祖父の遺影をバックに、赤ん坊と部屋を出ようとした時だった。

 ぽいっ!

 ガシャ!

「げっ!」

 赤ん坊は持っていたお椀を床に投げつけた。

 お婆ちゃんの大事にしていたお椀が蓋を開け、中から錆びた鈴が出てきてしまった。

 お婆ちゃんの思い出はそのままの形で残しておくつもりだったのに――

「お婆ちゃん、ごめ――」

 慌てて謝ろうと振り向いたが、寝たきりの老人は微笑んでいて――


「あ~~、あっ、あぶーー」

 鈴を置いて去ったお婆ちゃん――

 お爺ちゃんの作ったお椀の中に思い出を閉じ込めて――何を思っていたのだろうか――


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