09 “バット・ノット・フォー・ミー(But Not For Me)”(5)
* * *
もしもまた土井先輩に鑑賞会を開催していただけたなら、きっと楽しいに違いありません。
ただ、私はもう前回のように無邪気にはなれない。
そんな気がしていました。
佐野先輩と土井先輩、おふたりを前にして、私はどんな表情でいられるのだろう。
今、運転に集中しながらも、私に優しい言葉をかけてくださっている土井先輩のことを思うと、胸が苦しくなってしまう。
サイドシートに乗せていただいて嬉しいという私の気持ちより、土井先輩の切ない気持ちの方がとてつもなく大きいはず。
……私の大好きなおふたりが、とても幸せそうなのが想像できる。
私はそこに割って入るようなことはしたくない。
しようとも思わないし、できない。
さびしい気持ちもあるけれど、私の出る幕はない。
それに、おそらく私は土井先輩から「女」として見られていない。
土井先輩は私にとても優しくしてくださるけれど、それはただの「後輩」としての私にだ。
そして、佐野先輩は私から見てもすごく素敵な人。
女性としても申し分ないと思う。
そのことは、佐野先輩を知れば知るほどよく分かる。
佐野先輩が私をよく分かってくださっているように。
佐野先輩と私を比べると、私が勝てるものは何もない。
ずっとそう思って……今だって思っている。
それでも、土井先輩の心にある見えない壁のドアを……私の分の鍵がなくても、土井先輩の方から開けていただければ、そうしていただけるなら、もしかしたら……。
いくら考えてみたところで、私が勝手に期待しているだけなのは分かっている。
自分に都合のいい想像でしかないことも。
土井先輩の心には、佐野先輩がいる。
佐野先輩しかいない。
いくら私がサイドシートに乗せてもらっても、佐野先輩がいる場所に、私は届かない。
佐野先輩は土井先輩の心の支えになっているのに、私はなんの役にも立っていない。
サンドウィッチとコーヒーを用意できても、それは佐野先輩にだってできること。
きっと私よりもずっと上手に。
私が土井先輩を癒してあげられたら。
いくらそう思っても……。
私にしかできないことをしてあげたい。
けれども、私にしかできないことなんて、あるのだろうか。
* * *
高速道路は快調に流れていた。
ボクは相変わらずいちばん左の車線で、他の車に抜かれるままにしていた。
曲はカウント・ベイシー楽団をバックにサラ・ヴォーンが歌う“オール・ザ・シングス・ユー・アー(All The Things You Are)”になっていた。
“あなたのすべては私のもの……”
「タマキ、この曲はどう? カウント・ベイシー楽団のすきっとしたホーン・セクションがカッコいいだろ?」
タマキが妙に静かだと思ったので、ボクは車間に注意しながらタマキをちらっと見た。
タマキは涙をこぼしていた。
少しうつむいているタマキの頬から、涙が落ちてゆくのを見てしまった。
「タマキ」
ボクはすぐ次のパーキングに入ることにした
うまい具合に、次は高坂サーヴィス・エリアだった。
ボクは広い駐車場の向かって左側、いちばん端に車を駐めた。
そこなら他の人たちの視界に入りにくい場所だと思ったから。
ボクはただ事ではないタマキに声をかけた。
「大丈夫か、タマキ。へたくそな運転で気分が悪くなったか?」
タマキはかぶりを振った。
その途端、タマキは両手で顔を隠すようにして、本格的に泣き出してしまった。
「私、先輩の運転が丁寧で慎重なこと、教習所にいたときからよく知ってます。それに今日だって、先輩はすごく丁寧な運転をしてくださっています」
タマキはしゃくり上げながらそう言った。
「それほどでもないけど、じゃなくてだな」
「ごめんなさい」
どうしてタマキが謝るのか、ボクには分からなかった。
それに、何故泣いているのだろう?
タマキは両手で顔を隠したまま、聞き取りにくい声で言葉を続けた。
「先輩が私に気を遣ってくださっているって、分かるんです。たぶん、せっかくだから楽しくなるようにって」
なんでそんなことを言うんだろう?
「私、先輩の初めてのドライヴに自分が行けるなんて、夢にも思わなかったんです。こんなふうにサイドシートに乗せていただけて、すごく嬉しいんです。でも……」
タマキは両手を顔から離さない。
涙があふれている。
「先輩のために何かできないかなって、考えたんです。私にしかできないことだって、もしかしたらあるかもしれない、そう気持ちを奮い立たせて……でも、何も見つかりませんでした」
タマキはハンカチを手にして、涙を拭いた。
両頬が濡れていた。
「私、先輩のすぐそばにいるのに、なんの役にも立ちません」
「それはひどい勘違いだよ。そんなこと言うなよ」
「私じゃ、先輩の気持ちにちっとも応えられないんだってことも、分かってます。よく分かってるんです。そのことが情けなくて、つらくって、悔しくって、私……」
あとは言葉にならなかった。
タマキは肩を震わせていた。
「タマキ……」
まさか、もしかすると、ボクを?
思い当たることは山のようにあった。
今になってそう気がついた。
ボクがキミに夢中で、これまで気がつかなかっただけで。
気がついてしまうと、タマキに申し訳ない気持ちになっていた。
目の前で肩を震わせて泣いているタマキを、このまま放っておくなんて、できない。
キミだって、放っておくことは許さないと思う。
ボクはタマキを抱き寄せていた。
一瞬はっとしたタマキだったけれど、依然として涙は止まらない。
ボクはタマキの背中にそっと腕をまわした。
ずいぶん華奢なんだな、タマキ。
ボクの前ではいつも元気でいてくれたから、もっと逞しいかと思っていた。
ボクはタマキのこと、けっこう知っているつもりでいたけれど、本当はなんにも知らないのかもしれない。
タマキはボクの胸に顔を埋め、まだ泣いている。
ボクはタマキが泣きやむまで、落ち着くまで、このままでいることにした。
泣きたいときは、心ゆくまで泣いてしまうのがいちばんいいのだから。




