09 “バット・ノット・フォー・ミー(But Not For Me)”(2)
* * *
「というルートを設定してみたんだ。マップに番号を書いた付箋が貼ってあるだろ。その順にめくっていってくれればいいかと思って。だからまずは、関越自動車道に練馬インターから……タマキ?」
「あっ、すみません。ついぼうっとしちゃって」
「もしかして、睡眠不足とか? ボクが早く来いなんて言っちゃったから」
「それは違います。ただ」
「なんだい? 遠慮なくなんでも言ってよ。まだ出発していないんだから、どうにだって変更可能だよ。出発してからも、タマキが望むなら変更できるし」
土井先輩は何げなくそうおっしゃったのでしょう。
なのに私は、勝手にうがった見方をしてしまいました。
土井先輩は私にあわせて、ご自分で考え抜いた行程を変更してくださるつもりなのだ。
佐野先輩とのことを思って予定していた行程を。
私は佐野先輩ではなく、ただの後輩。
土井先輩は後輩に優しく接してくださっている。
気を遣ってくださっている。
でも……。
私は先日のことを思い出していました。
電車のドア越しに土井先輩を見ていたときのことを。
ひどくうなだれていた土井先輩を。
「私は……先輩が思ったように進めてくだされば、それでいいんです」
「そうなの?」
「はい」
私は注意して元気な声で答えました。
「では、ひとまずはボクの考えたとおりで」
「はい」
「ナヴィゲート、よろしくお願いします」
「はい。頑張りますので、私の方こそよろしくお願いします」
「タマキとのコンビだから、なんの心配もなく行けそうだ」
「そうだと、いいんですけど」
「おい、やっぱりなんだか元気がなさそうだけど、大丈夫か?」
「すみません。だんだん緊張してきました」
私は素直に言いました。
「そうそう。カセット、持ってきた?」
「あ、はい」
私はショルダーの中のいちばん上に置いてあったふたつのカセット・テープ、『サキソホン・コロッサス』と『ムーン・ビームス』を先輩に差し出しました。
「さすがタマキ。インデックスまできちんとしてる」
「先輩にお願いされましたから、きちんとしました」
「いい後輩がいてくれてボクは幸せ者だ」
いつもの軽い冗談だと分かっていました。
けれど、今日の私は先輩に突っ込みを入れられませんでした。
「タマキ」
「はい、なんでしょうか?」
「突っ込みがないと、なんだかさびしい気がするよ」
「……すみません」
「おかしい」
「え?」
「タマキ」
「はい」
「もしかして、あの日?」
「何言ってるんですか、先輩。セクハラです」
「あれ? セクハラになっちゃうの?」
「私がそう思ってしまった以上は、セクハラです」
「少し調子が戻ったようだな」
土井先輩は優しく微笑んでくださいました。
「そうだ。今更だけど」
「はい?」
「今日のタマキの服装、似合ってるぞ」
私は学校には絶対着ていかない服装をしていました。
モス・グリーンのロング・パンツ、黒のキャミソールの上にデニムのシャツ……ボタンをふたつはずしてはおるように着て、袖をめくっていました。
足には白いコンフォート・サンダル。
ただ、山に行くとのことでしたので、ショルダーにシューズを入れておきました。
「もっとそういう服装でもいいのにな」
「え?」
「学校でも、さ」
土井先輩は私のことをきちんと見てくださっている。
とても嬉しい。
なのに、どうして私は切ない気持ちなのだろう。
「じゃあ先輩、そろそろ出かけましょう」
このまま先輩の部屋にいると泣いてしまいそうな気がしたので、私は明るくそう言いました。
明るく言ったつもりでした。
土井先輩には似合わない、とてもよく片付いている部屋。
忙しいのにも関わらず、佐野先輩が片付けたに違いない部屋。
「そうだな。せっかく早く来てもらったんだから、出かけることにしよう」
先輩は私に右手を差し出して、こうおっしゃいました。
「そのショルダー、貸して」
「あ、はい」
私は特に考えもせず、土井先輩にショルダーを渡していました。
「ボクが用意したカセットもこの中に入れてもいい? もちろん中をあらためたりしないから」
「はい、どうぞ」
先輩はご自身で用意された3本のカセットと、私が用意した2本をショルダーに収めながら、こうおっしゃいました。
「ボクはタマキみたいにマメじゃないから、インデックスはまったく書いてないけど、その分口頭で補足してみるよ」
「運転しながらでも平気なんですか?」
「やばいと思ったら黙るから、そのつもりでいて」
では出発しよう。
土井先輩はそうおっしゃると、私のショルダー・バッグを肩にかけてしまわれました。
「先輩、ショルダーを」
「ああ、ボクに持たせてよ。手ぶらだし」
「でも」
「姫に荷物を持たせるわけにはいかないって、天からの声が」
「……ありがとうございます」
「おや、また突っ込みはなしですか」
「すみません。ご期待に添えずに」
「じゃあ……いちおうさ、道路地図と予習レポートはタマキに任せるから、それだけ持ってきてくれる?」
「あ、はい。分かりました」
私は土井先輩のあとに続きました。
土井先輩は歩いているときもときどき私をふり返られ、話しかけてくださいました。
いつもと変わらない様子で私に接してくださっている。
私はよく分かっていました。
でも、私は黙ったままか、適当な相槌を打つだけでした。
「もう少しで着くからな」
先輩の部屋から3分程度のところに、コイン・パーキングがありました。
「おっと、行き過ぎるところだった。この車だよ、タマキ」
土井先輩は「わ」ナンバーの赤いコンパクト・カーを掌を上にして示してくださいました。
「とりあえず、ショルダーは後部座席でいいかな?」
「あ、はい。ありがとうございます」
「カセットだけ出すよ」
土井先輩は5本のカセットを手にして、運転席にお座りになりました。
「タマキも乗って」
私はサイドシートに腰を据え、シート・ベルトをセットしました。
「ではタマキ様、本番のナヴィゲート、よろしくお願いします」
土井先輩はキーをまわされました。
エンジンがかかりました。
「カセット、タマキに渡しとく」
私は5本のカセットを受け取りました。
「まずボクが持ってきた90分のヤツをかけてもいいかな?」
「もちろんかまいません。先輩がリラックスできるなら」
「ありがとう。ではこれをお願いします」
土井先輩はいちばん右にあったカセットを指さしてくださいました。
私はそのテープをカー・ステレオにセットし、再生ボタンを押しました。
豪快なドラムの音が聞こえはじめました。
「まず1曲目は景気づけにアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの“チュニジアの夜(A Night In Tunisia)”だ」
土井先輩は明るくおっしゃいました。
「ブレイキーではクリフォード・ブラウンのトランペットが気持ちいいバードランドでのライヴもあるんだけど、今回はより激しいこちらのテイクを選んでみたんだ」
土井先輩は曲が替わるごとにひとくち解説をしてくださいました。
ウイントン・ケリーの軽快なピアノで“オン・グリーン・ドルフィン・ストリート(On Green Dolphin Street)”、それと張り合うようなトミー・フラナガンのピアノで“リラクシン・アット・カマリロ(Relaxin' At Camarillo)”、以前土井先輩がLPで聴かせてくださったウォルター・ビショップ・ジュニアの“スピーク・ロウ(Speak Low)”。
3曲ピアノ・トリオの名演が続いた後に、クリス・コナーのヴォーカルで“星影のステラ(Stella By Starlight)”、デューク・エリントン楽団の“A列車で行こう(Take The ‘A’ Train)”。
どの曲もすごく素敵でした。
私は言葉もなく、土井先輩の声とジャズに聴き入っていました。
やがて、ヴィブラフォンの音が聞こえてきました。
軽快なのに落ち着いた感じの演奏です。
「モダン・ジャズ・カルテット、略してMJQ。このグループの演奏は『ジャズ室内楽』と呼ばれるくらい、すっきりしたアンサンブルが見事なんだ」
テーマをヴィブラフォンが綴っていきます。
どこかで聞いたことのあるメロディーだと思いました。
「曲はジョージ・ガーシュウィンの作曲で“バット・ノット・フォー・ミー(But Not For Me)”。けっこう悲しげな歌詞を持つ曲なんだけども、MJQのこの演奏だとからっとさわやかに聞こえるよな」
“バット・ノット・フォー・ミー”……でも、私のため、ではない。
なんだか身につまされるような気がしました。
今の私には、お似合いなのかもしれません。




