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サイドシート  作者: ソラヒト
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02 スケジュール

 ボクとタマキは研究棟のラウンジでにいた。

 6月になっていたけれど、まだ梅雨には入っていなかった。

 今日の空模様は5月のようなさわやかさがあった。それでも、陽射しはときどき夏の始まりを感じさせた。

 研究棟は学内の他のどの建物よりも新しいためか、密閉性がよいようだった。

 ラウンジはガラス張りで外の様子がとてもよく見えた。

 つまり、今日のように陽射しの強い日は、思いのほか暑さを感じた。


「先輩って、こだわりがあるものにはほんっとうに厳しいですよね」

「同じお金を払うなら、よいに越したことはないだろ」

「それはそうですけど、ねえ」


 ここは、学内で唯一まともなコーヒーを飲める場所だった。

 おそらくは、学外からのお客さんが利用することも多いからだろう。

 学食など、他の場所なら、缶コーヒーの方がまだましだとボクは思っていた。

 ボクとタマキは「ラウンジ・ブレンド」を飲んでいた。ここのブレンドはオリジナルをうたっていたのだった。とはいえ、コーヒーのメニューはこれひとつだけだった。あとは夏期にアイス・コーヒーが登場するのだが、このときはまだホットしか飲めなかった。

 ラウンジのテーブルは、クッションが柔らかい椅子に座ったボクの、膝ぐらいまでしかない高さだった。

 テーブルに置いた学科教習カリキュラムの時間割を見ていたタマキは、自然と前屈みになっていた。

 タマキはこの日、やはりゆったりとした白い男物のシャツを着て、ジーンズをはいていた。ジーンズは黒ではなく、スリムのブルー・ジーンズで、ダメージ加工が施してあるようだった。靴のブランドはニュー・バランスだったと思う。

 シャツは袖をひとつまくっていた。その下には黒のタンクトップを着ているようだった。ようだった、というのは、ボクはタマキの服装にそれほど関心がなかったからだ。

 ボクはタマキがいつもシャツの第1ボタンを開放していることは知っていた。

 こんなふうに女の子が前屈みになれば、ボクだってなんとなく胸元の様子が気になってしまうものだけど、タマキに対しては不思議とそんな気にならなかった。

 タマキとの初対面のとき、タマキが男物のシャツと黒のジーンズという服装だったこともあって、ボクはタマキを遠くから一見したとき女性とは思わなかった。

 それ以来、タマキがさばさばとした性格だからか、体型の起伏をあまり感じないからだか、女性ということは当然分かっていても、タマキに「女」を感じることはなかったと言える。

 ボクには弟がいるけれど妹はいないから、タマキを妹のように感じているのだと思った。

 でも、このことはもちろんタマキには言ってない。いや、むしろ誰にも内緒だった。

 人づきあいの少ないボクが黙っていれば、タマキにばれることはない。

 ただひとりの例外である、キミの前での発言に気をつけておくならば。


「じゃあ、今後の教習所の予定について、前期試験の日程も加味しながら考えましょうか、先輩」


 赤のボールペンをもって、緑色の表紙をした手帳に書かれた自分のスケジュールを確認しつつ、タマキはボクに言った。

 タマキのリーダーぶりは堂に入ってきた。

 もはやタマキの方が先輩なんだと言っても、誰も疑うことはないだろう。


「はい、ひとまずは、これでよし」

「ヨシ」

「このとおりにうまくいけば、夏休み前には問題なく免許が取れてますね、先輩」

「ああ、そうだな」

「少しぐらいなら、何かあっても調整できそうですし」

「タマキはホント、素晴らしい後輩だ」


 ボクがそう言うと、タマキは少しだけにこりとした。


「頑張って、前期試験の前に、充分に余裕を持って片付けてしまいましょう、先輩」


 ボクはそれからのことを考えて、わくわくしていた。


「先輩?」


 自分の車は当面は無理だけれども、世の中にはレンタカーがある。


「セ・ン・パ・イッ」


 免許を手にすることができたら、ドライヴに行けるのだ。そうしたら……。


「先輩ったらっ!!」


 タマキがふくれっ面をしてボクを見ていた。

 立ち上がって腕組みをしている。


「ん? どうかしたか、タマキ?」

「知りません」


 タマキは自分の荷物を片付けると、ボクを残してさっさとラウンジから出て行ってしまった。

 ボクはやらかしたらしい。


    *      *      *


 ボクがアルバイトと免許取得で慌ただしくしている間、キミは劇団のことで忙しくしていた。

 この夏に、すごく重要な公演が決まったのだということは聞いていた。

 

── 自分も今回は大切な役をもらっているし、今まで以上に責任もある。

── 申し訳ないけど、なるべく稽古に専念させてほしい。

── それに前期試験もあるし、いくつかレポートの課題もある。

 

 だからキミは、人生始まって以来最高の多忙さだったのかもしれない。

 そのことが分かっていたから、ボクはキミの邪魔をしたくなかった。

 ボクからキミに会いにいくことは控えていた。

 キミがボクのところに来たときは、明らかに息抜きだと分かったとき以外は、いつも静かにしていた。

 レコードを聴いていてもヴォリュームは抑えめにした。キミの好きなビル・エヴァンズのバラード・アルバム、『ムーン・ビームス』をかけているときでさえも。

 そんなボクを見ても、キミは別段どうということもなかった。

 劇団での忙しさの合間を縫って、如何に目の前の課題をやっつけるか、そのことで手一杯のように見えた。

 

 稽古が休みのときは、キミとボクはずっと一緒にいた。

 稽古がないだけで、まだ他にもキミの課題はたくさんあるはずだった。レポートが少しは片付いていたようだけれども。

 とは言え、そろそろキミとボクはお互い充電が必要だと感じていた。誰にだって充電は必要なのだ。

 こんなときは、もちろん買い物や食事で出かけることもあったけれど、キミとボクはあらかた部屋の中で、ほとんど服を着ないで過ごしていたと思う。

 『ムーン・ビームス』は、この頃よく聴いていた1枚だった。

 ほぼ一日中。


    *      *      *


 ボクは卒検に合格し、あとは運転免許センターでの最後の学科試験を無事に通過できれば、免許を手にできるところまできた。

 ボクは技能よりも学科にはずいぶん自信があったから、天変地異が起こるとか、大けがでもして外に行けなくならない限り、まず大丈夫だと思っていた。


「でも、あなたには前科があるからねえ」

「前科って……」

「突然入院しちゃったりするもんねえ」

「だからさ、それはもう勘弁してくれよ」


 キミはニヤニヤして、言葉でボクをいじめた。

 ボクは癪だったので、言葉とは違う方法でお返しをした。

 そして、キミよりもはるかに疲れ果ててしまった。

 これではお返しというよりは返り討ちかもしれなかった。

 ボクが消耗するほどキミは元気になるのだから。


「あなたって、実は偉人なんじゃない? 私のために、いつもこんなにエネルギーを分けてくれるんだもん」

「キミが元気になって、ボクは嬉しいよ」

「私がいつもより忙しいから、特別なのかな?」


 それでも、ボクにとっては充電になっていた。

 キミの温もりがどうしても必要だったから。

 ボクだって、キミからいろいろもらっているのだった。


    *      *      *


 ボクはキミとの将来のことを真剣に考えるようになっていた。

 キミは何処へ行こうとしているのか、ボクにもだんだん見えてきた。そう思っていた。

 キミが行きたい方向にボクは先回りして、ボクの後についてくれば安心なのだと思ってもらえるようになれば……。

 ボクは心の底からそう願っていた。


    *      *      *


 キミの劇団の当面のスケジュールが発表となり、それは印刷物として配られた。

 前期試験とかぶるように、週に三日~五日は、何かしらのスケジュールが入っていた。


「もちろんあくまでも予定だし、この全部に私が行くんじゃないから。一日二日程度ならどこかで問題なく休みがとれる、はず、だから……」


 気を取り直して、キミとボクはまずドライヴの日程を考えた。

 試験の日は避けるとしても、ボクは当然キミの予定を重視した。

 第3候補までは組めそうだった。


「このうちのひとつぐらいは、ね」


 キミは言った。


「休みにしてくれないと、いくらなんでも泣いちゃうわよ」


 稽古はいつもよりハードな上、大きな公演になるのでその準備も大規模なのだと聞いた。

 それはそうだろうと、すんなり納得できた。


「私、助手席で眠っちゃったら、ごめんね」


 ボクは笑ってこう返した。


「キミがぐっすり眠れるくらい、運転が上手ならたいしたものさ」

「あまりの衝撃に気絶、っていう可能性もあるんじゃないかしら?」

「そうだな、それは否定しないでおこう」


 キミは優しく微笑んでいた。


「とにかく、気絶してようが眠ってようが、他の何かをしていようが、ボクのサイドシートにキミがいてくれることがボクにとっていちばん重要なんだ」

「ねえ、もう夏が来ると思うんだけど、雪なんて降らないよね?」


 ボクは得意の苦笑いをするしかなかった。


「なんだかとっても情熱を感じるな。嬉しいな。あなたがそんなに熱く語ってくれるなんて」

「そこに深い意味を感じ取ってくれてもいいよ」


 キミはにこにこして言った。


「あら、そんな手抜きでは、私はうなずいたりしないわよ。ひとつひとつ、丁寧にじゃなきゃ、納得しないんだから」


 ニュアンスはきちんと分かっている、その上でのキミの言葉だと感じた。


「あのときと、一緒なんだから」

「あのときって、なんだよ」

「それとも、あなたは私を置いて先にイっちゃうつもりなのかなあ」

「あのなあ……」


 キミはフフッと笑っていた。


「キミのニュアンスはいたずらが過ぎる」

「だって、いつもは私が先だから、ちょっといじわるしてみたくなって、ね」


 おやおや。

 ボクはそう思いながらも、キミがとても嬉しそうなのが分かっていた。


「もちろん後悔はさせない。納得はさせる。そのつもりだよ。キミに何度も話したとおりだ」


 ボクは胸を張って言うことができた。


「ボクのポリシーだしね」


    *      *      *


 ボクは精一杯キミをリードしていきたい。

 だから、キミにはずっとボクをフォローしてほしい。

 ボクがどん底にいたとき、ボクが入院して途方に暮れていたとき、キミは全身全霊を込めてボクを助けてくれた。

 今度はボクがキミに応える番だ。

 いや。

 これからは、と言った方が、今の気持ちにふさわしい。

 ちょっとだけ残っていたかもしれない距離は、ボクにはもう見えなくなっていた。


    *      *      *


「キミはどこか、行ってみたいところはある?」

「あなたが一緒にいてくれるなら、何処どこにだって・・・」


 いつになく、ボクから口づけていた。

 キミを思いきり抱きしめたかった。

 離したくなかった。


「そろそろ、苦しいよ」


 ボクは力を緩めた。


「一緒にいてほしいんだ。キミに」

「うん。ずっと前から、知ってるよ」


 キミはボクの肩に腕を回した。

 今は、キミの番になっていた。


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