09 “バット・ノット・フォー・ミー(But Not For Me)”(1)
私は先輩の部屋のドアの前に、6時半には着いていました。
土井先輩は「7時までに」来るようにとおっしゃってましたから、6時半ならチャイムを鳴らしても大丈夫だとは思いました。けれども、私はなかなか鳴らせませんでした。
ドアの前で息を整え、チャイムに右手を伸ばし、人差し指が届く直前で、鳴らせずにうつむいてしまう。
そんなことを何度繰り返したでしょう。
まるで不審者でした。
意を決してチャイムを鳴らした時には、時刻は結局6時50分をまわっていました。
ドアの向こうから、足音が近づいてくるのが分かりました。
そうだ。
私は気がつきました。
見えない壁のドアを……私の分の鍵がなくても、土井先輩の方から開けてもらえたら。
私はすごく緊張してしまいました。
いえ、もしかしたら「緊張」ではないかもしれません。
私のヴォキャブラリーの中では「緊張」という言葉がいちばん近いというだけで、まったく異なる状態なのかもしれません。こんなふうに感じるのは、初めてのことでしたから。
もうすぐ、土井先輩がこのドアを開けてくださいます。
そのとき、私はどんな表情でいればいいのだろう?
おはようございます……その次に、なんて言えばいいのだろう?
足音がやみました。
ガチャッという音がして、ドアが開きました。
「タマキ様、よくぞいらしてくださいました」
「おはようございます」
「おや? なんか大きいショルダーを持ってるな?」
「その……私なりに考えて、いざというときのために七つ道具を用意したんです」
土井先輩が疑問形で話をつないでくださったので、私は自然に答えることができました。
「七つ道具、か。してやられたな。うまい設定だ」
「設定じゃありませんよ。今はお見せしませんけど、ちゃんと入ってますから」
私の七つ道具は、コーヒーを入れた保温水筒、お手ふき、サンドウィッチ、花柄のヴィニール・シート、念のための消毒薬と絆創膏、それにタオルでした。
「ひとまず上がってくれるかな? 予定とか、打ち合わせってほどでもないけど、した方がいいと思うから」
「分かりました。では、お邪魔します」
私は土井先輩の後に続いて、リヴィングに通していただきました。
「運転しながら話せばいいかと思ってたんだけど、ボクはまだそこまでのスキルを持ってないので」
「安全第一、ですね、先輩」
「そのとおり。運転しながらだと余裕がないという自信がある」
「なんか、不思議な日本語になってますよ、先輩」
「むむ。自分で考えていた以上に緊張してるかも」
「まだなんにも始まってませんよ」
「イヤ、もう目の前に大事なお姫様がいらっしゃるんだ。姫を無事にご自宅まで送っていくまでは気合いを入れておかないと」
「お姫様って、私のことなんですか?」
「もちろん。今ここにいるのはボクと姫だけだよ」
「素直に喜べません」
「あれ? ダメだった?」
「私に気を遣ってくださるのはありがたいですけど、そんなことじゃダメです」
「でもさ」
「先輩」
「はい」
「もっと気楽になさってください。なんでも私ばかりなのは、イヤです。私は、自然と楽しそうにしている先輩を見たいです」
「姫がそうおっしゃってくださるとは、拙者、感激の至りでございます」
「はい、もういいですから、先輩が言われた打ち合わせをお願いします」
「軽くいなされた」
付箋をつけた道路マップがテーブルの上に出ていました。その横にはレポート用紙がありました。
もしかして、私が来るまでゼミの課題のレポートを書いていたのかな、と思いましたが、そのための参考書等が見当たりません。
「まあとりあえず座ってよ」
「先輩、レポートを書かれていたんですか?」
「ああ、これ?」
土井先輩はレポート用紙をこちらに向けてくださいました。
「これって……」
「レポートはレポートでも、今日のためにいろいろ考えた予習のレポートなんだ。読めるかな?」
土井先輩には失礼かもしれませんが、きっと課題のレポートよりもはるかに書き込んであるに違いない……それだけ今日のドライヴに期するものがあったのだと感じました。
やっぱり。
私は思いました。
土井先輩がどのくらいこの日を心待ちにされていたか。
どれほど佐野先輩を乗せていかれたかったのか。
たぶん、私がいちばんよく知っている。
「それ、タマキが持っててくれる? いちおうそこに書いたように行くつもりだけど、ボクは運転してると精一杯になって忘れちゃいそうだから、その時は突っ込んで」
「……分かりました。お預かりします」
サイドシートに乗せていただけることは素直に嬉しい。
先輩の初めてのドライヴに自分が行けるなんて、佐野先輩に誘っていただけるまでは夢にも思いませんでしたから。
でも、ドライヴ自体、佐野先輩がいらしてこそのものです。
土井先輩の予習レポートは、佐野先輩とどうしたいか、佐野先輩をどう喜ばせたいか、そういう思いがたくさん詰まっているように見えました。
今、佐野先輩はここにいらっしゃらないのに。
ここにいるのは私なのに……。
── 本当に大切だと思ったなら、どんなときでもまっすぐ向き合わないと。
佐野先輩の言葉が、私の中で重く響いてる気がしました。




