08 『ワルツ・フォー・デビイ』(2)
「路駐、平気かな。駐めっぱなしでも他の車が通れる幅は充分にあるけど」
「そうだ。そのことだけど、車がよく通る道じゃないから、さっきも言ったように、夜中だとすぐ分かるのね」
「うん、それはそうだろうな」
「道路には駐車禁止の標識もあるし」
「うん、あった。心苦しいほどに」
「でね、どうやら近所に通報好きな人がいるみたいで」
「おい、それは早く言ってくれないと」
ボクは立ち上がってキミの部屋から出て行こうとした。
「なんてね」
「なんてね?」
「たぶん大丈夫だよ。短時間なら」
「ホントか?」
「うん。ときどきね、今のあなたみたいに路駐して、誰かの部屋に来てる人がけっこういるの」
「実例がある、と」
「どのくらいの時間なら大丈夫かなんて分からないけど、1時間程度駐めてあったのは、私、何回も見てるよ」
「やれやれ。脅さないでくれよ」
ほっとひと息。
「ごめんね、ちょっといじわるで」
「ちょっとで済んでよかったよ」
「お茶ぐらい出すから、飲んでいって」
「ありがとう。でもそれは気持ちだけでいいよ。とにかくつないで、音を出してみないと」
セッティング。
ふたりでかかるとやはり早い。
キミはスピーカーの位置を調整した。
ひととおり確認してから、ボクは言った。
「これで、ヨシ」
「GOOD!」
「ではあらためて、キミがスイッチをオンにしてください」
「OK、オンにします」
電源が入って、プレーヤーに命が戻る。
「続いて、ターン・テーブルに、このLPを載せてください」
ボクはキミにねだられたアルバム、『ワルツ・フォー・デビイ』を手渡した。
「いよいよね。わくわくするわ」
「ヴォリュームは下げておくからな」
キミはジャケットからディスクを取り出した。指紋をつけないように、掌と掌で挟むようにして、静かにターン・テーブルに載せた。
A面が上になっている。
1曲目はキミのお目当ての“マイ・フーリッシュ・ハート”だ。
「では、アームを動かして、カートリッジを」
言い終える前に、キミは既に針を下ろそうとしていた。
ボクは黙って見守った。
スクラッチ・ノイズが少しだけ聞こえたあとで、エヴァンズのピアノがテーマの初めの2音を奏でた。すかさずポール・モチアンがブラシを細かく揺らしてシンバルを鳴らす。
周りが静かなためか、だいぶ絞ったヴォリュームでもはっきり聞こえた。
「来た……これが聴きたかったんだ、ブラシでチキチキチキチキサーって鳴らすの」
「聞こえましたね」
「はい、聞こえました」
「以上でレコード・プレーヤー再デビュー式典を終わります」
ボクは式典らしく、キミに向かって「礼」をしてみる。
キミも「礼」を返してくれる。
キミとボクは少しの間、黙って耳をすましていた。
エヴァンズ・トリオはテーマを美しく奏で続けている。
「ホント、嬉しいなあ。疲れてへとへとだってこと、忘れちゃうなあ」
「音楽の力は偉大だな」
「うん、偉大だよ」
「でも、疲れているのは間違いないんだから、早く寝てくれよ」
エヴァンズのピアノはダブル・テンポになってから快調にソロを奏でている。
ボクは立ち上がると玄関へ向かった。
「帰っちゃうの?」
「帰っちゃうよ」
「やっぱり、ダメ?」
「ダメです」
「ホントに、ダメ?」
「ダメです。またあとで、です」
「はぁ~い」
ドアを開けて表に出たボク。
ややしょんぼりした様子で見送りに出てきたキミ。
「おっと、来なくていいからな。見送ってくれるならドアの前で」
ボクは静かにそう言うと、階段を下りた。
キミはボクの指示に従っていた。
良い子にしていてくれて、よろしい。
ボクは駐禁をとられていないことを確認してひと息つくと、運転席のドアを開けた。
すると、キミが小走りでボクの方に来るのが見えた。
すぐに悪い子になって、悲しい。
「見送りはドアの前でって言ったのに」
ボクは小さい声で言った。
キミはボクにそれ以上しゃべらせないように、ボクの唇を手を使わずにふさいだ。そして、囁くように言った。
「見送りじゃないよ。キスしに来たんだから」
やんちゃな子になって、嬉しい。
「それはどうも。では、おつりです」
ボクはキスを返した。
キミは嬉しそうだった。
「明日……じゃなくて、もう今日だね」
「ああ、そうだな」
「ドライヴ、気をつけて行ってきてね」
「もちろん」
「ホントにホントよ」
「大丈夫だよ。法定速度をきちんと守って走るから」
「タマキちゃんの寿命が縮まらないといいけど」
「絶叫マシーンにはしないって、タマキに言ってあるよ」
「じゃあ、大丈夫かな」
ボクは運転席に乗り込んだ。
ドアを閉めて、窓を全開にした。
「ねえ、ちょっとだけ、乗っけてもらってもいいかな?」
ボクはキミの考えがすぐに分かった。
「だったら、ちゃんと戸締まりしてこいよ」
「うん。すぐ戻ってくるから、待ってて」
ボクはキミをサイドシートに乗せた。
ちょっとだけ、広い道を選んでひとまわりすることにした。
免許取得後、ボクの運転で人を乗せたのはキミが初めてだった。
「これで私が一番乗り、だよね」
「そうだな」
「あなたの運転を恐れずに初めて乗った勇敢な人物ね」
「そう、だな」
「あなたのサイドシートに、初めて乗った天使のような女性ね」
「天使ってもしかして、お迎えですか?」
キミは「あ」と言って少し慌てた。
「取り消し」
「取り消し」
「あなたのサイドシートに初めて乗った」
「乗った?」
「あなたのことを愛してる、麗しい女性」
急にそう言われて、ボクは言葉に詰まった。
ギアをパーキングに入れて、エンジンを止めた。
再びキミのアパートの前に来ていた。
キミはてきぱきと車を降りて運転席の方へ回り、ドアを開けて出ようとしているボクにストップをかけた。
「ここまでで、いいよ。降りなくても」
ボクは開けかけたドアを閉めた。窓は全開のままだった。
キミはドアの向こうから運転席に身を乗り出すようにして、また軽く口づけた。
「次は、私とドライヴしてね」
「もちろん、そのつもりです」
「約束よ」
「約束です」
「丁寧語」
「なんか、照れくさいんです」
キミはフフッと笑った。
「気をつけて帰ってね」
「ああ。キミはレコードが聴けるからって夜更かしすんなよ」
「どうかなあ、元気になって来ちゃったし」
「早く寝てください」
「了解。『ワルツ・フォー・デビイ』だけにしておく」
「そうしてください」
「じゃあ、またね」
ボクはエンジンをかけた。
「キミが部屋に戻ってくれないと、安心できないなあ」
「いいの。運転するあなたを初めて見送る人にもなりたいの」
「そうですか」
「そうですよ」
ボクはギアシフトを握った。
「またな。おやすみ」
「うん、おやすみ」
ボクはアクセルを踏んだ。
バックミラーに、手を振っているキミが映っていた。




