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サイドシート  作者: ソラヒト
18/23

08 『ワルツ・フォー・デビイ』(2)


「路駐、平気かな。駐めっぱなしでも他の車が通れる幅は充分にあるけど」

「そうだ。そのことだけど、車がよく通る道じゃないから、さっきも言ったように、夜中だとすぐ分かるのね」

「うん、それはそうだろうな」

「道路には駐車禁止の標識もあるし」

「うん、あった。心苦しいほどに」

「でね、どうやら近所に通報好きな人がいるみたいで」

「おい、それは早く言ってくれないと」


 ボクは立ち上がってキミの部屋から出て行こうとした。


「なんてね」

「なんてね?」

「たぶん大丈夫だよ。短時間なら」

「ホントか?」

「うん。ときどきね、今のあなたみたいに路駐して、誰かの部屋に来てる人がけっこういるの」

「実例がある、と」

「どのくらいの時間なら大丈夫かなんて分からないけど、1時間程度駐めてあったのは、私、何回も見てるよ」

「やれやれ。脅さないでくれよ」


 ほっとひと息。


「ごめんね、ちょっといじわるで」

「ちょっとで済んでよかったよ」

「お茶ぐらい出すから、飲んでいって」

「ありがとう。でもそれは気持ちだけでいいよ。とにかくつないで、音を出してみないと」


 セッティング。

 ふたりでかかるとやはり早い。

 キミはスピーカーの位置を調整した。

 ひととおり確認してから、ボクは言った。


「これで、ヨシ」

「GOOD!」

「ではあらためて、キミがスイッチをオンにしてください」

「OK、オンにします」


 電源が入って、プレーヤーに命が戻る。


「続いて、ターン・テーブルに、このLPを載せてください」


 ボクはキミにねだられたアルバム、『ワルツ・フォー・デビイ』を手渡した。


「いよいよね。わくわくするわ」

「ヴォリュームは下げておくからな」


 キミはジャケットからディスクを取り出した。指紋をつけないように、掌と掌で挟むようにして、静かにターン・テーブルに載せた。

 A面が上になっている。

 1曲目はキミのお目当ての“マイ・フーリッシュ・ハート”だ。


「では、アームを動かして、カートリッジを」


 言い終える前に、キミは既に針を下ろそうとしていた。

 ボクは黙って見守った。

 スクラッチ・ノイズが少しだけ聞こえたあとで、エヴァンズのピアノがテーマの初めの2音を奏でた。すかさずポール・モチアンがブラシを細かく揺らしてシンバルを鳴らす。

 周りが静かなためか、だいぶ絞ったヴォリュームでもはっきり聞こえた。


「来た……これが聴きたかったんだ、ブラシでチキチキチキチキサーって鳴らすの」

「聞こえましたね」

「はい、聞こえました」

「以上でレコード・プレーヤー再デビュー式典を終わります」


 ボクは式典らしく、キミに向かって「礼」をしてみる。

 キミも「礼」を返してくれる。

 キミとボクは少しの間、黙って耳をすましていた。

 エヴァンズ・トリオはテーマを美しく奏で続けている。


「ホント、嬉しいなあ。疲れてへとへとだってこと、忘れちゃうなあ」

「音楽の力は偉大だな」

「うん、偉大だよ」

「でも、疲れているのは間違いないんだから、早く寝てくれよ」


 エヴァンズのピアノはダブル・テンポになってから快調にソロを奏でている。

 ボクは立ち上がると玄関へ向かった。


「帰っちゃうの?」

「帰っちゃうよ」

「やっぱり、ダメ?」

「ダメです」

「ホントに、ダメ?」

「ダメです。またあとで、です」

「はぁ~い」


 ドアを開けて表に出たボク。

 ややしょんぼりした様子で見送りに出てきたキミ。


「おっと、来なくていいからな。見送ってくれるならドアの前で」


 ボクは静かにそう言うと、階段を下りた。

 キミはボクの指示に従っていた。

 良い子にしていてくれて、よろしい。

 ボクは駐禁をとられていないことを確認してひと息つくと、運転席のドアを開けた。

 すると、キミが小走りでボクの方に来るのが見えた。

 すぐに悪い子になって、悲しい。


「見送りはドアの前でって言ったのに」


 ボクは小さい声で言った。

 キミはボクにそれ以上しゃべらせないように、ボクの唇を手を使わずにふさいだ。そして、囁くように言った。


「見送りじゃないよ。キスしに来たんだから」


 やんちゃな子になって、嬉しい。


「それはどうも。では、おつりです」


 ボクはキスを返した。

 キミは嬉しそうだった。


「明日……じゃなくて、もう今日だね」

「ああ、そうだな」

「ドライヴ、気をつけて行ってきてね」

「もちろん」

「ホントにホントよ」

「大丈夫だよ。法定速度をきちんと守って走るから」

「タマキちゃんの寿命が縮まらないといいけど」

「絶叫マシーンにはしないって、タマキに言ってあるよ」

「じゃあ、大丈夫かな」


 ボクは運転席に乗り込んだ。

 ドアを閉めて、窓を全開にした。


「ねえ、ちょっとだけ、乗っけてもらってもいいかな?」


 ボクはキミの考えがすぐに分かった。


「だったら、ちゃんと戸締まりしてこいよ」

「うん。すぐ戻ってくるから、待ってて」


 ボクはキミをサイドシートに乗せた。

 ちょっとだけ、広い道を選んでひとまわりすることにした。

 免許取得後、ボクの運転で人を乗せたのはキミが初めてだった。


「これで私が一番乗り、だよね」

「そうだな」

「あなたの運転を恐れずに初めて乗った勇敢な人物ね」

「そう、だな」

「あなたのサイドシートに、初めて乗った天使のような女性ね」

「天使ってもしかして、お迎えですか?」


 キミは「あ」と言って少し慌てた。


「取り消し」

「取り消し」

「あなたのサイドシートに初めて乗った」

「乗った?」

「あなたのことを愛してる、麗しい女性」


 急にそう言われて、ボクは言葉に詰まった。

 ギアをパーキングに入れて、エンジンを止めた。

 再びキミのアパートの前に来ていた。

 キミはてきぱきと車を降りて運転席の方へ回り、ドアを開けて出ようとしているボクにストップをかけた。


「ここまでで、いいよ。降りなくても」


 ボクは開けかけたドアを閉めた。窓は全開のままだった。

 キミはドアの向こうから運転席に身を乗り出すようにして、また軽く口づけた。


「次は、私とドライヴしてね」

「もちろん、そのつもりです」

「約束よ」

「約束です」

「丁寧語」

「なんか、照れくさいんです」


 キミはフフッと笑った。


「気をつけて帰ってね」

「ああ。キミはレコードが聴けるからって夜更かしすんなよ」

「どうかなあ、元気になって来ちゃったし」

「早く寝てください」

「了解。『ワルツ・フォー・デビイ』だけにしておく」

「そうしてください」

「じゃあ、またね」


 ボクはエンジンをかけた。


「キミが部屋に戻ってくれないと、安心できないなあ」

「いいの。運転するあなたを初めて見送る人にもなりたいの」

「そうですか」

「そうですよ」


 ボクはギアシフトを握った。


「またな。おやすみ」

「うん、おやすみ」


 ボクはアクセルを踏んだ。

 バックミラーに、手を振っているキミが映っていた。


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