06 パ・ド・トロワ(4)
* * *
佐野先輩は、それまでプレイしていたマイルズ・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』が終わると、再び『ムーン・ビームス』のCDに手を伸ばされました。
「“フラメンコ・スケッチ(Flamenco Sketches)”でゆったりといい気分になったところで、いつ聴いても素敵なアルバムに戻るけど、いい?」
「はい、もちろんです。私にとっても、既に大好きなアルバムですし」
「タマキちゃん」
「はい」
「それは正しい判断だわ。だって、本当に素敵だもんね……ジャケット・デザインを除いて」
私は笑ってしまいました。
「いつ聴いても素敵なんだから、当然お休み前に聴いても素敵なのよ」
確かに、佐野先輩がおっしゃったとおりでした。
「実はね、これ、あいつがプレゼントしてくれたの。誕生日プレゼントだって」
「先輩、7月が誕生月なんですか?」
「ううん、違う。私、2月生まれ」
「そうなんですか! 奇遇です」
「そっか、タマキちゃんも2月なんだよね」
「あれ? 私、お教えしてましたっけ?」
「あいつに教えてもらったの。タマキちゃん、2月の24日が誕生日だって」
「土井先輩にも教えたことはないと思うんですけど……」
「あいつのことだから、研究室で名簿でも盗み見したんでしょ。だからタマキちゃんの連絡先が手帳のアドレス欄にあったし、誕生日だって知ってるのよ。あいつ、言ってたもん。今月もきついけど、来年の2月は金欠確定だって。ふたり分はきついんだって」
私はさらに驚いてしまいました。
土井先輩が私についての情報を必要だと思ってくださったことに。
それに、私にプレゼントを用意しようと考えてくださっていることに。
「タマキちゃんの誕生日、覚えやすいよね。2×2=4(ににんがし)だもん。一度聞いたら忘れないよ」
私は21日なんだ。
佐野先輩はおっしゃいました。私と同じ、魚座です。
「私の場合は、2÷2=1、というのでどうかな?」
もしかして、佐野先輩と私は似ている人になるのでしょうか。
星占い的に。
「やっぱりあいつにとって、タマキちゃんは特別な後輩なのよ」
もし本当にそう思ってくださっているのなら、すごく嬉しいのに。
でも、私が自分でそれを確かめるのは、きっと無理だと思ってしまいました。
「あ、私もプレゼントあげるからね。何かはまだ秘密だけど」
「そんな。いいですよ、私になんて」
「タマキちゃん」
「はい」
「だったら、プレゼント交換しようよ」
佐野先輩はにこやかにおっしゃいました。
「それならお互いさまだし、きっと楽しいよね」
「そうですね。そういうことでしたら」
「決まり」
* * *
「でさ、もうひとつタマキにお願いしてもいいかな?」
土井先輩はおっしゃいました。
「私にできることでしたら」
「うん。『サキソホン・コロッサス』に加えて、『ムーン・ビームス』もテープに録ってきてよ。持っていきたいから」
「分かりました」
「よろしく」
「先輩」
「なんだい、後輩」
「どうもありがとうございます」
私は『ムーン・ビームス』を大事に持ったまま、土井先輩へ頭を下げていました。
「いいって。お辞儀までしてくれるなんて、おおげさだよ」
「いいえ。お辞儀では足りないくらいだと思ってます。ありがとうございます」
土井先輩はまた苦笑いを浮かべていらっしゃいました。
それにしても、土井先輩からプレゼントをいただけるなんて!
私は思いがけず、とても幸せな気分になりました。
「先輩の誕生日には、私もプレゼントを用意しますね」
「あれ? ボクの誕生日、教えたっけ?」
「調べはとうについてますよ」
「もしかして、あいつから」
「さあ、どうでしょう。私だって、研究室で名簿を見るぐらいはできますし」
「そのことは内緒にしてください。お願いします」
「そうですね、秘密にしてあげます。今度」
「今度?」
「今度……そのうち、私のお願いをひとつ聞いてください」
「タマキの、指示に従えばいいの?」
「はい。そのときはきちんと、今回約束したことだからって、念押ししますから」
「仕方ないなあ。了解」
私はいたずらっ子になった気分でした。
土井先輩と秘密を共有できるのが、ちょっと嬉しかったのです。
「よし、タマキにプレゼントを渡せたことだし、ボクはそろそろ帰りますです」
「なんですか、そのしゃべり方」
「深い意味はないのです」
「では……10分ほど待っていただけませんか?」
「別にいいけど、どうかした?」
「先輩と一緒に帰っても、いいですか?」
「そういうことか。もちろんかまわないけど」
「けど、なんですか?」
「これがさっき言ってた約束……じゃないよな」
「はい。当然、こんなに簡単なことではすまないですよ、先輩」
「だよな」
土井先輩は小さな声で、とほほ、とつぶやかれていました。
「しかし……タマキみたいに魅力的な女の子のそばに、こんなおっさんがいてもいいのだろうか?」
「先輩」
「なんでしょう、後輩」
「どうせなら、もっと心を込めておっしゃってください」
「おや。まだ足りないとおっしゃいますか」
「全然です」
「分かりました。では10分後にもう一度言えるように、まずは心を込めてお待ちしております」
私はくすっと笑ってしまいました。
佐野先輩に喝破されたとおり、私は土井先輩が好きなんだ。
たぶん私は今、とてもいい表情をしているはず。
研究室に向かいながら、私はあらためてそう思いました。
* * *
「じゃあタマキ、明後日はよろしくお願いします」
土井先輩はそうおっしゃると、電車を降りていかれました。
そして、私を乗せた電車が動きだすと、軽く右手を挙げて見送ってくださいました。
電車のスピードが上がった、次の瞬間。
先輩から遠ざかる電車のドア越しに、私はずっと土井先輩を見ていました。
だから、とてもショックを受けました。
もう私からは見えないはずだと思われたのでしょう。
土井先輩はひどくうなだれて、気が抜けた様子になってしまわれた。
……そう、見えました。
私と一緒のときは、そんな様子はこれっぽっちもなかったのに。
土井先輩は私にすごく気を遣ってくださっている。
それはとてもありがたいことに違いないです。
でも、別の言い方をすれば、私は土井先輩に気を遣っていただくばかりで、土井先輩の役には立っていない。
こういう時こそ土井先輩の役に立ちたいのに……。
そう気がつくと、私はハンカチで少しだけ目を押さえなければなりませんでした。
土井先輩にとって、私はただの後輩。
サイドシートに座れたとしても、それ以上の距離は縮まらない、ただの後輩。
たぶん土井先輩は無意識だとしても、心には見えない壁がある。
壁の向こうに行かなければ、そのままの土井先輩に触れることはできない。
壁にはひとつだけドアがある。鍵がかかっている。
私はその鍵を持っていない。
持っているのはおそらく、佐野先輩だけ。
だったら……。
私は土井先輩にひとつお願いを聞いていただけるはず。
鍵が欲しいです。
そのドアを開く鍵が。




