06 パ・ド・トロワ(3)
* * *
「よう、タマキ、元気か?」
学内で久しぶりに土井先輩に行き会ったとき、私はどういう表情をすればいいのか分かりませんでした。
「なんか、ヘンな顔してるぞ。そんなにイヤなのか? ボクのサイドシートは」
「そんなことありません!」
私はつい大きな声を出してしまいました。
「だったらいいんだけど……あいつがいなくて、ボクとふたりというのは不満なのかと思うところだったぞ」
「先輩だって」
いつもと違って、なんだか元気がないですよ。
そう思っても言葉にできませんでした。
土井先輩がどんなに落胆したことかと思うと、私までつらい気持ちになってしまったから。
土井先輩はご自分では普通にふるまっておられるつもりなのでしょうけど、ポーカー・フェイスに元気がないです。
私に分かってしまうようではダメですよ。
隠し切れていないですから、どんな気持ちなのか。
「当日のことなんだけどさ」
「はい」
「朝、早くてもいいかな?」
「それはもちろん、先輩がそうされたいのでしたら、私に異存はないですよ」
「了解。ありがとな」
「そんな、お礼を言われるようなことなんて」
「いやいや、タマキがいてくれたらボクも安心だよ。ひとりだと帰って来られないかもしれないし」
「そんなこと、言って」
私は少し不機嫌になってしまいました。
こんな時、いつもなら土井先輩を叱ってあげるところなのですが、土井先輩の気持ちを思うとそうもいかないのでした。
「つきあわせるようなことになって、ごめんな」
「え?」
「あいつがいないんじゃ、今ひとつ気乗りしないだろ」
「そんなことないです。私よりも……」
言えませんでした。私の方こそ申し訳ない気がしました。
「あのさ、タマキ」
「はい」
「うまい空気を吸いに行こうと思ってるんだけど、いいかな?」
「山、ですか」
「あれ? ダメだった?」
「違います違います。私は先輩の行きたいところに行ければ、それでいいんです」
「本当に、いいのですか?」
「もちろんです」
「了解しました。ではそのようにさせていただきます」
「あの、先輩」
「どうかしましたか、後輩」
「なんで丁寧な口調になっているんですか?」
「いや、ちょっと想像しちゃって」
「何をですか?」
「ん~と、その、なんかさ、タマキ教官に高速道路の運転を試験されるような気が」
「そんなことしませんよ。冗談だって分かりますけど、残念ながら面白くないです」
ボクもまだまだ人間ができてないなあ。
土井先輩がつぶやかれたのが、私にはっきり聞こえてしまいました。
「せめて絶叫マシーンにならないように気をつけるよ」
「それは大切なことですね、先輩」
いつもの土井先輩らしい冗談だったので、私は少し持ち直しました。
「先輩」
「はい。なんでしょう、後輩」
「当日のスケジュール、というか、待ち合わせの時間や場所はお決まりですか?」
「おっと、そうだった。危ない危ない」
タマキが素晴らしい後輩で、ホントに助かってるな、ボク。
そうおっしゃってくれるのは嬉しいはずなのに、私は何も言えませんでした。
「朝7時までに、ボクの部屋に来てもらっていいかな?」
レンタカーは明日の夜に借りだして、土井先輩の部屋の近所にあるコイン・パーキングに駐めておくとのことでした。
「タマキに無理言ってつきあってもらうんだから、タマキの部屋までレンタカーを乗り付けてもいいんだけど」
タマキの部屋がどこだか知らないし、もし狭い道路だったら怖いなあ。
そうおっしゃいながら、土井先輩は腕組みをして何やら考えごとをされているようでした。
「そんな。迎えに来ていただくなんてできませんよ。私、ちゃんと先輩の部屋まで行きますから」
「まさか、寝ぼけ眼のボクを襲う気では」
当日の朝、佐野先輩は土井先輩の部屋ではなくご自分の部屋にいるのだとうかがっていました。
「もし寝ぼけ眼になっていたら、私がしっかり目を覚ましてあげますから、大丈夫です」
「お。そこまで面倒みてくれるとは」
「冷蔵庫をちょっと失礼して氷を出して、先輩の襟元から入れてあげます」
「7月とはいえ、それは確かに効きそうだ」
土井先輩は顔をしかめられ、氷を入れられたらどうなるか想像されたようでした。
「あ、そうだ。カー・ステレオがついてるんだって、借りる車に」
デビュー戦が軽自動車だと不満だから、予算的にいちばん安いヤツだけど、普通車にした。
土井先輩はそうおっしゃいました。
「それで、ラジオも聴けるみたいだけど、ここはやはりカセットを持っていくべきだよな」
土井先輩は「90分テープに、ジャズのお薦め曲を録音して持っていくつもりだ」とおっしゃいました。
「タマキはなんか持っていきたいものってある? アルバムとか曲とか、誰の演奏とか」
ジャズにこだわらなくても、ポップスでもロックでもかまわないよ。
土井先輩は続けておっしゃいました。
「せっかくの機会ですから、ジャズがいいです」
土井先輩がジャズ鑑賞会の続きを特別にしてくださるのだと私は思いました。
「では、私は選曲できるほどの知識はありませんので、好きなアルバムをまるごと録音して」
「ということは、もうどのアルバムにするか頭に浮かんでるな?」
さすがは土井先輩です。読まれてしまいました。
「先輩から貸していただいている『サキソホン・コロッサス』を、まず思い浮かべてました」
「さすがだな、タマキ。それは是非頼むよ」
うん、あれなら割とドライヴ向きだし、その分は選曲からはずせるし……。
土井先輩は腕を組み首を傾げて、何か考えていらっしゃいました。選曲については既にプランをお持ちのようでした。
「おっと、思い出した」
「何か大切なことを忘れるところだったんですか?」
「タマキのひとことで連想できた。助かった」
やっぱりタマキはいい後輩だ。
そうおっしゃりながら、土井先輩はいつもの黒い袋型バッグから何かを出されました。
「タマキ、これ」
「え? 私に? なんですか?」
「まあ、開けてみてよ」
土井先輩は、掌に載る大きさの、薄くて四角い袋を私に渡してくださいました。
それにプリントしてある文字を見て、レコード屋さんのものだと分かりました。
セロハン・テープで軽くとめてあるだけのものでしたので、すぐに開けることができました。
「あ、これって……」
「ずいぶん遅くなったけど、日頃の感謝を込めて、誕生日プレゼント、ということにしておく」
私はかなりびっくりしてしまいました。
出てきたのは『ムーン・ビームス』のCDでしたから。
それに土井先輩が「誕生日プレゼント」とおっしゃったことにも。
「ま、そういうことで遠慮なく受け取ってほしいんだけど、もしかして、もう持ってる?」
「いえ、今度買いに行こうと思ってたところなんですけど」
「なら、間に合ってよかった」
土井先輩はほっとされたご様子で、優しい笑顔を浮かべてくださいました。
「あいつも入れて、3人とも持っているアルバムが1枚増えたわけだ」
あいつからちらっと聞いたから、これは買ってこいというお導きに違いないと思ってさ。
土井先輩は照れくさそうに、そうおっしゃいました。
佐野先輩は土井先輩へ指令を出されたのでしょうか。
いいえ、そうじゃありませんよね。
これはきっと、佐野先輩が魔法で呪いを解いてくださったから、ですね。
私は佐野先輩がご自身の左手をパッと開いて見せてくださったことを、思い出していました。
「タマキの誕生日、2月だったよな。もうだいぶ過ぎちゃって申し訳ないけど」
「どうして、私の誕生日……」
「今年の2月は、体力的にも金銭的にもそこまでの余裕がなかったからなあ」
私はさらに思い出しました。
先日、佐野先輩の部屋に泊めていただいた時のことを。




