01 ヴァニラ
キミと鎌倉で1週間を過ごしたことは、ボクにとってものすごく大切な思い出になっていた。
旅行とは言えないけれど、あんなふうにいつもの場所を離れて、いつもと違う空気を吸うのも悪くないと思うようになった。
ボクは出不精のインドア派で、そのことは今でも基本的にはかわってないと思う。でも、1か月近く入院をして、身動きがほとんどできずベッドから出られないという経験をして、考え方をちょっとだけ変えた。
動けるときには、動いた方がいいんだ。動けるのにじっとしているのは、動けるという幸せを放棄しているようなものだから。
* * *
退院して3か月が過ぎていた。5月になっていた。
5日にはタマキがボクの部屋にやってきた。「ジャズ鑑賞会」のためだった。予定どおりに実施できたのは、ボクに体力的な自信が戻ってきつつあったからだ。
「ただいまあ」
タマキを駅まで送っていったキミが、ボクの部屋に戻ってきた。
ボクは玄関でキミを迎えた。
「はいこれ、買ってきたよ」
キミはボクにコンビニの小さな袋を渡した。カップのアイス・クリームがふたつ。
「今日のイヴェント、大成功だったから、ご褒美。私のおごり!」
きみはとても上機嫌だった。
「タマキちゃんもすっごーく喜んでたよ。またやろうねって、言っておいたから」
靴を脱いだあと、キミはボクにそっともたれかかってきた。
「ね、どうする? すぐ食べちゃう? あとにする?」
あ、ヴァニラは私で、あなたはグリーン・ティーにしたからね。
洗面所に向かいながら、キミは言った。
「どうするか、決めた?」
緑色のタオルで手を拭きながら戻ってきたキミに、ボクはこう言った。
「リハビリと気晴らしを兼ねて、車の免許を取ってこようと思うんだ」
* * *
正門から少し離れたところまでマイクロバスで迎えに来てくれる教習所が、大学の比較的近所にあるということは知っていた。ゼミの同僚に通っているヤツがいたことも知っていたけれども、ボクには関係ないと思っていた。
なのに、ボクは購買で教習所のパンフレットを見つけていた。
たぶん前からそこにあったのだろう。これまではちっとも気がつかなかっただけで。
そのくせ、教習所に関心を持ったらすぐに気がつくのだから、不思議なものだと感じていた。
── 世界は不思議で満ちている、って言うのかしら。
ボクはキミのセリフを思い出すことになった。
* * *
「ほらこれ」
そう言って、ボクはキミにパンフを見せた。
「ふうん、いいじゃない。あなたに似合わず前向きだし」
突っ込みを忘れないキミは、なんだか嬉しそうに見えた。
そして、ヴァニラのカップの蓋を開けた。
「正門から離れた場所にいつもマイクロがきてるもんね」
あなたが取るのなら、私はまだ先でいいかなあ。
キミは言った。
木の匙を使って、ヴァニラをひとくち食べた。
「あなたが免許を取れたら、初めてのドライヴはもち」
最後まで言わせない。
ボクから誘うことが大切だと思った。
キミを遮ってボクは言った。
「免許が取れたら、初めてのドライヴはキミと行きたいんだ。約束してくれるだろ?」
キミはフフッと笑った。
右手に木の匙、左手にヴァニラ・アイス。
「もちろんよ!」
キミはボクに近づくと、口づけてくれた。
「あなたから誘ってくれて、とても嬉しい」
あたりまえのようにヴァニラの味がした。
にっこりした表情で、キミはグリーン・ティーの蓋も開けた。
* * *
ボクはとりあえず、5月の後半から、新しいアルバイトを始めた。
教習所に行くにしても、先立つものがなかったからだ。
それに、ある程度は体力的に問題ないと決断できたからでもあった。
とはいえ、軍資金のためだとしても、ここで無理をしてしまうのは得策でないことは充分に分かっていたから、まずは週一で3時間からやってみた。
3時間は問題なくいけると納得できると、週二で6時間に増やした。
そんなふうに少しずつ増やしていき、6月中には、講義の都合もあったけど、週三で10時間程度はコンスタントにできるようになっていた。
* * *
午前の講義が終わって研究室の掲示板を見に行くと、タマキがいた。
「よう、タマキ。元気か」
「こんにちは、先輩。お元気そうで何よりです。……ん?」
ボクはタマキの手元を見てしまった。
そこには、ボクが先日手にしたものと同じパンフがあった。
タマキはボクの視線の先に気づいたようだ。
「あれ? もしかして、車の免許……まだないんですか、先輩も」
「う、うん、そうなんだよ」
「正門を通り過ぎた先に、ときどきマイクロバスを見かけて、教習所から迎えに来てくれるんだって分かったんです。購買に行ったときこのパンフがあったので、もらってきちゃいました」
「へえ」
「不思議ですよね。たぶん前から置いてあったんだと思うんですけど、これまでちっとも気がつかなかったのに。関心を持ったら目に入ってくるんですから」
「……そう、ですね」
タマキはまるでボクの考えたことを知っているかのようだった。
「先輩」
「何、かな」
「先輩、なんか様子がおかしいです」
「そんなことないです」
「ほら、口調が変です」
「そんなことないってば」
実はボクは昨日、パンフについていた申込書をひととおり記入してあった。今日は午後の講義が休講だと分かっていたので、申し込みに行こうと決めていたのだ。
そこにタマキがパンフを持っていたから、焦ってしまった。
「先輩、さっき私の手元、見てましたもんね」
「そうだったかな?」
語尾が上ずってしまった。
「では先輩、まずは一緒にお昼を食べに行きませんか?」
「そうだな、別にかまわないよ」
「ありがとうございます。教習所のマイクロバスの時間を調べたら、次は13時30分だったんです。ですので、時間があまりないことですし、今日のところは先輩の好きな学食に行きませんか?」
「タマキがいいなら、それでいいよ……って、おい」
「どうしたんですか? ちょっと急がないと、乗れなくなっちゃいますよ」
「乗るって、まさか」
「もちろん、13時30分のバスですけど、先輩はご都合が悪いんですか?」
「いや、そんなことはないけど」
「今日の午後、休講ですよね、私も先輩と一緒に受けている必修科目」
「そう、だったな」
「何か用事があるんですか? もしかして、彼女さんとデートとか?」
「いや、あいつは午後ふたコマとも講義のはずだから」
キミの金曜日の午後は講義で埋まっていることを、ボクは知っていた。
ということもあって、今日申し込みに行こうと思ったのだ。
「なら問題ないですよね。ほら先輩、学食に行きましょう」
タマキはボクの右の手首を取って引っ張った。
左には腕時計があるのを知っているからだろう。
「タマキ、まさか」
「なんでそんなにどぎまぎしているんですか? 先輩も行くんですよね、教習所」
* * *
ボクはタマキと一緒に申し込みに行き、夕方のオリエンテーションを受けた。
ボクの隣には、したり顔(に見えた)のタマキが座っていた。