採桑老2
少彦名達が出雲にやってきて、早3ヶ月が経とうとしていた。
否、もう3月が経とうとしている、というべきか。
久延毘古に言わせれば後者であろうし、少彦名に言わせれば前者であろう。
両者の考えの隔たりは一向に埋まることなく、
むしろ今やこのようなささやかな場所にまで及ぼうとまでしていた。
決別の可能性を濃厚に纏ったこの危うい均衡は、
目には見えないながらも厳然と、彼らの未来に暗い影を投げかけ始めていた。
「少彦名様。」
ここ最近、頻繁に聞くようになった、静かだが隠しきれない怒りを滲ませた久延毘古の声に、
言いつけられた用事から戻ってきたばかりの多邇具久は、思わず首を竦めた。
無論注意をされているのは自分ではない。
久延毘古ははっきりと『少彦名』と呼んでいる。
多邇具久は、そっと上目遣いで自分と同い年程度の少年、少彦名の様子を伺い見た。
本来、この件に関して全く関係ないはずの多邇具久を、
しかしこんなにも竦みあがらせる久延毘古の怒気を向けられても、恐らくは一向意にも介さず、反対に人の神経を逆撫でするような態度を取り続けられる謎の少年を。
「そんな風にして怒ると、久延毘古って俺の祖父さんみたいだよなー」
まだ日が高いというのに。既に床には空になった酒瓶が2、3。さも気だるそうに転がっている。
朝から晩まで何もすることなく、ただ酒を呷っているだけという真似が出来るのは、
多邇具久の知識からすれば出雲の国主、素盞鳴の宮廷くらいであろうか。
なんの生産活動にも従事せず、かといって商人のように何かを売るわけでもない。
国主たちのように納税させたり、人を使って何かをさせている様子でもない。
それにも関わらず少彦名は、どこかの御曹司たちも顔負けの毎日を送っている。
苦虫を噛んだような渋面で、何かに必死に耐える久延毘古と。
ふとそこまで考えて、多邇具久は急に自分に与えられた用事、酒を買いに行くこと、を思い出した。
しかし久延毘古が酩酊状態の少彦名に苛立っていることが明らかである以上、
多邇具久にはどうしても少彦名に渡しに行くことが出来ない。
「お、多邇具久。酒を買ってきたのか?」
怒気も露わな久延毘古をきれいに無視し、多邇具久にはありがた迷惑なことに、
少彦名が立ち尽くす多邇具久に気がついた。
「は、はい。」
「多邇具久、下がっていなさい。
少彦名様、私からのお話はまだ済んでいませんが。」
「聞かなくても分かってるよ。
俺が大事な資金を片っ端から酒代につぎ込んで、挙句3ヶ月も経つのに
一向に何の仕事もしないことへの文句だろ。」
臆面もなく言い放たれる開き直りの言葉は、ある意味で性質の悪い挑発に聞こえる。
「・・・・。」
その少彦名の挑発に、まさか乗って喧嘩をしたかったわけではあるまいが。
せめて一言、言えばいいのに。
久延毘古の溜息を聞きながら、多邇具久はそのように考えた。
有無を言わせない雰囲気が少彦名にあるわけではない。
むしろ少彦名は、ある意味で積極的に久延毘古の怒りを引き出そうとしているようにも思える。
そういう付き合いを、この少年は望んでいるのだ。
場違いな安堵は、煩雑な説明を免れ、言わなければならない内容が少なくなったことのためである。
少彦名と久延毘古の身分はかけ離れている。
さらに久延毘古は高天原にいた折も、同僚相手に仕事の話しさえほとんどしなかった。
ただでさえ話をすることが不得手の身。
さらに少彦名はびっくり箱のように、突然何を言い出すか予測不可能なところが往々にしてある。
久延毘古にとって、少彦名という存在はまさに単なる重荷でしかなかった。
その瞬間少彦名の表情が、そんな久延毘古の内心を正確に察し、ほんの僅か歪んだことに、
しかしその場にいた者達は誰も気付けなかった。
久延毘古は自分の考えに深く沈みこんでしまっていたし、
多邇具久は彼らと行動をともにし始めてまだあまりのも日が浅かった。
いくら聡明な彼女でも、其処まで気づけというのは酷であろう。
「酒代として使い込まれた金銭に関しては、これは今更しようがありません。
この件に関しましては、今後このような真似は控えて頂きます。
むしろ私がお聞きしたいのは、・・・。
そもそもこの度の任務をどのようにお考えになっているかということです。」
久延毘古が多邇具久のほうをチラリと見、珍しく口ごもりながらそのようにいった。
久延毘古はそう言っている矢先から、しかし頭を抱えたくなった。
多邇具久の手前、何とか見苦しい真似は堪えたが、この場に少彦名1人であったならば、或いは本当に抱え込んでいたかもしれない。
久延毘古本人でさえ
今回の命令は承服しかねるところが多すぎた。しかし
今回の出雲下向は、密命とはいえ高天原の上層から出た命令である。
また、その目的や目的達成のために必要となるであろう手段なども考慮され、
出発の段階ですでに相当な額の金品を渡された。
久延毘古などは一生縁がないと思われるほどの金額に、一瞥しただけで思わず眩暈さえ覚えたほどである。
しかしそれが、僅か3か月を経過しただけで、
本来の役向きがまだ何も手についていない段階で、半分以下にまで減ってしまった。
勿論、何ら生産活動に従事しないものが3人もいるのだから、日々の生活を送るだけで支出が起こる。
それも収入に依る相殺の全くない、完全な支出である。
当然、生活費は活動資金から賄われ、結果資金は減ってゆく。
それは仕方がない。
だが支弁された金品は、少なくとも3人程度人員の生活費で消費する程度では、何十年かかっても使いきれない額があった。
それが。
たった3ヶ月で・・。
久延毘古は決して金銭の心配をしなければならないことが心苦しいわけではない。
自慢ではないが、この3人の中で生活能力があるのは自分一人だという自負はあった。
多邇具久はまだ子供である。
子供に、曲がりなりにも大人二人の生活のやりくりの面倒を見させることは出来ない。
そして、久延毘古はまだ多邇具久を自分達の任務に巻き込む事を躊躇していた。
成功しても失敗しても殺される公算が高い。
否、最悪自分達には逃げる先がある。
高天原だ。
しかし彼女一人だけには、逃げ場所はどこにもない。
今からでも遅くはない。
何も知らない、全く関係のない、どこかに隠してやるべきか・・。
久延毘古は一人、何度も真剣にそう考えた。
しかし彼らに与えられた任務、出雲王朝の転覆、を果たしてしまった暁には。
もっとも実はそれは契機に過ぎない。高天原の軍勢は出雲を灰燼に帰させた後、
一気に、豊葦原全体に戦火を放つ。
彼女のいるべき場所。
一切が無縁の場所など、実はどこにもない事を久延毘古は考えずにはいられない。
しかしこの少女をまだ巻き込めないでいるのが、実は久延毘古ただ一人だけであることを、
彼一人だけがまだ知らない。