第6話
店の外に出ると、入店時と比べて、街はずいぶん静かになっていた。ピークを過ぎたのだろう。夜明け前の冷たい風が吹いている。俺はママから教わった住所のほうへ歩き始めた。そのときだった。
「探したぜ」
ハッとして横を見ると、夕方のスーツ姿の男が傍にいた。俺が驚いた顔をしたのだろう、男は満足げにニヤリとした。
「入っていくところを見かけて、店から出てくるのを待ってたんだよ。おかまバーで豪遊たぁ、呑気なもんだな」
腕を背中でひねるようにつかまれた。なすすべもなく、店の裏手へと連れて行かれる。通りから死角になっている場所で、俺はみぞおちを思い切り殴られた。
膝から崩れ落ちる。夕方食べたカレーの味が、喉元まで逆流した。今度は背中を蹴られた。顔から下を狙うのは、やっぱり堅気じゃない証拠だなと、俺は声にならない声でつぶやいた。
「手間かけさせやがって」
デニムの尻ポケットから、iPhoneを抜き取られた。必死に抵抗しようとするが、俺はただもがいているだけだった。
ここまで来て、この結果か。みらいの居場所はもうわかっている。ここから歩いて10分だ。でもiPhoneなしでは、俺はみらいには会えない。会う資格はない。二丁目の路地裏で転がっているだけの無力な人間にだって、修理屋としてのプロ意識はある。俺は男の足にしがみついた。
「離せよ」
もう片方の足で頭を蹴られる。とがった革靴は、ちょっとした凶器だと知った。それでも必死でしがみついた。
不意にゴン!という鈍い音がした。俺が殴られたのかと思ったが、違った。
デカい中華鍋を担いだ咲良ちゃんが立っていた。
「何するんだよ、カマ野郎!」
咲良ちゃんは後頭部をもう二発殴ったあと、さらに男の首の後ろに手刀を喰らわせた。変な声を出して、男は崩れ落ちてしまった。
「元自衛官、ナメるんじゃないよ」
たくましい腕で助け起こされる。ママやほかのキャストもやって来た。咲良ちゃんは「はい、大事なもの」とiPhoneを渡してくれた。
「あんたのことがなんだか気になって、見送ろうと思って出たのよ。そしたら男に絡まれてるじゃない!? 心臓が止まるかと思ったわよ」
「咲良が血相変えて、『死んじゃう死んじゃう!』って大騒ぎしながら、中華鍋つかんで飛び出して行ったのよ」
「だって怖いじゃない~~」
咲良ちゃんはおしぼりを持ってきて、俺の顔についた汚れをぬぐってくれた。俺は夢の中にいるような心地で、「いいんですか」とつぶやいた。
「ここ、店の敷地内だもの。営業妨害よ」
ママは悠然と煙草をくゆらした。俺は咲良ちゃんに向き直った。
「咲良ちゃん、ありがとう」
「男ひとり守れないなんて、女がすたるでしょ」
何故か咲良ちゃんは、最初のツンデレな態度に戻っていた。そっけなく「絶対、また来るのよ」と言った。
「来ます」
俺は咲良ちゃんに右手を差し出した。咲良ちゃんは意外そうな顔をしたが、しっかり握り返してくれた。俺は力いっぱい握手した。そういう気分だった。
4時半を過ぎて、もう夜は去っていた。太陽はすでに昇り始めていて、酔っぱらってうずくまる人たちや、抱き合ってキスを交わす人たち、街の隅から隅まで照らす。朝の光を頬に感じながら、俺はママから教えられた住所へと向かう。新宿6丁目、新宿の東の外れだ。つまり、俺の働く店と驚くほど近かった。
探していた店は、何の変哲もない普通のビルの地下1階にあった。階段を下りると、店の入口の横に竹が飾ってあり、涼しげな風情を演出していた。引き戸の横に、白で「藹」と染め抜かれた紺色の布が、看板代わりにかけてある。俺はガラガラと引き戸を開いた。
「ごめんなさい、今日はもう終わりなんですよ」
カウンターの中でグラスを拭いていた声の主は、俺の姿を認めて、意外そうに小首をかしげた。
「あら、本当に届けに来てくれたの」
「ずいぶん探した」
「でもたどり着いたのね」
みらいはベージュっぽいシンプルな着物を着ていた。髪の毛を肩の上で切りそろえていて、動くとうなじが見え隠れした。
「あのさ。店名、読めねえよ。検索にも引っかからない」
「仲良くしてることを、『和気藹藹』っていうでしょ。その『藹』よ」
「漢字、苦手なんだよ」
「あんたは昔から理系だったもんね」
カウンター席で瓶ビールを飲み干した最後の客が、俺たちのやり取りを見て「えっ、みらいちゃん、もしかして彼氏?」と尋ねた。
みらいは微笑んだ。
「弟なんです」
俺には3歳上の兄貴がひとりいる。
みらいは俺が中3のときに家出した、俺の兄貴だ。