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第2話

 踵を金づちで殴られたような衝撃がした。続いて視覚が勘を取り戻す。気づいたときには、俺は隣のビルの屋上にしゃがみこんでいた。慌てて尻に手をやる。iPhoneはちゃんと収まっていた。

「ふざけんな!」

 新宿ラッキービルディングの4階ベランダで、男が叫んだ。俺は弾かれるように立ち上がり、屋上から1階まで繋がっている外階段のドアへと走った。

 ドアノブに手をかける。しかし、動かない。なんてこった、鍵がかかっているのだ。

 ガチャガチャとやりながら振り返ると、作業場から男の影が消えたのが見えた。先に降りられたらまずい。

 俺は外階段のフェンスを握って地上を見下ろした。気が進まないが、仕方がない。再び尻ポケットのiPhoneを確認すると、外階段のフェンスをつかみ、足をかける。全体重をかけたら、腕と足をゆっくり下にずらしながら、慎重に足場を探す。階段の手すりを足で探し当て、右手で手すり、左手でフェンスをつかんで、階段の中に着地した。螺旋階段を駆け下り、地上に出る。右を見ると、新宿ラッキービルディングから男が出てくるところだった。俺は駆け出した。

「待て!」

 人通りの少ない道を、俺は一心不乱に走った。大きなオフィスもなく、地元の小さなパン屋や薬局は、とっくの昔にシャッターを下ろしている。薄暗い路地には、こちらの速度をあげさせないとでも言うように、急な曲がり角やカーブがたびたび現れる。路地を曲がり、石の階段を駆け上がり、細い坂を下る。

 やっと少し開けた道路まで来た。信号を渡るか、左手に坂を上るか、それとも下るか。視線を上げて見渡すと、右手方向に、円が何枚も重なったような鉄塔がそびえたっていた。視界の端に男の姿が映った。俺は東に向かって走り出した。

 視界が明るくなった。靖国通りに出たのだ。車の交通量と人通りがぐっと増える。少し安堵しながらも、鉄塔を目印にしながら、曙橋駅を通り過ぎる。靖国通りと外苑東通りがぶつかる大きな交差点を渡り切り、さらに走る。高い塀を左手に走りながら、デカい建物の門の前まで来て、ようやく俺は止まった。両ひざに手を付き、息を整えながら顔を上げると、「防衛省」と書かれた看板が鎮座していた。奥に、ロボットの無数の赤い目みたいにライトが点滅する鉄塔があった。防衛省のランドマークだ。

 どこで撒けたのかはわからないが、男の姿はもう見えなかった。それにいくらなんでも、防衛省の前で乱闘をする馬鹿はいないだろう。門の前に立っている守衛は微動だにしないまま、少し不審そうにこちらを見ていた。俺はのろのろと立ち上がった。

 しばらく店に戻る気にはなれない。俺はiPhoneを取り出して、パスコードを入力した。客の持ち物を使うことに抵抗はあるが、元凶はそもそもこれだ。それに自分のiPhoneは店に置いてきてしまっている。

 LINEを起動させると、みらいとのトーク画面が現れた。LINE電話の発信ボタンを押した。

「もしもし」

 みらいが出た。

「いきなりすみません。このiPhoneを修理で預かっている、ビッグアップル新宿店て店の店員です」

「え?」

 よそ行きの声を切り替えて、俺は単刀直入に言った。

「ていうか、俺。勇気」

 みらいが聞き返した。

「もう一回言って?」

「勇気。あんた、俺の知ってるみらいだろ」

「うっそ」

 しばし絶句したあと、みらいは急に笑い出した。

「マジで? こんなこと普通起こる? ほんとに勇気? 元気してたの」

 軽やかな笑い声。俺は懐かしいような、むずがゆいような、落ち着かない気分になった。

「笑うなよ。このiPhoneのせいで、面倒なことになってるんだから」

 俺が一部始終を話すと、みらいはようやく真面目な口調になった。

「そう。迷惑かけて悪かったね」

 風格を感じさせる声音だった。詳しく聞かなくても、みらいは状況を理解しているようだった。

「動画ってなんだよ」

それは言えない、とみらいは断った。俺もそれ以上は聞かなかった。

「とにかく、このiPhoneを預けるから、持ち主に返してくれないか。今から会えないか?」

「私、仕事なの。今日は無理」

「困る。俺だって一刻も早く手放したい。休憩時間とかあるだろ」

「ひとりで店を任されてるから、出られないのよ」

 とはいえ、このiPhoneを持ったまま店に帰るのも、ましてや家に帰るのも気が重い。なおも食い下がると、みらいが言った。

「そんなに言うなら届けに来てよ。新宿で働いてるから」

 まさか、同じ新宿とは。世間の狭さに驚いていると、みらいが声のトーンを落とし、「あ、お客さん来ちゃった。もう切らなきゃ」と早口で言った。

「待って。店の名前は?」

「『あい』。じゃあね」

 無慈悲にも電話は切られてしまった。しばらくiPhoneを見つめたが、それ以上の変化はなかった。

 今夜はもう、店のことは放っておくことに決めた。盗まれるようなものはないだろうが、何かあったら明日オーナーにひたすら謝るしかない。

 それにしても、この広い東京で、こんな形でみらいと巡り合うことになるなんて。急に姿を消してから、もう10年近く会っていなかったというのに。

 俺はSafariを起動すると、グーグルの検索欄に「新宿 あい」と打ち込んだ。

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