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第1話

 夕方に食べるチキンカレーはうまい。揚げ玉を無料トッピングしたものなら、尚更だ。近所の喫茶店ではやめの夕食を終えた俺は、イヤフォンで音楽を聴きながら、店への帰り道を歩いている。靖国通りを内側に入り、路地を抜けていく。「iPhone修理ビッグアップル新宿店 この先20m 新宿ラッキービルディング4階」という看板が見える。俺の働く店だ。

 このあたりは新宿といっても東の端の端、市ヶ谷か四谷と言ったほうがまだ正確で、しかもどの駅からも歩く。最近になって大型マンションが建ちつつあるが、昔ながらのこじんまりとした個人ビルや住宅が多く、新宿という言葉のイメージからは程遠い。こんな半端な場所に店を構えたのは、オーナーの河村さんが物件探しをしているときに、「新宿ラッキービルディング」というビル名をいたく気に入ったからだそうだ。河村さんは、「商売はそういうことにこだわるのが大事だ」と力説していた。俺はそうですか、とだけ答えた。ちなみにビル名の由来は、持ち主が荒木さんという名前で、だから「ラッキー」。ビルが建った昭和40年代は、そういう笑いのセンスが良しとされていたのかもしれない。

 ビルの急な階段を上がる。このビルはネーミングセンス同様年季が入っていて、いまどきエレベーターが付いていない。その代わりに、足腰が弱っている荒木さんの奥さん(85歳を過ぎた婆さんだ)が上り下りできるよう、駅にあるような車椅子用のエスカレーターみたいなものが取り付けられて、ただでさえ狭い階段が、もっと狭くなっている。ちなみに、旦那さんのほうは3年前に亡くなっている。

 店のドアのプレートを、「外出中」から「OPEN」に架け替えた。今日は俺しかシフトが入っていないが、ひとり番のときも、昼飯時と夕飯時は30分ずつ外出していいことになっている。駅から遠い不便な店ではあるが、忙しくないというのは、働く人間にとっては時に利点でもある。ついでに、黒のキャップにピアス、チャムスのパーカーと古着のデニム、アディダスのスーパースターという普段着のままで接客することが許される、服装規定のゆるさもこの店のいいところだ。

 7坪ほどの小さなこの店で、俺はiPhoneなどのスマートフォンの修理工をやっている。一番多いのは割れたフロントパネルの交換。これは早ければ15分程度、機種にもよるが5500円から受けている。バッテリー交換やホームボタン故障の修理もニーズがある。表には出してないが、人づてに頼まれればジェイルブレイク――つまり改造もやっている。ただ、そういうことを頼んでくる客は本人がオタク気質なので、どちらかというと情報交換やサークル的な色合いが濃い。

 入口の目の前に受付カウンターがあり、売り物のiPhoneケースやイヤホンなどのアクセサリー類が並べてある。カウンター横にはカーテンがかかっており、その奥に作業場がある。俺は自分のiPhoneを充電器につなぐと、代わりに引き出しに入れてあったiPhone5Sを取り出した。2日前に預かった物だ。水没したiPhoneを、データを消さずに復旧させてほしいという依頼だった。正規のアップルストアに頼むと時間がかかるうえに初期化されてデータが飛ぶので、それを厭う客は、うちのような修理屋に持ってくる。

「絶対にデータは消さないでください」

 女性の客だった。何度も念押しし、2日後の20時に取りに来ると言って帰って行った。約束の時間まで、あと1時間半。すでに修理は終わっているので、カバーを付け直し、電源を入れて動作を再確認する。動作確認のために、客には申込用紙にパスコードを記入してもらっている。何かのゆるキャラを待ち受けにしたホーム画面が現れると、溜まっていたLINEやメールの通知が押し寄せた。もちろん店側がその詳細を見ることはない。

 画面を磨こうと、クリーナーを手に取ったときだった。LINE通話の着信だった。画面を見た俺の指先が止まった。


 着信欄の「みらい」という名前。そして見覚えのある整った顔。


 おそらく、いや間違いなく、それは俺がかつて知っていた人だった。もう何年も前に、「私は東京の女の子になりたい」と言って突然姿を消したのが、みらいだった。

 電話は鳴り続けている。だが、あと数秒もしたら不在着信に切り替わる。俺は呆然と画面を見つめている。アプリ加工された写真のみらいが、こちらに向かって微笑んでいる。

店側が客のプライバシー情報を見ることは、越権行為だ。電話に出るなんてありえない。場末の店で働いていても、そのくらいの矜持は持ち合わせている。だが今、俺は正常な判断ができなくなっているらしい。この着信が絶えたら、みらいには二度と繋がれないかもしれない。気づくと、俺は通話ボタンを押していた。

「もしもし?」

 記憶の中の声より少し高く聞こえたが、まぎれもなく、俺の知っているみらいの声だった。

「何度も連絡してごめん。こないだの件、香苗さんから聞いたよ。あんた何やってんの。香苗さんも怒ってるよ。てか、それ以上に心配してる」

 あれ、電波悪い? 聞こえてる? と声が続いたが、俺は一言も発せずにいた。

「とにかく、あの動画使って商売しようなんて、絶対やめといたほうがいい」

 思いがけない言葉が飛び込んできた。

「悪いこと言わないから、今すぐ荷物まとめて、しばらく実家に帰りな。東京でうろうろしてたら、下手したら、殺されるよ」

 もしもーし、聞こえてる? これから仕事だから、じゃあね! 話していた内容とは裏腹に明るい声で挨拶すると、みらいは電話を切った。

 ホーム画面を見つめたまま、俺はしばらく動けなかった。

 チリン、とドアが開く音がした。ハッとして立ち上がる。客がiPhoneを取りに来たのだろう。手元のiPhoneをロック画面に戻し、慌ててカウンターに顔を出した。

「いらっしゃいませ」

 だがそこにいたのは、スーツ姿の男だった。新規の客だろうか。

「修理でしょうか?」

「預けたiPhoneを引き取りたい」

 男は、俺が今持っているiPhoneを預けた女性客の名前を口にした。

「引換証はお持ちでしょうか?」

「ない」

 男は慇懃に言った。

「失礼ですが、ご本人様ではないとお見受けしますが」

「代理で来てるんだ、早くしてくれ」

「申し訳ございませんが、引換証がございませんと、お渡しできかねます」

「代理だと言っているだろう。本人に頼まれたんだ」

 男はイライラし始めていた。俺はそっと男の格好を見る。恰幅のいい身体に、剃り忘れたような髭、長め丈のジャケット、分厚いシルバーの腕時計。鞄は持っていない。スーツ姿ではあるが、普通の勤め人ではないと直感した。

「何かご確認できるものは……」

「何度も言わせるな。ないと言ってるだろう。早くしろ」

 男はめざとく、俺が握っているiPhoneを見つけた。

「そのカバー、それだな」

 俺は一歩後ろに下がる。男がカウンター越しに手を伸ばす。

 これを渡してはいけない。俺は男に背を向けると、カーテンの奥の作業場に飛び込んだ。「おい!」という声がする。作業場を見渡すが、残念ながら隠れられそうな場所はない。警察に電話するか? みらいの言葉を思い出し、躊躇する。何故男がこのiPhoneを奪いに来たのか、持ち主が何をやってるのか、みらいがどう関わっているのか知らないが、ロクでもない案件であることだけは確かだ。

 そもそもこの店自体、割とグレーゾーンの上に成り立っている。向こうだって、それをわかって強硬な手段に出ているのだろう。やはり警察のお世話にはなれない。

「渡せ」

 男が作業場に入ってきた。俺は机とソファの間をすり抜け、狭いベランダに出た。

 初夏の宵の口だ。まだ外は薄明るい。俺はエアコンの室外機に上った。さらに、ベランダのふちに足を掛ける。

「てめえ、何するつもりだ!」

 何するも何も、ここまできたら、やることはひとつしかない。幸か不幸か、隣のビルは3階建てで、ビルとビルの間は1mくらい。中高とサッカー部だったから、脚力にはそれなりに自信がある。それでも、下を見るとクラッとした。野良猫の通り道に挟まって死ぬのは、いくらなんでも割に合わない。

俺はしっかりと、iPhoneをデニムの尻ポケットにねじこんだ。

 みらいの馬鹿野郎め。

 そういえばみらいは陸上部だった。みらいならこの虚空もきれいに跳ぶだろうなと、思い切りジャンプしながら、俺はそんなことを考えていた。



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