3 界渡り
桜が咲いてきましたねー!
まだほんのちょっとしか散ってません。
「さあ、どうぞ。ここに座って」
リビングへと連れてきた彼を誘導し、ソファに座らせる。大人しく座った彼を確認して、「ここにいてね」と言いながらキッチンへ向かい、新しいコップと水差しを用意してから戻る。
ソファの前にある低めのテーブルに盆を置いて、私は床に座った。
しっかりと膝を揃えてお行儀よく座っていた彼は言った通りに大人しくしていたようだ。着ていた服を不思議そうに眺めて、引っ張ったりしている。
ズボンのチャックに触った事が無かったのだろうか。訝しげにちょんちょんと触っていて、なんだか少し可愛い。
見上げる形になった姿勢で話し出す。視線は、彼の方が高かった。
「さっきも言ったけど、私の名前は湯澤 棗だよ。…ここが、きっと君のいた所とは違うところだって事は分かる?…もし分かるなら、どうしてかも、聞いて良い?」
私の言葉に戸惑うように視線を彷徨わせた後、彼は小さく頷いた。
「魔力の暴走によって引き起こされた、界渡り…だと、思います」
充分に子供らしい高音だが、何処か淡々としている。その言葉に、私は目が点になった。
「か、界渡り…?」
「はい、恐らく」
またこくり、と頷く彼。翠の髪が、肩からさらりと流れ落ちた。
”界渡り”。全く聞き馴染みは無いが、多分、”世界を渡る”とかそういう類の言葉だろう。
「ここにあるものは、殆ど全て見たことがありませんから」
「そう…」
じゃあ、帰り方は分かるの?
そう尋ねると、彼は表情を微かに曇らせた後、軽く首を振る。
「それが、分かりません。今まで1度だってこんな事が起こった事は無かったので。どうして界渡りが起こってしまったのかも…」
顔を俯けて、そう小さく呟いた。
まだ色々と聞きたい事はあったが、そういえばそもそも彼は怪我をしていたのだと、服の隙間から見えるガーゼを見て思い出した。
「そろそろ、部屋に戻ろうか」
そう言いつつ手を差し出し、立ち上がりながら彼を見る。
しかし彼は、戸惑うような視線を私の手に向けて、手を取ろうとはしない。
「どうしたの?」
声をかけると、彼はハッと私の方を見上げた。まるで人に慣れていない小動物のように、その瞳は小さく揺れている。もう一度ほら、と手を出しても、彼の手は動かなかった。やっぱり警戒されてるんだ、と当たり前であろう事を思いながら、私は苦笑して立ち上がった。
「ついておいで」
先導しながら部屋へ戻り、彼をベッドに座らせる。
持ってきたコップに水を注いで彼に差し出すと、私の行動をじっと見つめていた彼は、それに戸惑うように目をやった。
「普通の水だから、大丈夫」
今は疲れているだろうから、しっかり水分とって休んでね。
そう優しく言うと、彼はそっと手を伸ばしてコップを受け取る。そのまま口をつけてゆっくり飲んでいくのを、私は静かに見守った。
しばらくして返されたコップを受け取り「まだ飲む?」と聞いてみたが、要らないと彼は首を振った。
さらさらと音がしそうなほどに靡く髪に、まるで引き寄せられる様にそっと手を触れさせる。ビクッと跳ねた肩に苦笑しつつ、梳く様に優しく撫で下ろした。
手触りが、絹の様に滑らかだ。今は少し寝乱れて絡まったりもしているが、櫛で梳かせばすぐにさらさらになるだろう。
そんな事を思いつつ、最後にひと撫でしてから手を離した。
視線を髪から下ろしていくと、長い翠の睫毛に縁取られた紫の瞳とかち合った。どこかとろんとした様に瞼が半開きで、もうそんなに眠くなっていたのかと慌てた。そっと肩を押して、枕に頭をつけさせる。
最後に髪を整えた後顔を覗き込むと、もうすでに小さな寝息を立てていた。
微かに開いた唇から、すうすうと寝息が聞こえる。僅かに紅潮した頬が幼子の様で可愛らしい。
暫く観察したのち、起きなさそうだと判断した私は、起こさないようにそっと立ち上がり部屋を出て行った。
*
「界渡り、か…」
1人戻ったリビングで、小さく呟く。
彼があまりにも落ち着いていた手前、あまり驚けなかったが、本当に世界を越えるようなものが存在していた事に、本音では少し、いやかなり動揺していた。
彼は、”世界を渡った”事を分かっていた。けれど自分がやったわけではなく、”魔力の暴走によるもの”だと言っていた。
ーー魔力。この世界には絶対にないものだ(勿論物語の中は除くが)。それがきっと、彼の世界には当たり前に存在するのだろう。
それに、さっき初めて顔を合わせた時通じなかった筈の言葉が、いつの間にか通じるようになっている。
きっと、彼がその”魔力”を使ったのだろう。どうやってかは分からないが…。
「これから、どうしよう…」
戻る方法も何もかも、今は分からない。いつかは、分かるのかもしれない。
だが、それは何時?
1週間、1ヶ月、1年?
…それとも、明日?
何も分からない。けれど、それは彼だってそうだろう。それに、あの傷が回復してこの家を出ていくとなれば、彼は一体何処へ行くのだろうか。
いっそのこと、ずっといてもらっても構わない。
私は、人付き合いが苦手だ。けれど、あの子だけは、何故か関わりたいと思った。
こんな短時間でそんな事を考えるなんて、私はどうかしている。突然現れた子に、一緒にいても良いなんて思うとは。今までは、絶対にそんな事無かった。
…けれど、実際今はそう思っている。
もし彼が承諾してくれるなら、この家に居ても良いと、提案してみようか。
ふと思考から抜けて顔を上げると、壁に掛けられた時計が目に入った。
朝の9時。平日の朝にしては少し遅い起床だ。瞬間、ぐううぅー…という音がリビングに響く。お腹を軽く押さえつつ、そういえば朝食がまだだったと思い出して、私はひとりキッチンに向かった。
来週はもう新学期ですね!
しゅ、宿題やってない……!