2 翠髪の少年
お腹が痛い…!
次の日私は、微かな呻き声を耳にして目を覚ました。
「……うぅ…」
苦しそうな声にパッと跳ね起き、自分が昨日ベッドに寄りかかったまま眠っていたのに気がついた。
声のした方を見やると、部屋のカーテンの隙間から差し込む朝日に照らされた、少年の寝顔があった。細い眉が顰められ、苦しそうな表情だ。
そっと近づいて、前髪をわきに避けて額に手を置く。
「……熱は無い、かな」
熱は出ていないようで、少し安心した。
手を離して立ち上がり、いつの間にかはだけていた布団をかけ直してから盆を持って立ち上がり、部屋を出た。
コップを軽く洗いつつ、彼の姿を思い出してみる。
昨日の夜、眩しい光と共に突如として現れた少年。見たところ、10歳くらいに見える彼は、今まで見たこともない色彩を纏っていた。
日本には、いや、世界中のどこにだっていない(但しコスプレは除く)であろう翡翠色の髪。
お湯をかけて洗っても色は落ちなかったから、完全に地毛だ。根元からしっかりその色だったので、間違いないだろう。
瞳の色はまだ見たことが無いが、きっと髪と同じ様に、綺麗な色をしているのだろうと思う。
しかしそこよりも問題なのは、一体彼が何処から来たのか、そして誰なのか、である。
もしかしたら、今流行りの”異世界トリップ”というやつかもしれない。
光に包まれて、突然に現れる。こちらの世界からではなく、あちらの世界から、なので、”逆トリップ”と言うべきだろうか。
そういう類の小説が好きなお陰で、すんなりとそう思った。
どっちでもいいが、問題が1つある。
彼を今後、どうするかだ。今は事情が分からないからどうしようもないが、怪我が治るまで、あるいはこの世界に頼れる人がいるかどうか判明するまで、この家にいてもらうしかない。
まあその為には、お約束事だが言葉が通じるか確認しなければならない。
トリップ特典とかで言葉が通じればいいが、通じなかったからかなり困る。
もともと人と話す事が苦手な私が、幼そうな子、まして赤の他人との会話を、成り立たせることができるかどうかが心配である。
「どっちにしても、あの子が起きるのを待たなきゃ」
濡れた手を拭きながら呟く。
すると、何処からか喚くような声が聞こえてきた。
「……っ、起きたの、かな?」
急いで駆け出して、自分の部屋へ向かう。
近づくごとに大きくなってくるわめき声に眉を顰めつつ、急いで扉を開く。
「…、どうし、たの…、……!痛っ」
ーードサッ
扉を開いて中に足を踏み入れた瞬間、何かに腕を掴まれ、床に押し倒された。
腕を後ろに回されて、ギリギリと締め付けられる。
その痛みに、抵抗もできずに呻いた。何かを喚いているようだが、何を言っているかは分からない。暫く暴れるも、私を押さえつける腕は意外に強くて、なかなか外れない。
しかしある時、ふと押さえつける力が弱まった。それと同時に声も止み、私は戸惑いに目を瞬かせた。背後から、そっと語りかけるような声が聞こえてくる。何を言っているかは分からないが、そこに怯えの様な音を感じて、私は小さく口を開いた。
「大丈夫。私は、あなたに危害を加えようとしてる訳じゃないの」
そっと、安心させるようになるべく穏やかな口調で話すようにする。
大丈夫、私は敵意なんて持っていない。そう強く思って、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
そのうちに、腕の拘束が解かれた。
刺激しないようにゆっくりとした動作で起き上がり、後ろを振り向く。
そこにいた人物と、目があった。
警戒して毛を逆立てた猫のような、尻尾を丸めて怯えた犬のような目でこちらを見ていたのは、宝石の様に美しく煌めく紫色の瞳だった。困惑と懐疑の色を宿しながら睨みつけるようにこちらをまっすぐ見るその眼差しに、私はそっと笑みを溢した。
戸惑ったように瞬く瞳。1歩、2歩と後ろに下がった彼は、私がそれ以上の動きをしないことがわかると、未だ警戒した様子なものの、少しだけ緊張を解いた様だ。
そして、口を開いて何かを話す。
「…××××××?」
「…ごめんね、わからないよ」
聞こえたのは、耳に覚えのない音の連なり。
私が困ったような顔で首を振ると、彼はやっぱり、というような顔をした。
そして、少しずつ私に歩み寄ってくる。訳が分からず私が首を傾げると、少しだけぴくっとして立ち止まったが、それだけだと分かるとまた歩みを再開した。
まさに亀の歩みというべき遅さだったが、私は辛抱強く動かずに待った。
やがて彼は私の目の前に辿り着くと、私の頭に両手を翳した。
何かを呟いて、目を閉じる。それを不思議に思いながら彼を見ていると、彼の掌から光が溢れ出した。穏やかな、オレンジ色の光。その明るさは、目を痛めない。その光は私の頭を覆った後、、彼の手へと戻っていった。
暫くして手を離した彼は、私から3歩ほど離れると、再び口を開いた。
「…僕の言っている言葉が、分かりますか?」
その落ち着いた声に、私は目を見開いた。
さっきまでは分からなかった彼の言葉が、今なら普通に分かる。
無意識に頷きつつ、私は驚愕の眼差しで彼を見つめた。
今朝とは違って、小学生くらいの幼げな顔立ちには何の表情も浮かんでいない。
少し乱れた翠の髪に、前髪の隙間から除く紫の左目。
右目は髪に隠れていて、見えなかった。
「…良かった」
少し低めのソプラノは、耳に心地よい。表情は変わらないながらも、彼が安堵したのは私にも分かった。
急に動かないように気をつけつつ、落ち着いた動作で立ち上がり手を差し出す。
「初めまして。私は湯澤 棗って言います。
…君に害を加えないと約束するので、ついてきて貰っても良いですか?」
にっこりと微笑みながら、彼を見やる。
驚いたように瞠目した彼は、暫く逡巡したのち、やがて軽く息を吐きながら「はい」と応えた。
歩き出した彼の前に、また手を差し出す。
首を傾げた彼に、「起きたばっかりだし、体の調子も良くないでしょ」と言ってさっとその手を取る。
慌てた様に手を動かす彼の、その小さな手を安心させるようにそっと握りしめて、私はリビングへと向かった。